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吉川勇助さん

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吉川勇助さん(渡嘉敷)


吉川勇助さん -上- (6月14日朝刊総合3面)
村長の「陛下万歳」合図に
防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」

 渡嘉敷島。西の御嶽と日本軍の北山(にしやま)陣地の谷間。一九四五年三月二十七日、米軍上陸後、各地に避難していた住民が、軍命でフィジガー、後に第一玉砕場と呼ばれる場所に集められた。

 住民は家族や親族、集団ごとにまとまっていた。当時六歳で、母親と妹と来た新崎直恒(69)。グループには手榴弾がなく、知り合いの集団に加わった。その輪には直恒らが「皆から、とても信頼をされている人」と話す、当時十五歳で役場職員の吉川勇助(78)がいた。

 勇助の家族で七、八人、直恒らも合わせると、輪は合計二十人になっていた。輪には勇助が二発、兄が二発、計四発の手榴弾があった。「役場に集められてもらった。一つはあまりに旧式だと、村長に九七式という新しい型に換えてもらった」と説明する。

 米軍上陸直前、日本軍は、役場を通して十七歳未満の少年を対象に、厳重に保管していた手榴弾を二発ずつ配った。米軍上陸後、一発は攻撃用、もう一発は自決用と言い渡された。

 役場職員の勇助は、フィジガーに来ても、村長の傍らにいた。不意に軍の陣地方向から現れた防衛隊員が、村長に何かを耳打ちしているのに気付いた。迫撃砲や艦砲射撃のすさまじい音と爆発の音、防衛隊員が村長に何を伝えたか、勇助の所までは聞こえない。

 しかし、村長は、防衛隊員の言葉に「うん、うん」と何度もうなずいた。おもむろに立ち上がり「天皇陛下万歳」と叫んだ。

 それが号令となった。フィジガーのあちこちで、手榴弾がさく裂した。バン、バン、バン。勇助の輪でも手榴弾を爆発させようとしたが、すべて不発だった。

 しかし、周りでは血だらけの遺体、手や足が吹き飛ばされた人、悲鳴、泣き声、地獄図だった。

 そのうちに、生き残った者たちが生き地獄を逃れようと、群れを成し北山陣地を目指し始めた。

 勇助たちも陣地になだれ込んだ。「それを見た、隊長はものすごい勢いで怒った」。村長に伝令した防衛隊員も、本部に来ていた。住民が殺到する混乱の中で、腰に下げた、銃剣用の剣が手榴弾に当たり、「しまった」という言葉と同時に爆死した。

 村長の傍らで一部始終を目撃した勇助は「住民が勝手に死ぬことはあり得ない。村長に伝えられたのは軍命だった」と語気を強めた。

=敬称略(編集委員・謝花直美)



吉川勇助さん -中- (6月15日朝刊総合3面)
生活全体が軍の支配下に
「逆らえない」とたたき込まれた

 沖縄戦直前に、渡嘉敷島に日本軍が駐屯を開始し、軍が村中を支配していく過程を、役場職員だった吉川勇助(78)は詳細に見ている。

 一九四四年九月。役場宿直の当番だった勇助が、自宅で夕食を取り、役場へ戻った時。玄関の前に憲兵と上等兵が既に、立っており「おい、村長を呼べ」と命令された。いったいいつの間に上陸したのか。「話すのも初めから命令口調。憲兵が怖い存在とも知らないし、とにかく驚いた」

 村長が到着すると、憲兵は矢継ぎ早に命令を下した。カツオ船の責任者を呼べ、阿波連に船を集めよ―。村の漁師は、阿波連から帰ると全員、軍属にされていた。カツオ節工場は、佐世保海軍軍需部那覇支部鰹工場と看板が掛けられた。機密保持のため島外への渡航も止められた。

 貨物を運搬する五、六百トンの機帆船で兵隊が運ばれた。村の人口約一千人に対し、海上挺進第三戦隊と同基地隊の約一千人が配備され、人口が倍に膨れた。兵隊の姿が村の日常の風景になった。「それ以前に郷土部隊が本島にできたのは知っていた。だが、島出身者が休暇で戻ってくるぐらい。島の人は、兵隊のことに無抵抗で、よく分からなかった」

 当時の役場職員は五、六人。「私らの仕事も、役場の仕事というより軍の仕事に変わっていた」と言う。「大騒ぎになった」と表現するように、兵舎ができるまで、兵隊を各家庭に分宿させ、兵舎造りや特攻艇を入れる壕掘りや坑木伐採などに住民を動員した。軍用に納めるため、野菜を集め、住民に豆腐を作らせた。

 軍本部は渡嘉敷島西側の渡嘉志久にあり、役場職員ら少数の許可書を持たされた者だけが入ることを許された。将校たちが、兵舎に移った後も、新しかった勇助の家が、宴会場として使われた。爆雷投下訓練の後に、海面に浮いた魚が、調理され酒のさかなになった。若い将校たちは「おれが死んだらさんずの川で…」と酔って歌う者もあった。「死を覚悟していたんじゃないかな」

 米軍に対し、海上特攻で死ぬことが定められた日本兵たちの日常。かつて軍とは無縁だった村民の日常が交差することで、住民も「死」に追い込まれていくことになった。

 離島という閉じられた場所で、生活全体が軍に支配された時、村民は軍の意のままに動かされた。「その中で軍の命令には逆らえないとたたき込まれた」。勇助は振り返る。=敬称略(編集委員・謝花直美)


吉川勇助さん -下- (6月16日朝刊総合3面)
防衛隊離脱を軍が容認
「自決現場」に多数の手榴弾

 渡嘉敷村の第一玉砕場で「集団自決」が起きた後、吉川勇助(78)は、役場職員らとともに切り込み隊に志願し、家族と別行動をとった。軍本部から追い返され、フィータテヤー近くの第二玉砕場へ向かった末弟の吉川嘉勝(69)ら家族と別れた。

 勇助は「どっちみち命はないと思っていた。軍に、切り込みに志願する者と言われて、わーっと手を上げて家族に何か言うのでもなく、そのまま軍に行った」。嘉勝はその時のことを「皆命はないと思って、見送った。今考えると、その年ごろだったらそうせざるを得なかっただろう」と振り返る。

 勇助はそれから、兵隊の道案内として、約二週間前後を軍と行動した。

 「あんまりむごいんで、よう語らんが…」。勇助が戦後ずっと心に秘めていたのは、当事者の日本兵から聞いた住民虐殺の様子だった。

 「集団自決」でけがをし、米兵に保護されていた二人の少年が、住民の収容地区に家族に会いにきた。勇助らが「帰った方がいい」と促したが、二人は帰り道で行方不明になっていた。

 八月中旬、山に潜んでいた日本兵が投降後、一人の兵士が「泣きそうな顔をして」、勇助に打ち明けたという。「二人を殺害現場に連行した。穴を掘らせて、年長の少年は自分で腹を切って、兵隊が介錯した。もう一人は『自分で死ねません』と言ったので、目隠しをし、後ろから切った」と。

 「いろんな本に、少年自らが『自決』すると書いてあるが、それは違う」と勇助は語気を強めた。

 渡嘉敷島の海上挺進第三戦隊は、住民でも軍側から離脱し、米軍へ投降すれば、容赦なくスパイとみなし十数人を殺害した。

 自ら選んだ死として語られた少年の死が、実際は軍による虐殺であったのと同様に、「集団自決」もまた軍によって追い込まれた死だった。

 教科書記述で軍関与が修正削除されたことについて勇助は指摘する。「集団自決」の現場では、軍から離脱した防衛隊が家族とともにおり、多数の手榴弾を使った。生き残った防衛隊員がその後、軍に戻っても、とがめを受けていない。それは軍の組織としてはおかしい―。

 「軍が『集団自決』を容認していなければ、防衛隊は戻った時点で、住民のように死刑になっていたはずだ。防衛隊の行動は軍の行動としてやらされている。それを強く言いたいんだ」=敬称略(編集委員・謝花直美)


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