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吉川嘉勝さん

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吉川嘉勝さん(渡嘉敷)



吉川嘉勝さん -上- (6月17日朝刊総合3面)
「集団自決」跡地を戦跡に
「地獄だった」子どもらに歴史伝え

 琉球王府時代の進貢船の船頭として、財を成した名残の石垣。渡嘉敷村指定文化財の根元家石垣前で、元教師の吉川嘉勝(68)は、案内する阿波連小学校の児童に先人の活躍を説明した。

 琉球王府時代の先人の歩み、沖縄戦での「集団自決」、戦後にあった米軍のミサイル基地。渡嘉敷村を「沖縄の歴史の縮図だ」と嘉勝は表現する。村教育委員会委員長を務め、村の歴史を刻んだ場所を文化財や戦跡として指定を進めている。

 「集団自決」跡地もその一つとして指定された。

 この日、阿波連小の子どもたちに「集団自決」の起きた背景を説明し、当時の心境を「地獄というのはああいう状況だった。頭の中は空っぽだった」と伝えた。

 子どもたちの質問を受けて初めて、人々がどのように家族に手をかけたのかも話した。手榴弾で、それがなければ、くわやかまで、それさえなければ転がっていた石で…。それまでと、子どもたちの表情が変わり、食い入るように説明に聞き入った。

 「あの場所に行くと、感情が高ぶってしまって、心理的には普通でなくなるんだ」。次の場所に移動する途中、嘉勝は気分を落ち着かせようと、ポンポンと頭をたたいた。

 一九四五年三月二十七日。米軍上陸直前に、当時島に七人いた嘉勝の家族はウンナガーラ近くの壕へ避難した。「空襲や艦砲が激しくて、ずっと隠れていた。二十七日の昼すぎ、そこにいろんな人たちが情報を持ってきた」。北山に集まれ―その軍命がもたらされた時に、周囲の人々が騒然となったという。

 空襲が途絶えるのを見計らい、夜になってどしゃぶりの雨の中を、家族は北山へ移動した。一寸先も見えず、はぐれないようにひもをつかみ、声を掛け合いながら、川伝いを登った。体の小さい嘉勝は四つ上の姉に背負われていた。

 小さな川の途中に、岩棚がいくつもあった。枝をつかみ、よじ登る姉の背で、嘉勝は枝が折れれば、自分は岩に頭をぶつけて死ぬのだと思った。「緊張の連続だった。姉が岩棚にぽっと登ると、ほっとした。そんな記憶がある」

 「日本軍の陣地近くに行けば、住民を守ってくれるのだろうとしか皆思っていない」。六歳だった嘉勝はそういう思いもなく、真っ暗な中避難するという恐怖におののいていた。=敬称略(編集委員・謝花直美)(木―日曜日掲載)



吉川嘉勝さん -中- (6月21日朝刊総合3面)
母「生きよう」脳裏に鮮明
集団立ち上がり自決場から逃げた

 米軍上陸のため、海上挺進第三戦隊が軍本部を撤退させた北山。当時六歳だった吉川嘉勝(68)が着いた時には、雨も上がり、次から次からと人々が集まってきた。先に来ている者は、かまやなたで、周囲の木々を伐採し、家族のための空間をつくり、腰を下ろしていた。「その道具が自決の凶器になった」。山に行くのに当たり前に準備する刃物。いわば、生きるための道具が、「集団自決(強制集団死)」では、人々の命を奪うことになった。

 村長の訓示。続く万歳。ワーワーと騒ぐ人々。村長の傍らにいた当時十六歳の兄勇助も嘉勝ら家族の輪に戻った。戦争帰りの義兄とともに、手榴弾爆発を試みるが、失敗した。周囲で爆発が起こり、人々が爆死し、血まみれになった人が倒れる。「置いていかれるのか」、焦りの声も飛び交った。

 その時だった。母・ウシの強い声が響いたのは。「あね、シンシュウ兄さんは、シン坊おんぼーすーせー。やさ、生ちかりるーうぇーかは、生ちちゅしやさ(ほら、シンシュウ兄さんはシン坊をおぶっている。生きられる間は生きよう)」。さらに、ウシは畳み掛けるように、手ぶりを交え、勇助らに強い調子で指示した。「勇助、テリュウダンは捨てぃれー、死ぬせーいちやてぃんないさ、あね、兄さんたー追ぅてぃひんぎーしないさ(勇助、手榴弾は捨てて、死ぬのはいつでもできるから、兄さんたちを追って逃げよう)」

 母親の叫びで、集団が立ち上がった。「僕らの前にも一つ集団があった。それを追って逃げた。これが自決場から逃げた最初の集団で、二、三十人がいた。ほかの家族は自決している最中だった」

 母親の言葉を一字一句同じに再現する嘉勝。「僕自身は、標準語励行のため島言葉は使ったことはない」。混乱する「集団自決」の場で、「生きよう」という叫びは、六歳の脳裏にそれだけ鮮明に刻まれているのだという。

 第一玉砕場から逃れた嘉勝らが、列になり木々の間を踏み分け逃げていると、砲弾が突然木々の葉をバサバサと揺らせた。同時に前方の父親が倒れた。すぐ後ろの姉の上半身は父の血で真っ赤になった。父親・次良は首の後ろ、島言葉でウシノクボと呼ばれる所をやられていた。父親を「揺すっても一言もなかった」。ほんの一瞬の出来事だった。「生きよう」と思っても死は絶えず隣り合わせだった。=敬称略(編集委員・謝花直美)



吉川嘉勝さん -下- (6月22日朝刊総合3面)
自決と向き合い継承模索
体験を心の中で大事にしてきた

 「生ちかりるーうぇーかは、生ちちゅしやさ(生きられる間は生きよう)」―。渡嘉敷村の北山の谷あいで手榴弾が爆発し、家族同士が手をかけた「集団自決」が起こっているその場で、母のウシは叫んだ。

 尊敬する人は、と学校で問われると吉川嘉勝(68)の答えはいつも「母」。「僕の生き方は母の考え方が基本。その最たるものが自決場の母の行動だった」

 母は、島言葉でニーガンと呼ばれるカミンチュ(神人)。冠婚葬祭のオモロや島の綱引きなどの祈りをすべて執り行った。

 「かつて、神に仕えることはガンゴクトゥ(取るに足らない因習)として否定され、沖縄の基層文化を否定する、差別もあった。でも皇民化教育に洗脳されなかった母だから、自決場で多くの人の命を救うことになったのではないか」と考える。

 戦後、嘉勝は教師になった。戦争体験を公に話すことはめったになかった。戦後五十年の節目の年、中学校校長になっていて、気付いた。「学校現場には、自らの世代を除き、戦争体験者がいない」。決心したが、生徒を前に話すのは、感情が高ぶりそうでためらわれた。あらかじめテープに録音し、校内放送で流した。クラス担任から「放送を聴き、泣く生徒たちがいた」と聞いた。

 初任者研修を担当した時には、チームティーチングの中で体験者の自分が語るという指導案を作成した。それが案のモデルとして取り上げられた。「若い人が沖縄戦を学校現場で教えることができる」。語ることで確実に伝わると手応えを感じた。

 四つ上の姉は、あまり「集団自決」のことを覚えていない。激しいショックに記憶が消えた、そうしないと生きられなかったと嘉勝は思う。自分自身も「集団自決」の体験は思い出したくない―そう思ってきた。でも、思い返すと、実はずっと向き合い続けてきたように思う。

 「気の重い日々もあった。そこに立ち止まっていると、自分自身が狂気するしかない。先に進み、求め続ける日々が生きていく過程だった」「戦争のない世の中をどうしたら築けるか。そのために子どもたちにどんな教育をしたらいいのか」

 六月。阿波連小児童を平和学習で案内した。「集団自決」跡地碑での説明をこう締めくくった。「戦争が終わっても人は幸せになるとは限らない。ずっとひきずっている」「私自身は、この体験をずっと心の中で大事にしてきました」と。=敬称略(編集委員・謝花直美)



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