15年戦争資料 @wiki

「カラサンシン」を聴く耳

最終更新:

pipopipo555jp

- view
メンバー限定 登録/ログイン
世界 SEKAI 2007.7
特集:「沖縄戦」とは何だったのか

「カラサンシン」を聴く耳

浮かび上がる「集団自決」の深層
仲里 効


国家の共同性の極限を生きた沖縄


沖縄戦については、これまで多くの証言や研究の蓄積によって歴史認識の基礎は整えられたとはいえ、まだ十分には解き明かしえない領域を残していることも事実である。とりわけ沖縄戦の極限ともいわれる「集団自決」や旧日本軍による住民虐殺については、沖縄と日本との関わりや、国家と軍隊のもっとも醜い部分が現れているがゆえに、それ自体の問題の解明とは異なるところで〈政治〉に晒され続けてきたし、いまも晒されている。それは例えば、この間の歴史教科書の検定という形をとった削除・書き換えが物語るところである。

だが、「集団自決」になお語りがたい闇があることを感じさせられるのは、肉親を手にかけた事実の重さや、そのゆえになお生き残った関係者が重く口を閉ざしているということと、島の共同体の成員が国家の共同性(この場合、皇民化という名の日本への同化幻想)を極限の相で生きてしまったことからくる、目もくらむような様相である。いわば、「集団自決」には、沖縄と沖縄人の生き方や共同体意識がアポリアのように刻まれているということである。
【引用者註】アポリア

宮城晴美著『母が遺したもの―沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』は、著者の母親の手記と「隊長命令」をめぐる証言の変転が巻き起こした波紋を通して、この沖縄の人たちが抱え込んだアポリアが明らかにされている。「援護法」の適用をめぐって「集団自決」は隊長命令があったと証言したことが、元隊長のその後の半生を社会的に葬ったということに心を痛め、後に部隊長との面談でそれを詫び、証言を修正したことから事態は思わぬ方向に発展し、それが一人の女性の晩年を翻弄した経緯が辿られていた。その証言の修正がまた、現在大阪地裁で争われている大江健三郎・岩波書店を被告とする訴訟と、二〇〇八年度より使用される高校の日本史の教科書において、「集団自決」への日本軍の強制を修正する検定問題の震源のひとつにもなっている。

この住民と軍隊の間を中継する役割にあった一人の女性の「隊長命令」があったとする証言と、後の修正によって、その後に巻き起こった出来事は、軍隊と島共同体の心的・物理的関係の諸相をはからずも露出させただけではなく、島と軍隊と国家の関係を二重の意味で問いを返すこととなった。一人の女性が島共同体と軍隊(具体的には部隊長)との間で引き裂かれることによって、逆に島の共同体と軍隊の論理の双方の弱い環を、同時に明るみに出すことになったこともたしかである。そしてまた、「これはあくまでも個人的な体験なので、歴史的な背景や当時の住民の動きを書き加えてから発表」してほしいとした母の遺言により、「集団自決」の惨劇の聞き取りとその背景となった沖縄戦の構造などを丹念に辿ることによって、「軍命」と「集団自決」の関係を、隊長個人の次元から国家と軍隊の暴力として読み返し、位置付け直す試みにもなっていた。さらに、沖縄の近代化が辿った植民地主義的なゆがみにも注目していくことになった。この地点から「隊長命令」がもういちど、今度はより根本的に国家と軍隊の構造的暴力の問題として問われることになったのである。

小さな島空間に軍隊が入り込むことによって、島民と島の共同性がいかに変容と緊張をこうむり、軍隊の論理にどのように呑み込まれていくのか――。このことを凝縮した形で実証している。例えば、それまで陣地構築と漁労班に従事していた一六歳から四五歳までの男子は防衛隊として編制されたのをはじめ、女子青年団は軍の炊事班、将校集会所、経理室などに配属され、漁船も船員ごと軍の指揮に置かれ、那覇との渡航も許可性となり、また村役場や青年会館などの公共施設は軍の作戦本部となった。秘密基地ということもあって、住民は日本軍の厳しい統制と監視下におかれたのである。つまりヒトやモノの一切が軍の統制化に置かれ、軍官民一体となった根こそぎの総動員体制ができあがる。「軍命」とはまぎれもない、こうした構造の産物であるといっても間違いではないだろう。

隣の渡嘉敷島も含めて座間味島の例は、沖縄戦において最初に集団自決で住民の死者を出したのとは対照的に、軍隊が組織的に最後まで残ったことで知られる。「隊長命令」をめぐる証言の前と後での元隊長の態度の変化(「隊長命令はない」ことを聞いた後、一変して強圧的ともとれる姿勢)や、彼がかつての部下の足跡にしか興味を示さず、「集団自決」や亡くなった住民についてはほとんど関心を向けなかったということには、かつての指揮官に体現された軍隊の論理を垣間見ることができる。住民を排除しつつ統制下においた軍の論理がそれ自体として自己貫徹する様相を示していた、といってもいいだろう。

生き残った者が宿す「無と死の子」


この書のなかで最も印象深いのは、惨劇の後、生き残った住民の休まることのない心の位相を描写したところである。「カラサンシンを弾く祖父」は、そんな生き残った者たちの〈その後〉の時間を静かに語りかけていた。妻をはじめ息子一人と娘二人の喉をカミソリで切りつけ、最後に自らの喉を切り「自決」をはかるが、息子は即死、娘と妻と自身は瀕死の重傷を負いながらも奇跡的に生き残る。妻は喉を深く切りつけられたため一時は声を失い、その後空気の混じったかすれ声でどうにか語せるようになるが、そのかすれ声で息子を失った悲しみややり場のない怒りを夫に向け、夫を責め立てる日が続く。男は一切言い返すようなことはなかったという。

幼い頃のあるエピソードも紹介していた。それは祖父母の家の山羊小屋で、後ろ足に縛られ宙吊りにされた山羊を祖父が殺し、首から血が滴り落ちている光景を物陰から覗いている背後から、祖母が祖父に聞こえるようにかすれ声で「この人は首切り専門だから」と言い放つと、祖父の表情がみるみるうちに泣きだしそうで寂しげな面持ちにかわっていったということが語られていた。その祖母の「首切り専門」という言葉に、戦後生き残った家族が抱え込んだ修羅の履歴が母音のように鳴っていることを恩い知らされる。

孫娘の前で妻から「首切り専門」といわれた男は、日が暮れるとサンシンを持ち出し、濡れ縁や波打ち際の護岸で鰹節製造工場からこぼれる光のなか、一人静かに琉球民謡を歌っていたという。はじめは決まって自作の歌だった。が、その祖父も自ら首を切ったとき声帯を傷つけ、歌えるほどの声が残っていなかった。そのため、島人には歌をともなわない「カラサンシン弾いている」としか見えなかった。しかし家族だけには「あてぃん 喜ぶな/失てぃん 泣くな/人ぬ 善し悪しや/後 や知らん(あっても喜ぷな/失っても泣くな/人にとって何が幸いなのか/後のことは誰も知らない)」という歌が聴こえていた。これは決して人生を諦観したり、世の無常を歌った歌ではない。諦観と見まがう存在のゼロ度から織り上げられくる、生の声である。

一人夜の海辺で、声のない「カラサンシン」が含意するものは、生と死、殺された者と殺した者がほとんど同一位相にあり、死んだ者は報われないが、生き残った者もまた修羅をかかえていた、ということである。「集団自決」の「証言」をほとんど崩壌させかねない〈存在のゼロ度〉のような場所から、だが、「集団自決」の核心が静かに浮かび上がってくるのを知らされるはずである。

あるいはこういってもいいだろう。すなわち、「証言」そのものを、〈ゼロ度〉にまで解体しながら、なおそこに言葉が生まれてくる可能なる中心を示唆するものとしてである。この「カラサンシン」はまた、『母が遺したもの』のなかで語られている隊長命令が「あった」という証言とそれを後に元隊長との面談で修正した発言の間にあって、その双方を糺し、「軍命」を島共同体と国家の共同性が交差する交点に据え直す。

それともわたしはこの声を失った男の「カラサンシン」に、プリモ・レーヴィがアウシュヴィッツの収容所で知った、言語を持たない、ただ言語以前の奇妙な音の断片を発する〈フルビネク〉と呼ばれた三歳くらいの男児を忍い浮かべるべきだろうか。〈フルビネク〉とは時折発する言葉にならない声を収容所のある女性がそう綴ったことから呼ばれた。

「フルビネクは無であり、死の子であり、アウシュヴィッツの子だった。(中略)しかし、かれの目は、痩せこけてやつれた顔のなかに没しそうになりながらも、ものすごく鋭かった。要求に満ちあふれ、主張に満ちあふれ、爆発しようとする意欲、唖という墓石をぶち割ろうとする意欲に満ちあふれていた。かれに欠けていた言葉、だれもかれに教えてやろうとしなかった言葉、言葉への欲求が、かれのまなざしのなかには、いまにも爆発しそうなくらいにみなぎっていた」とレーヴィは書いていた。だがあるときからひとつの言葉を発するようになる。それは「ひとつの語幹」「ひとつの語根」をめぐって発せられていることに気づかされる。

「集団自決」を生き残った者たちはみな、とくにその後深い沈黙のなかで証言を拒んだ者たちはみな、それぞれの沈黙のなかで「無であり、死の子」である〈フルビネク〉を住まわせていた、といっても決して不当ではないはずだ。〈フルビネク〉は言葉を持たない。ただ痩せこけた目に爆発しそうな要求に満ちあふれた音の断片を吐く。集団自決で生き残った「カラサンシン」を弾く男は、言語を持つがその言語は音が欠けている。

何が言いたいのかといえば、すべての「証言」はこの無と死の子〈フルビネク〉において、つまりそれこそ「善悪の手前」で根源的に試されなければならないということである。「集団自決」で生き残った生存は〈フルビネク〉という無と死の子を宿す。この内懐された「無と死の子」は、一人の女性が悩み翻弄された、「島共同体の論理で半ば強いられた証言とその証言を『事実』にもとづいて翻した」としたことを同時に試す。そうはいっても、だが、ほんとうのことは島の
共同体にも隊長の側にもない。それは相反する証言の〈あいだ〉にしかないということだ。その〈あいだ〉においては「隊長命令はなかった」とした「事実」さえもう一度洗い直されなければならない。そしてそこでこそ、宮城晴美が母の遺言の実践の果てに導き出した要諦が歴史の「真実」の近傍を回り込むだろう。「もはや、『隊長命令』は本質的な問題ではなかった」といい、「細胞のすみずみにまで染み込んだ『皇国』への忠誠心、『鬼畜米英』への異常なまでの憎悪と恐怖が、結果的に住民を『玉砕』へと導いていたといえる。それは、明治以来、人々を洗脳しつづけた『国家』による住民への『死の強要』以外の何ものでもなかった。『集団自決』は、まさに"皇国日本"の総決算であったといわなくてはならない」。

皇民化という形をとった国家の共同性へ帰一することによって、「日本人」を内面化した極限の倒像がそこにあった。

「私達を信じてほしい」


ところで、ここで「集団自決」と「軍命」の関係が沖縄人の歴史意識の前面に現れた「日本復帰」直前の一九七〇年三月の「事件」を思い起こしてみたい。渡嘉敷島の慰霊祭に元海上挺進第三戦隊隊長の赤松嘉次大尉をはじめ元隊員が二五年ぷりに参列しようどしたことがきっかけになって、「集団自決」を命令したとされる赤松元大尉への糾弾と激しい渡島阻止行動が行われたことから、沖縄戦の記憶を呼び起こし大きな論議を巻き起こした。

ここに二つの文章がある。一つはその赤松嘉次元大尉が「事件」の翌年、「これ以上誰も傷つけたくないが、せめて若い人たちには真相を知らせたい」と、慰霊の日特集の「特別寄稿」として月刊誌『青い海』に心境を寄せたものである。「"私達を信じてほしい"」というタイトルのそれは、「集団自決の真相」とうたわれたにしては驚くほど淡白な内容になっていた。激しい抗議デモは夢想だにしなかったこと、一九四六年に提出された「陣中日誌」の戦闘行動の概要をなぞりながら、村民は指揮下になくなんらの指令もなかったこと、渡嘉敷島の軍隊と村民はともに持久防禦の苦しさを味わったこと、そして八月二四日の武装解除まで軍と行動を共にした村民と他の村民との間に溝ができたことや伊江島の人々が米軍の保護下での渡嘉敷島で生活したことが村民の苦痛であったことなどに言及し、旧部隊に対して村民の憎しみや悪意は見出しえないと述べていた。

この手記の全体から感じ取れるのは、ほとんど自己弁解に近い言い訳である。反復された「私達を信じてほしい」という言葉だけが妙に浮き立つが、国家総動員体制下で特攻基地として機密性の高い軍隊が進駐することによって、島と島民がどのような緊張を強いられ、どのようなヒエラルキーに投げ込まれるのかということが、ほどんど視野に入っていない。沖縄での抗議デモが報道されたあと、大学生の娘から軍隊は住民を守るのが義務ではないかと難詰されたことが紹介されているにしても、その返事としていわれた住民観は、軍隊の論理を忠実になぞるものでしかなかった。「いかにして島を死守し、最後の一兵まで闘うかという状態の中でも、われわれは住民をなるべく戦闘にまき込まないよう心掛けた」としているところの、「死守」と「最後の一兵まで闘う」ことが、軍民混在した、しかも狭い島においてどのような事態を招くのかということについては想像力のカケラさえ見られないのだ。そこには『母が遺したもの』の中で紹介していた、座間味島の元戦隊長が島民の「集団自決」には心を動かされず、自分の部下の足跡にしか興味を示さなかったことと共通する原理が働いている。

問題にすべきなのは、この「真相を知らせたい」とした手記が目を瞑ったこと、書かなかったことである。最も凄惨を極めた「集団自決」とスパイ容疑での住民虐殺、そして朝鮮人軍夫や「慰安婦」。こうした「真相」なるものが目をそむけた領域、書かなかった事実こそ、沖縄戦の極限としての慶良間諸島における集団自決の核心にある国家と軍隊の暴力が審問されなけれぱならないところである。ここでもう一度、あの〈住民を排除しつつ統制下におく軍隊の論理〉に立ち返ってみたい。この〈排除しつつ統制下におく〉装置こそ、「軍命」がマヌーバーとして機能するところであり、軍と住民を中継した女性の一生を翻弄し、証言を変転させ、渡嘉敷島と座間味島の元指揮官の言動のダブルスタンダードが産出されるところでもある。そして何よりも、沖縄戦で最初に住民の「集団自決」死を出したのと反対に、日本軍が最後まで組織的に生き延びた慶良間列島のイクサの深層と真相があった。

島尾敏雄の「羞恥」と「黒い嫌悪」


もう一つは、この「真相」と銘打たれた赤松嘉次元海上挺進第三戦隊長の手記が書かれる一年前、「事件」とほとんど同時期に那覇に滞在していた島尾敏雄が書いた「那覇に感ず」である。この文は、奄美群島の加計呂麻島に海軍の特攻隊長として駐留していた環境が「彼」の環境とあまりにも似すぎていることで引き起こされた心の揺れと、内省する視線において赤松元大尉の手記とは好対照をなしている。島尾は地元の新聞で報じられた記事を目にしたとき「思わず身の凍りつく思いに襲われた」と書いていた。「ある理解がからだを電撃のように通過したのは、沖縄のはなれじまで起こった住民の集団自決の事実のことだ」として、住民が集団自決で命を落としたのに彼が生き残って健在だということに衝撃を受け、自分が彼と同じ状況に陥ったときどんな事態が生まれたのだろうか、と考え暗澹たる気持に襲われ、慄然としたことを告白している。そしてその生き残った元指揮官が二五年も過ぎて慰霊祭に参列すること、「彼とのかかわりあいでのなかで非戦闘員が三百人余りも自決したその場所にでかけて行こうとするのだろう。ふとそこに死にに行くのではないか、と先走って不吉な考えを私は起こしてしまった」という。

約二〇〇名の海上挺身隊を指揮する元陸軍大尉と約一八○名の海上特攻隊の指揮官だった元海軍大尉。同じ琉球列島中の渡嘉敷島と加計呂麻島。「彼」と「自分」の戦時中の環境があまりにも似すぎているのだ。しかも、敵軍上陸のあかつきには住民はいずれ自爆するための防空壕をそれと承知で掘りすすめていたではなかったか、と思いをめぐらす。

だが、島尾敏雄の「不吉な考え」は思い違いに終わった。そして「でもいったい彼は本当になんの告発を受けることもなく、渡嘉敷島に渡れて、慰霊祭に参列できると考えていたのだろうか。本心からそう思っていたのだろうか。私はどんなふうにも理解することができずに、深く暗いさけ目に落ちこんでしまった。しかしなんとしてもへんてこな叢恥でからだがほてり、自分への黒い嫌悪でぐじゃぐじゃになってくるのをどうにもできなかった。なにかが醜くてやりきれない。彼の立場だったら、私にどんなことができるかと思うとよけい絶望的になるし、しかしまたこの状況は醜い、と思うことからものがれられなかったのだ」と結ぶとき、そこに戦時中ほとんど同じ条件を生きた二人の指揮官の、敗戦後の生き方や歴史認識の決定的な違いが際立ってくる。

島尾敏雄がここで「状況が醜い」というときの「醜さ」とは、自分とのかかわりで多くの自決者を出した島に何の告発も受けず、責任の追及もなされずに慰霊祭に参列できると思うことを指していっていることは間違いない。だが、その「醜さ」は決して島尾自身と無縁ではないことも意味されていることを見落としてはいけないだろう。そこに「差恥」と「黒い嫌悪」があった。少なくとも島尾の「羞恥」には「信じてほしい」という言葉はないはずだ。

渡嘉敷島の「集団自決」が元日本軍指揮官の訪沖で初めて問題となった三七年前に島尾敏雄が感じた「状況の醜さ」は、今ふたたびかつてを反復するように私たちの前に露になりつつある。そこに見えてくるのは「戦後レジームからの脱却」の名のもどに「国防」や「教育」のフレームを書き換え、個の内面にまで浸透しはじめた、膨化する国家意志の存在である。

沖縄戦の極限としての「集団自決」が私たちに教えたのは、国家の共同性をあたかも〈自然〉のように生きてしまうことの目もくらむような倒錯であった。沖縄が日本との関係で生かされたアポリアにつけ込み利用する〈政治〉が台頭している。「集団自決」の惨劇から生き残った者が抱え込んだ〈フルビネク〉。無であり死の子の目の中にみなぎる言葉への爆発的な欲求を、「状況の醜さ」に拮抗する「語幹」と「語根」として発見する目の力は残されているのだろうか。声を失った男の「カラサンシン」を聴き取る耳はあるのだろうか。

なかざと・いさお
一九四七年南大東島生まれ。著書に「オキナワンビート』『ラウンドポーダー』『オキナワ、イメージの縁』、共著に『沖縄の記憶/日本の歴史』など。雑誌「EDGE」の発行、映画『夢幻琉球・つるヘンリー』共同脚本執筆、『コンディションデルタ沖縄』制作、山形国際ドキュメンタリー映画祭沖縄特集コーディネーターなど分野横断的に批評活動を展開。


目安箱バナー