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宮平春子さんと宮村トキ子さん姉妹の証言

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「集団自決」を体験した座間味村・宮平春子さん(82)のスピーチ
(宮里芳和さん代読・6分27秒)
http://202.90.10.24/janeye/shiminkisha/0709303201/01/0709303201_yomitan_a.html


宮平春子さんと宮村トキ子さん姉妹の証言(座間味)


沖縄タイムス
2007年7月6日(金) 朝刊 1面
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200707061300_01.html

「軍命受けた」助役明言/妹2人が初めて証言
座間味「集団自決」45年3月25日夜
 沖縄戦時下、座間味村で起きた「集団自決(強制集団死)」で、当時の助役が「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている」と話していたことが、助役の妹二人の証言で六日までに分かった。当事者が初めて証言した。「集団自決」の軍関与が教科書検定で削除され、軍命の有無をめぐる裁判が進む中、日本軍の軍命を示す新証言として注目される。(編集委員・謝花直美)
 証言したのは「集団自決」で亡くなった当時の座間味村助役の宮里盛秀さんの妹・宮平春子さん(80)=座間味村=と宮村トキ子さん(75)=沖縄市。

 座間味島への米軍上陸が目前となった一九四五年三月二十五日夜。春子さんら家族と親族計三十人が避難する座間味集落内の家族壕に、盛秀さんが来た。父・盛永さんに対し「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するよう言われている。間違いなく上陸になる。国の命令だから、潔く一緒に自決しましょう」というのを春子さんが聞いた。午後十一時半に忠魂碑前に集合することになったことも伝えた。

 集合時間が近づき、壕から出る際、トキ子さんの目前で、盛永さんは盛秀さんを引き留めようとした。盛秀さんは「お父さん、軍から命令が来ているんです。もう、いよいよですよ」と答えた。

 その後、盛秀さんは産業組合壕へ移動。同壕の「集団自決」で盛秀さんら家族を含め六十七人が亡くなった。

 当時、盛秀さんは防衛隊長も兼ね、軍の命令が村や住民に出されるときには、盛秀さんを通した。

 春子さんもトキ子さんも、沖縄県史や座間味村史の編集作業が行われた七〇―八〇年代に同島におらず、証言の機会がなかった。

 座間味島の「集団自決」の軍命を巡り、岩波書店と大江健三郎さんが名誉棄損で訴えられた「集団自決」訴訟では、元戦隊長が、助役が軍命を出したと主張。さらに訴訟資料を参考に文科省の教科書検定で、「集団自決」記述に修正意見がつき、日本軍関与が削除されている。





「集団自決」生涯忘れず 宮平春子さん証言(琉球新報)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-25258-storytopic-1.html


 「集団自決」のあった座間味島を視察で訪れた県議会文教厚生委員会の委員らに対し、座間味村阿佐の宮平春子さん(80)は6日、当時助役を務めていた兄の宮里盛秀さんが米軍の上陸が目前に迫った時、父の盛永さんに「軍から玉砕するように言われている」と伝えていたことを証言した。宮平さんは教科書からの「集団自決」の日本軍関与削除について「あの悲しみ、苦しみは私にとって一生涯忘れることができない。それを(教科書から)なくすのはおかしいのではないか。戦があったら悲しいし、苦しい。平和である教育をしてほしい」と訴えた。

 米軍の激しい艦砲射撃があった1945年3月25日。春子さんは盛永さんや親類ら約30人と壕に避難していた。夜になって盛秀さんが壕に来た。盛秀さんは、父の盛永さんに「軍から米軍が上陸するのは間違いないので敵の手に取られないように玉砕するよう命令があった。だから潔く死のう」と話したという。

 びっくりする盛永さんに、盛秀さんは「いろいろ生きている間は親孝行できなかったけどあの世に行って孝行する」と伝えた。

 春子さんは「兄が4歳から7歳までのわが子3人を抱きしめ、涙を流しながら『こんなに大きく育てて、軍の命令でなくすというのは生まないほうがよかったのか。お父さんが一緒にいるからね』と語り掛けていた。今でもあの姿を思い出すと涙が出る」と述べ、兄の無念さを思い出し、言葉を詰まらせた。

 盛永さんは、盛秀さんに最後の別れとして水杯を勧め交わしたという。

 集合時間の午後11時半に合わせ、春子さんらは盛秀さんに続いて集合場所の忠魂碑に向かった。しかしそこに照明弾が落ちたことを知らされ「集団自決」で多くの犠牲者が出た産業組合壕に移動した。

 組合壕にはすでに多くの住民がおり、中に入ることができなかった春子さんらは生き延びたが、壕の中にいた盛秀さん家族はそこで「集団自決」で亡くなった。

 教科書検定問題については「みんな苦しんで犠牲になった。(記述を)なくしてはならない」と訴えた。

(7/7 10:15)


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