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「靖国の視座」による沖縄戦の定説化に抗して

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世界 SEKAI 2007.7
特集:「沖縄戦」とは何だったのか
書き換えられた沖縄戦

「靖国の視座」による沖縄戦の定説化に抗して

石原昌家


はじめに


いま、全国各県・各市町村では有事法制の一環である「国民保護法」に基づいて義務付けられた「国民保護計画」の策定が推し進められつつある。そこでは防災訓練の名のもとに「軍民一体」化した形が具体化しつつある。本年三月末、教科書検定の結果、沖縄戦における集団自決の記述において、日本軍の関与が削除されたということでマスコミが一斉に報道している。それは「国民保護法」を隠れ蓑にした日本国民の「軍民一体意識」の形成という文脈で捉えなければならない重大事なのである。単に歴史の歪曲などというレベルの問題でなく、一九六三年以来、極秘に推進してきた「有事法制」が、ついに四○年目に日の目を見たとき、次の段階は、日本国民に戦前のような「軍民一体」「戦意昂揚」意識を形成することが重要な課題になったのである。

そこでの障害の一つが、国内戦場を三か月余も体験した沖縄住民の戦場体験である。本土国民が体験したことのない「軍隊は住民を守るどころか、軍事優先の結果、住民を直接殺害したり、死に追い込んだりする」という教訓を沖縄住民は戦場から得ていたからである。政府にとっては、このような「反靖国の視座」の沖縄戦言説を、早急に「軍民一体」だったという「靖国の視座」の沖縄戦言説へ転換しなければならないのである。

二〇〇三年六月、「有事法制」(武力攻撃事態対処関連三法)が成立し、その基本法である武力攻撃事態対処法が施行された。「有事法制」が制定されるや、満を持して待っていたかのように翌月以降、「歴史修正主義」グルーブによる沖縄で定説となっている「沖縄戦認識」を覆す動きが顕著になった。日本で唯一の地上戦となった沖縄戦では、軍民が一体となって戦闘に参加し、親子でさえ集団自決した「戦意昂揚」意識を本土国民は学べ、と鼓舞すると共に住民の集団自決に軍の命令はなかったという論調であった。〇五年八月、ノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店が沖縄戦の記述に関して、旧日本軍守備隊長と遺族に訴えられたのはその一環であった。そして教科書検定において、沖縄戦における住民の集団自決という記述から日本軍の関与が削除されたということを、本年三月末から四月にかけて新聞・テレビを媒体にして全国的に報じられた。そのこと自体が政府や「歴史修正主義」グループにとって、沖縄戦といえば集団自決というイメージを流布させたことで、一定の目的を果たしたことになった。

なぜなら、政府のいう沖縄戦での集団自決とは、軍の指導通りに住民が「軍官民共生共死の一体化」を体現し、「殉国死」したことを意味するものであり、「靖国の視座」の沖縄戦言説へ転換させる足がかりを形成したからである。

有事立法制定の動きと沖縄戦体験の提造


沖縄住民の「沖縄戦体験」が、沖縄や本土マスコミでも大きく取りあげられる事態は、過去にも発生していた。いずれも日本政府の教科書検定において起きている。

じつはその教科書検定は違法・違憲であると日本政府を訴えてきた「家永教科書訴訟」と「有事法制」制定の動きは密接に関係していたのである。国内戦場を想定し、戦争マニュアルども称されている「有事法制」が、戦後国民の前に明らかになったのは、期せずして家永三郎教授が政府を相手に「教科書訴訟」を起こした一九六五年のことであった。自衛隊が極秘に有事法制を研究(「昭和三八年度統合防衛図上研究」・秘匿名「三矢研究」)している、と同年二月の国会で社会党議員が暴露したので、国会は紛糾した。自衛隊制服組による戦後初の有事法制研究の内容は、二〇年前の日本の戦時総動員体制を髣髴させるものであり、国民の猛反発をうけ、以後、有事法制研究は日本ではタブーになっていた。しかし、それは表向きのことであり、その後もさらに極秘に研究が進められていた。

そしてついに七八年七月、時の自衛隊統合幕僚会議来栖弘臣議長が、日本では有事法制が制定されていないので、緊急時に「自衛隊は超法規的行動を取らざるを得ない」という発言をし、大問題になり、辞任に追い込まれた。そこで罷免された来栖統合幕僚前議長は、水を得た魚のようにいまにもソ連が北海道へ侵入してくるかのように、八○年には『仮想敵国ソ連』、八四年には『米ソ激突の恐怖』を刊行して、「有事法制」制定の素地形成に精カ的に活動していた。

それらの政府・国防族らの「強盗戸締り論」に対抗するために、本土でもようやく国内が戦場となった沖縄戦における「軍隊と住民」の関係に注目をすることになった。

したがって、国内戦を想定した「有事法制」制定を推進する側にとって、国内が戦場になったとき、軍事優先の結果、「自国軍隊」が「自国民」を殺害したり、死に追い込んだりしたということが定説となっている沖縄住民の沖縄戦体験が、本土一般の共通認識になることは極めて不都合なことであった。

八ニ年の教科室検定において、日本政府が沖縄戦における日本軍の沖縄住民殺害の記述を削除したのは、まさにこの「有事法制」制定の動きが出版メディアを通して活発化している時であった。

「集団自決書き加え」事件による沖縄戦認識の深化


一九八二年の教科書検定で沖縄戦における日本軍の住民殺害の記述が削除されたとき、沖縄では各市町村議会をはじめ県議会も臨時議会を招集して、教科書に沖縄戦の真実を記述することを求める意見書を全会一致で採択し、文部省への抗議要請行動を展開した。また、教員や市民団体も一斉に抗議行動を起こし、社会的大問題になった。心の奥深くまで傷ついた沖縄戦体験者が、沖縄戦の真実を消し去ろうとする日本政府に対して、怒り心頭に発した「島ぐるみ」の抗議行動の結果、日本政府も日本軍の住民殺害の記述を認めざるを得なくなった。しかし、一九六五年から政府を相手に教科書訴訟を起こしていた東京教育大学家永三郎教授が、自著の「高校日本史」が八三年改定検定の際、沖縄戦に関する記述の脚注部分に「日本軍のために殺された人も少なくなかった」と、日本軍の住民殺害について付け加えた。すると、日本政府は日本軍の「住民殺害」より多い「集団自決」を書き加えるように、と事実上の命令に相当する「修正意見」を付けた。家永氏は、「集団自決」を書き加えさせられたので、ただちに政府を相手に訴訟を起こした。それが八四年の「第三次家永教科書訴訟」における「沖縄戦に関する部分」であった。

筆者は、一九九一年一〇月二一日、この裁判の東京高裁における第二審・控訴審で原告家永氏側の証人として証言台に立った。それまで沖縄戦における住民被害の特徴は、日本軍による住民殺害と集団自決だと述べてきたので、日本政府が住民の「集団自決を書き加えるように」という修正意見について、当初、なんの疑問を抱くこともなかった。したがって、九一年二月に証人の依頼を受け、証言台に立つまでの八か月間で、沖縄戦研究者仲間と研究会を重ねることによってはじめて、筆者は、政府がなぜ日本軍の住民殺害の記述の前に集団自決を書き加えるよう修正意見(事実上の命令)を出したのかを完全に理解するに至った。沖縄一般における住民の集団自決という理解と政府あるいは本土一般における理解とがまったく相反していることに気づいたのである。

その決定的な認識の相違というのは、政府・本土一般の住民の集団自決の理解は、皇民化教育・軍国主義教育の結果、軍民一体の発露として「殉国死」(自らの意志による死)したという認識に対して、沖縄戦体験者は、米軍に対する極度の恐怖心と絶対に敵への投降を許さない日本軍の存在などにより、敵に捕まえられる前にお互いで死んだ方がいいということで、死に追い込まれたと認識している。

家永三郎教授は、その認識の違いを理解していたと思われる。つまり、家永教授は、政府のいう住民の集団自決というのは、日本軍に死に追い込まれ、殺されたのも同然なので、住民殺害に含まれているという認識であったのであろう。それで、集団自決を書き加えさせられたことに対して、教科書検定は違憲として、政府を訴えたのである。

この裁判を通して政府が、なぜ「集団自決」という用語を書き加えさせたかということは、原告家永氏側は次のように分析していた。

自国軍隊が自国民を殺害するというショッキングなできごとを、教科書によって広く国民に知られるということは、絶対に避けたかった。だが、沖縄の保革を問わない県民の怒りに直面して容認した日本軍の「住民殺害」の記述の前に、「軍民一体」「殉国死」を意味する集団自決という表現を使わすことによって、「住民殺害」記述の衝撃度を軽減させることが狙いであろう、と。

ところが、筆者が法廷で証言するにあたり、原告側弁護士から強く指摘され、相当検討を強いられたのが、用語の問題であった。裁判の争点になっている表現について、事件発生時の学界の定説の用語を用いなければならず、裁判進行時の新たな認識による新語の使用を避けることが裁判の常識である、ということであった。

そこで試行錯誤の結果、(住民の)集団自決ということばについて、証言の際は常に「日本軍の強制という意味での集団自決」という表現を用いることにしたのである。二時間余の証人尋問を受けている間、常時その表現を用いたので、裁判長は「集団自決の言葉の前の説明は繰り返さなくても分かった」と、筆者を制するように述べた。そのことは、裁判長が暗に「集団自決」という表現を証人である筆者に発言させようとしている、と即座に判断した。そこで「集団自決」と発するや否や「政府側の証人の立場」に立つことになり、筆者の証言は水泡に帰すので、最後まで「日本軍の強制」という表現を必要に応じて繰り返した(現在、その法廷では「援護法でいう集団自決」と、表現しても良かったという考えに達している)。

かくて、一九八二年、教科書検定の結果、日本政府は日本軍の「住民殺害」記述を削除させ、翌八三年には逆に「集団自決」を書き加えさせたことは、家永三郎教授の「教科書訴訟」を通して、政府が沖縄戦をどのように理解しているかが読み解けて、図らずも沖縄戦研究の水準を深化させることにもなった。

「援護法でいう集団自決」と「強制集団死」の相違


沖縄では、戦後集団自決という表現がはじめて使われたのは、沖縄タイムス社記者が取材して発行した『鉄の暴風』(一九五〇年 沖縄タイムス社刊)であるといわれている。それは当の取材記者だった一人である太田良博氏が、曽野綾子氏との論争のなかで次のように述べている。

集団自決どいう言葉について説明しておきたい。『鉄の暴風』の取材当時、渡嘉敷島の人たちはこの言葉を知らなかった。彼らがその言葉を口にするのを聞いたことがなかった。それもそのはず「集団自決」どいう言葉は私が考えてつけたものである。島の人たちは、当時、『玉砕』『玉砕命令』『玉砕場』などと言っていた。『集団自決』どいう言葉が定着した今となって、まずいことをしたと思っている。この言葉が、あの事件(引用者注:渡嘉敷島強制集団死事件)の解釈をあやまらしているのかも知れないと思うようになったからである。
(土俵をまちがえた人―曽野綾子氏への反論(1)『沖縄タイムス』一九八五年五月一一日)

集団自決という表現は、沖縄以外でも便用されているが、沖縄のマスコミ人が、(少なくとも沖縄では)自らの造語であり、「あの事件」の解釈を誤らしているのかもしれない、と『鉄の暴風』を発刊した当の「沖縄タイムス」紙で述べている。

そのとき、沖縄マスコミ人の沖縄戦の本質に係る極めて重要な指摘・反省を、沖縄のマスコミ界や筆者も含めた沖縄戦研究者が、真剣に受け止めるべきであった。筆者もその当時はこの太田良博氏が指摘した意味の重大性について、理解を深めようとはしなかった。それは「第三次家永教科書訴訟」の「沖縄戦に関する部分」の第一審原告家永氏側証人四人のなかの一人であった安仁屋政昭沖縄国際大学教授(当時)が、その意味の本質を端的に述べている。

一九九一年一〇月二一日、その訴訟の第二審・東京高裁で証人に立った筆者が証言を終えた直後、東京弁護士会館での裁判支援集会で、(沖縄戦で軍人には集団自決があったが)「『住民には集団自決というのはなかったのだ』とはっきりと証言すべきだった」と知見を披瀝した。それはまさに太田氏が提起していた問題点の正鵠を射た指摘であった。

ところで、すでに七〇年代、沖縄戦体験を精力的に取材していた朝日新聞藪下記者が、誰しもが集団自決という言葉を便っている時に、「集団死」という大きな見出しでその実相を伝えていた。その後九〇年代(第二審後)には同じ朝日新聞の編集委員が「コラム」欄で「強制集団死」という言葉を用いて、その問題を論じていた。東京高裁での証言を終えた直後、筆者は、「自殺は社会的他殺だ」という社会心理学者の言にヒントを得て、日本軍の作戦による「軍事的他殺」だという表現を用いることを検討していた、だが、この朝日新聞の編集委員の表現が、一般的には受け入れやすいと考え、それ以後、「強制集団死」がより理解はしやすいだろうと考えている。

これらのことを理解するには、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(一九五二年四月、軍人恩給法の停止に伴い公布。以下「援護法」と略記)の沖縄住民への適用過程で援護法用語・官庁用語となった集団自決という用語について述べて行かなければならない。

周知の通り、政府は沖縄に対して"日本で唯一の地上戦を体験したという「特殊事情」"という理由で、軍人軍属以外の一般住民にも援護法の適用を拡大している。ただし、政府は一般住民を適用認定するにあたって、ど部隊の軍命によって、いかに積極的に戦闘参加・協力して戦死したかという基準で、審査している。そして適用が認定されると、一般住民が「戦闘参加者」として「準軍属」扱いされ、祭神として「靖国神社」に祀られ、遺族は「遺族給与金」を受給するのである。

政府は、「援護法」の適用要件の二十の類型のひとつに「集団自決」をあげている。したがって沖縄戦で「集団自決」による戦没者は、母が殺した形のゼロ歳児であっても軍人同様に祭神として「靖国神社」に祀られて最高の国家的栄誉を授与され、遺族は経済的援助を受けると同時に精神的に癒されてきたことになっている。沖縄でも関係者以外、この事実を知っているひとは少ない。

その「集団自決」というのを、国の機関では日本軍の「戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自らの生命を絶つ者」(防衛庁防衛研修所戦史室編集『沖縄方面陸軍作戦』朝雲新聞社 一九六八年二五二頁)と規定しており、「集団自決」ということばには、「殉国死」したという「靖国思想」が込められているのである。

筆者は最近「琉球政府」の「援護課資料」に基づいて「援護法」と「靖国神社」との関係を深く吟味してきた(「『援護法』によって捏造された『沖縄戦認識』――『靖国思想』が凝縮した『援護法用語の集団自決』」――沖縄国際大学社会文化研究二〇〇七年三月参照)。そこで改めて日本政府のいう「集団自決」という用語には、旧日本軍の住民に対する加害の部分を免責させると共に、被害住民に栄誉を与え、遺族を慰藉してきた歴史を紐解くことができた。

「第三次家永教科書訴訟」における政府側証人が「集団自決」は、日本軍の命令や強制によって親子・友人・知人が殺し合ったというのは、死んだ人に大変失礼だ、その行為は「尊敬死」であるという旨の証言をした。それは政府がなぜ執拗に家永三郎教授に、集団自決を書き加えさせたかという意味を理解させると共に、まさに沖縄戦の本質を書き換えさせ、「靖国の視座」による沖縄戦の定説化を図る行為だったことを物語っていた。

極秘文書が明かす軍部の沖縄県人観-間接的要因


沖縄では、以前、天皇制とは無縁だった沖縄人が、「忠良なる皇国臣民」としての証を得るために、日露戦争や中国戦線で勇猛に闘った、という言説が流布していた。そして慶良間等での集団自決も皇民化教育や軍国教育の結果として発生した悲劇であるという見方も強かった。

しかしながら、筆者は一九七〇年以降、戦争体験の聞き取り調査を重ねていくうちに、「天皇のために死ぬ」という皇民化教育が一般住民に血肉化していなかったのではないかという疑問を抱くようになった。地上戦闘の中を逃げ惑う住民や皇軍の一員としての防衛隊員からは、それを裏付けるような具体的証言を相当数聴き取りしてきた。そして一九七〇年代半ば以降、防衛庁防衛研修所戦史室に所蔵されている日本軍関係極秘文書からは、むしろ沖縄県人にいかに軍国教育・皇民化教育が徹底化できなかったか、とそれらの証言を裏付けるような資料が続々と見つかったものである。

「化外(けがい)の民」であった沖縄住民を皇民化教育して、日本本土並みに帝国軍人の一員に加えようと、明治三一年に「徴兵令」を施行して「徴兵業務」を開始したときからの軍部の極秘文書に、現在ではわれわれも接することができる。

筆者がこれまでに目を通してきたそれらの文書では、明治四一年の沖縄連隊区司令部の報告書が最初であった。

防衛庁防衛研修所戦史室は沖縄警備隊区によって徴兵業務を開始した一〇年後の概況報告書を所蔵している。徴兵業務をとおして沖縄県人の軍事思想、国家意識、徴兵忌避について日本軍部がどのように把握していたかについて、明治四一年度の『沖縄警備隊区徴募概況』は明確に記している。その一部を筆者が意訳して紹介したい。

まず、「徴兵検査」が困難であることの理由をあげている。沖縄では、日本語(標準語)が通じないので、検査官には通訳をつける必要があり、徴兵忌避が強い地域では、標準語(普通語)を知らないふりして徴兵逃れをしようとするものが多いこと。そして、沖縄県人は軍事思想が幼稚で、国家恩想が薄弱なので、そのために徴兵を忌避し、国民の大義務である兵役を逃れようとするものが多い、と具体的に兵役逃れの実態を記している。

つぎに大正期では一九二二(犬正一一)年、沖縄連隊区司令部が、沖縄県出身者の兵卒教育にあたって編集した『沖縄県の歴史的関係及人情風俗』に、日本軍部の沖縄県人観がより鮮明に記されている。

まず、沖縄県人の「短所」としては、「皇室国体に関する観念、徹底しおらず」と皇民化教育がまだ浸透していないことを最初にあげている。とりわけ天皇主義教育、皇民化教育を徹底的に植えつけておかないと、イギリスからの独立運動で揺れているアイルランドのようにならないとも限らない。現在、二万人の出稼ぎ移民者のうち八割はハワイや南米にでかけており、これまでも希薄だった天皇に対する忠誠心がますます育たないのではないかと、心配している。日中戦争が開始された後の移民帰国者は、すべて要注意人物として警察に尋問を受け、日本軍が沖縄へ移駐した後、軍部から「スパイ視」されていった背景が早くも大正期に記されているのである。

日中戦争が本格化する三年前、石井虎雄沖縄連隊区司令官が一九三四(昭和九)年、極秘文書「沖縄防備対策」を陸軍次官へ送付した(『資料日本現代史8』大月書店発行所収)。その内容は多岐にわたっている。地勢的に軍事上要衝の地であるにもかかわらず、沖縄の県民性は自主性がなく強大な者に従って存立を維持しようとする事大主義だが、帝国日本が強国になってきたので大和化しつつある。だが、一時的にせよ外圧にあった場合(外国に占領された場合)、皇民意識を維持し得るとは誰も保証できない。また、沖縄県人は「満州事変」から三年も経過して緊迫した情勢であるにもかかわらず、「帝国日本国家」の運命にはまったく眼中にないということは疑わざるを得ない。沖縄県人の国家意識が希薄である証拠として、「満州事変」で沖縄出身兵士が入隊している九州の第六師団が出動しているにもかかわらず、青年訓練所生でさえ、自分の村から出征兵士を送り出しながら、無関心でその意味がわかっていない。したがって、日本が不利な状況になって、一時的にでも沖縄が日本の統治から離れたらどういう事態になるか、おおよその見当がつく。つまり、容易に外国の支配に甘んじて受けるだろう、と沖縄戦で米軍が沖縄占領するや何の抵抗もなくごく自然に米軍の統治下におかれた状況の予測を的中させている。

以上のように、明治期以来昭和戦前期にかけて日本軍部は沖縄県人に対して、天皇のために死んでも皇国を守るという「殉国思想」やその気概がないことに一貫して強い懸念をいだいていた。

国家の最高機密を知った沖縄住民-直接的要因


国家の最高機密というのは、軍事機密のことだといわれている。臨戦態勢下では軍隊の編成・動向や陣地は、最高の軍事機密に属するであろう。

一九四四年三月二二日に創設された第三二軍・南西諸島方面防衛軍は、渡辺司令官らの首脳部の沖縄移駐後、各部隊が八月前後に続々と沖縄へ移駐した。それらの部隊が集中的に移動してきたために、各部隊は自前の兵舎を建設する余裕はなく、学校や現在の公民館に相当する倶楽部・村屋、民家を、事前の連絡もなく有無を言わさずに兵舎として使用していった。部隊移動は、最高の軍事機密だからその部隊の一般兵士には、行先を知らさなかった。ましてや住民に対して事前に部隊が移駐することを知らせるはずはなかった。

ある日、突如、各集落(当時は部落と称していた)に皇軍兵士が姿を現し、その部隊長らと部落長(現在の自治会長に相当する区長)らが打ち合せて、瓦葺家の民家が兵舎として割当てられていった。しかし、その家人を立ち退かすわけにはいかず、兵士と住民が一つ屋根の下で同居することになったのである。沖縄住民にとって、我が家が兵舎と化し、皇軍兵士と起居を共にするということは晴天の霹靂だった。

だが、沖縄島やその周辺離島でいえば、その部隊は沖縄守備隊であり、住民にとって自分たちを守りに来た「友軍の兵隊さん」として、温かく迎え入れたのである。機密保持のため夜間移動が多かった兵士たちが、深夜に辿り着いた目的の集落では、突然の移動であったにもかかわらず、女性たちが夜中からぜんざいなどの炊き出しでもてなした。特に出征兵士の留守家族では、はるかな異郷でのそれぞれの夫や父、兄、弟らを想い、なけなしの食料を提供していった。

このような形で、地上戦闘が数か月後に展開することになった沖縄では「軍民同居・雑居」が開始されたのである。

と同時に、全島陣地化のために各日本軍部隊では、兵士だけでは到底足りずに、ただちに足腰の立つ老幼男女の住民を総動員した陣地構築にとりかかった。かくて戦闘にとって最高の軍事機密である陣地の位置や内部まで住民が直接知ることになったのである。当然、一般兵士でも知らなかったという陸軍・海軍の司令部壕はその専門の部隊が構築していったが、飛行場陣地をはじめ大方の陣地構築には住民を駆り出していった。しかし、陣地構築がまだ切迫していない時期には、部隊によっては「主陣地ノ構築ヲ第一ニ着手シ 偽陣地前進陣地海岸陣地ノ順ニ構築ス 主陣地以外ハ成シ得ル限リ土民ヲ利用ス」(独立混成第一五連隊本部陣中日誌)とあり、作業人員の記録にも「中隊七五名、土民一一〇、在郷軍人三〇」と記録している。それらの部隊も切羽詰ったときに、信用できない「土民」まで、主陣地構築に動員せざるを得なくなった。こうして日本軍は、地上戦突入前に「土民」に最高の軍事機密を知られてしまうことになったのである。

このように軍部は住民に不信感を抱きながらも、牛島満第三二軍司令官は、着任して間もない一九四四(昭和一九)年八月三一日、「地方官民ヲシテ喜ンデ軍ノ作戦ニ寄与シ進ンデ郷土ヲ防衛スル如ク指導スベシ」と、全軍に訓示している。しかし、訓示の最後には「防諜ニ厳ニ注意スベシ」と、スパイ取締りを指示している。

ついに、サイパン島の日本軍を壊滅させた米軍は、同年一〇月一〇日、県都那覇を中心に、南西諸島一帯への大空襲を強行した。それは、沖縄戦の前兆であり、米軍上陸は時間の問題となってきた。それから一か月過ぎの一一月一八日、極秘文書として、「報道宣伝 防諜等ニ関スル県民指導要綱」が、球一六一六部隊から出された(「秘密戦二関スル書類」)。

そこには、沖縄戦での住民被害の最重要なキーワードが示されている。第一方針として「軍官民共生共死ノ一体化ヲ具現シ」とあるので、住民にとって地上戦闘下に巻き込まれたら、軍との「共死」が前提になっていたのである。さらに、地上戦闘が現実化した一九四五年四月九日、第三二軍球軍会報に「爾今軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ 沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」という命令が発せられたことが記録されている。激戦場で「間諜とみなす」といえば、敵のスパイとみなすということであり、「処分す」といえば、処刑・殺害を意味していた。また、当時ほとんどの沖縄住民は、沖縄語すなわち沖縄方言しか便用していないのは、住民と直接接している日本軍そのものが熟知していた。したがって、住民を巻き込んだ地上戦闘が展開している最中に発せられたこの命令は、沖縄住民総スパイ視だと断定できよう。

究極の恐怖心――事件の発生


筆者は、沖縄戦における住民スパイ視・強制集団死事件の背景は、日本軍資料(ここでは紹介していない資料が数多く存在する)や住民証言から、「防諜」や「軍事機密保持」という軍事上の作戦のために住民を直接殺害したり、死に追い込んだりしたと理解している。

住民の、軍人同様な自決の形や住民同士での殺し合いは、究極の恐怖心から発生したものであり、決して殉国死ではなかった。日本軍は「軍事機密漏洩防止」のため、住民との接触過程で「鬼畜米英」に対する極度な恐怖心を植えつけるとともに、敵への降伏を兵士同様に絶対に許さないという方針を採っていた。それを裏づける住民証言は数多くある。そのうえ日本軍が一般住民の投降を許さなかったという数少ない日本軍の裏付資料が沖縄県平和祈念資料館に現存している。それは昭和二〇年六月五日日付で久米島部隊指揮官が具志川村仲里村の村長・警防団長に宛てた「達」で、米軍の投降勧告「ビラ」を「妄ニ之ヲ拾得私有シ居ル者ハ敵側『スパイ』ト見倣シ銃殺ス」とある。

迫りくる米軍(前門のトラ)とこのような日本軍(後門のオオカミ)との板ばさみに合った絶体絶命の絶望的状況の中で、ある契機によって、それらの事件は各地で発生している。

そして米軍の保護下におかれ、日本軍が植えつけた米軍への究極の恐怖心が、「デマ」によって植えつけられていたことを知ったとき、その「マインドコントロール」が解けて、以後、住民同士で殺し合うという悲劇は生じていない。それは、まさに日本軍が作戦のため指導・誘導・説得・強制・命令などによって発生したのである。筆者は住民が日本軍への戦闘協力とか天皇への忠誠心の発露として、親子・友人・知人同士で殺し合ったり、自ら死んだということを裏付けるような証言は聴取り開始以来今日まで耳にしていない。

おわりに


「有事法制」制定の立役者ともいうべき統合幕僚会議栗栖弘臣元議長は、その法律施行、二年前の二〇〇〇年に『日本国防軍を創設せよ』(小学館文庫)という題名の本を刊行している。その中で「自衛隊は国民の生命、財産を守るものだと誤解している人が多い」、「国民の生命、身体、財産を守るのは警察の便命であって、武装集団たる自衛隊の任務ではない」。自衛隊は「国の独立と平和を守る」もので、この場合の「国」とは、「天皇制を中心どする一体感を享有する民族、家族意識である」と、述べている。われわれは、沖縄戦の教訓として「軍隊は住民を守るものではない」ということを幾多の証言に基づき導き出してきた。さらに、沖縄戦での日本軍の便命は、「国体護持」(天皇を中心とした国家の存続)であったことを証明してきた。それを自衛隊制服組のトップだった栗栖元議長が、軍の本質を赤裸々に述べているのである。しかし、われわれは、沖縄戦の教訓として、住民を巻き込んだ地上戦闘下では軍事優先の結果、軍隊の論理が貫徹して「軍隊は住民を守らないどころか、住民を殺害したり、死に追い込んだりする」ということを学んだのである。

今後、国内戦場を想定した「有事法制」下の日本は、「軍民一体」・「戦意高揚」を促すさまざまな法律を準備していく。そして、国を守る気概で一致団結して軍に協力した究極の姿が集団自決だったという言説を、さまざまな手段を用いて国民の間に定着させようという動きが、進んでいくであろう。「住民の集団自決に軍命は無かった」という動きは、その一環である。そこで、沖縄側が政府・国防族・「歴史修正主義」グループの土俵である「集団自決」という用語を用いて異議を唱えても、かれらにはなんら痛痒を感じないどころか、沖縄戦書き換えの突破口を切り開いた、と捉えているであろう。

いしはら・まさいえ
一九四一年、台湾宜蘭市生まれ。那覇市首里出身。大阪市立大学院修士課程修了。一九七〇年、国際大学講師。現在沖縄国際大学教授(社会学、平和学)、現日本平和学会理事。全戦没者刻銘碑「平和の礎」刻銘検討委員会座長、沖縄県平和祈念資料館監修委員等を歴任。直近の編著『岩波DVDプックオキナワ』(岩波書店 〇六年)、『米軍再編と前線基地・日本』(凱風社 〇七年)


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