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諌山証言の変遷

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pipopipo555jp

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元・参謀本部庶務課長大佐・諌山春樹氏の証言は、旧版では書簡往復のみとして補遺に収録されていたが、新版では、面会インタビューができたとして、本編に昇格収録されている。

阿羅健一(畠中秀夫)氏の常だが、いつインタビューしたのか日時が明記されてなかったりしている。ここでは、面会して聞き取った会話体の内容と、以前の補遺との文章が酷似しているのが不思議といえば不思議である。「聞き取り文体」での作文を諒承してもらっただけではないのか、という疑惑が残る。

よって、吟味のために二つの文章を並べてみた。

聞き取り「南京事件」・補遺 「南京事件」日本人48人の証言・本文
48 参謀本部庶務課長・諌山春樹大佐

 諌山氏は、十二月二十六日、人事及び幕僚業務などに関し、各軍及び師団司令部と連絡のため阿南惟幾人事局長と共に上海に向い、南京には元旦の夕方に入った。杭州にも行っている。この時、額田担人事課高級課員、稲田正純軍事課高級課員、荒尾興功作戦課員が同行した。

 インタビューを申し込んだ時、諌山氏は九十一歳で、お目にかかることはできなかった。しかし、手紙での質問には答えて下さった。諌山氏は当時から温厚な方として知られているが、三年間にわたり七度も手紙を下さった。直接関係のある部分は次のとおりである。

「参謀本部で受ける報告は、毎日の電報などを含めて庶務課が受付け、これを主務課に渡す分と関係課の分とを同時にガリ版ですり、配布します。当時、私は総ての情報を受ける窓口にいて、昭和十四年春まで庶務課長をしていましたが、事件について何も聞きません。緘口令などということも絶対ありません。

 南京に出張した時、事件について誰も質問をいたしませんでした。南京では市内など各所を視察しましたが一人の女の死体を見た位でした。

 然るに塚田中支那方面軍参謀長が、具体的でなく、また虐殺事件を思わせる様な文句でもなく、暴行に就いて松井軍司令官が非常に心配しておられる旨を申されたが、それでも私はショックをうけた事でもなく、漠然たる気持で過ぎていました。その後も深く探究しておりません。

 私は終戦後約十年間巣鴨拘置所にいて何も知らず、南京虐殺事件に関心を持ったのはその後の事で、最近の様におもわれます。問題が拡大してからは無責任だったと思っています。

 南京事件については何もわからず、役に立たず慙愧に堪えません」

参謀本部庶務課長・諌山春樹大佐の証言

 昭和十二年九月の上海派遣軍上陸以降、打合せ、視察などのため、度々、軍中央部から現地軍に派遣があった。

 昭和十二年十二月の暮には参謀本部庶務課長の諌山春樹大佐が上海に向い、元旦に南京に行った。この時、陸軍省人事局長阿南惟幾少将、補任課高級課員額田担中佐、軍事課高級級課員稲田正純中佐、参謀本部作戦課員荒尾興功少佐らと一緒であった。健在なのは諌山氏一人である。そこで諌山氏に軍中央部は現地軍や南京をどう見ていたのかをおたずねし
た。昭和六十二年九月のことである。

――昭和十二年の参謀本部庶務課の記録によりますと「十二月二十六日、課長諌山大佐は人事及幕僚業務等に関し各軍及師団司令部と連絡の為中支那方面に出張す」とありますが、この出張は具体的にどういうことですか。

「現地の軍の状況がどういうものか。軍と師団との関係はうまくいっているかなど視察するためです。」

――軍紀が乱れて、そのためということは、ありませんか。

「そういうことではありません。軍の状況を把握するためです。参謀などの働きを知るためで、深い意味はありません。よくあることです」

――阿南人事局長や額田人事局高級課員も一緒ですが・・・・。

「もともと参謀の人事は参謀本部の庶務課がやり、そのほかの人事は陸軍省人事局でやることになっていました。ところが昭和十一年の二・二六事件後、すべての人事を人事局がやることになって、参謀の人事は参謀本部庶務課が原案を作り、人事局に了解してもらったうえで、最終的に決定することになりました。そういうことで庶務課長は陸軍省人事局とは関係があるのです。ただし、阿南人事局長とは一緒でしたが、額田君の記憶はありません」

――南京にも行かれたのですね。

「元旦頃行きました。市内の各所を視察しましたが女の死体を一つ見たくらいでした。
 それでも塚田攻参謀長が松井(石根)軍司令官が暴行について非常に心配しているとおっしゃいました。ただし、具体的でなく、また虐殺事件を思わせる様な文句でもなく、そのため、その時はショックをうけた事もなく、漢然なる気持で過ぎていました。現在言われているような虐殺ということではなく、一緒に行った人も虐殺というようなことを質問したということはありませんでした」

――それは軍司令部内でのことですか。

「上海の飯店のようなところでの話だったと思います。塚田参謀長はまじめな方で、深刻になってました」

――松井大将ともお会いになりましたか。

「軍司令官とは軍司令部で簡単に挨拶した程度でした」

――松井大将はどのような方ですか。

「私が陸大をおえて参謀本部の第二部所属となった時の部長で、それから何度か接しています。その時は建川(美次大佐)さんが課長で、建川さんは奔放な方でしたが松井さんの下でしたから格別な事も見当りませんでした。
 松井さんは第一次世界大戦の時、従軍武官として欧州の戦場におり、当時の活躍ぶりは凄かったと言われていました。第二部長のあとジュネーブ軍縮会議の全権でパリに来てまして、私はパリにいましたのでお世話しています。
 上海では老練大人の風の感じを持ちました」

――上海の軍の特務部には諌山さんと同期の木村松次郎(大佐)さんが宣伝班長としていましたが・・・・。

「会ってません」

――昭和十三年一月四日に参謀総長より軍紀風紀の乱れに対し訓示が出て、一月九日に塚田(攻)中支那方面軍参謀長より麾下軍に通牒が出てますが・・・・・。

「記憶に無いのです」

――参謀本部にいて、現地軍の軍紀が悪かったとか話題になっていませんか。

「そういうことはありません」

――南京事件について、箝口令がしかれていたということは。

「参謀本部で受付ける報告は毎日の電報などを含めて庶務課が受付け、主務課に渡す分と関係課に渡す分を同時にガリ版で刷り、これを配布します。すべて私が目を通しますから私が知らないということはありません。昭和十四年三月まで庶務課長をやってましたが、その間虐殺事件が話題になったことも、箝口令をしいたことも絶対ありません」

――七月に蘆溝橋事件が起きた時の参謀本部の様子というものはどうでした?

「作戦部長の石原(莞爾少将)さんは不拡大方針でしたが、全体として不拡大主義は四面楚歌でした」

――支那課が簡単に支那を一撃できると言ってた様でしたが・・・・。

「さあ。直接タッチしていませんからわかりません」

――昭和十三年一月にアメリカから、日本軍が南京のアメリカの権益を侵しているとの抗議があり、本問雅晴第二部長が下志津飛行学校教官をやっていた広田豊中佐とともに南京に行ってますが。

「アメリカなどから当時抗議があった事は言われてみるとぼんやりと思い出されるのですが、本間さんの出張は全く記憶にありません。本問さんが第二部長として出張するのに部下を伴わず、広田中佐を同行させた事も異例と思われます。広田は陸士の同期です」

――第十六師団長の中島今朝吾中将の日記に「捕虜はせぬ方針なれば」とありますが、どんな意味なのでしょうか。

「武器をとりあげて釈放せよ、ということでしょう。捕虜は釈放するということなのですが、そのまま釈放すればまた敵となりますから武器を取り上げます」

――捕虜に対して諌山さんはどのような考えをお持ちでしたか。

「特に関心はありませんでした。日本人は捕虜にならないという考えがあったので捕虜について特別考えてなかったと思います。私自身、昭和十四年三月、大同にある第二十六師団の連隊長として行きましたが、捕虜はあまりいなかったと記憶しています。また、捕虜なのかどうか、中国人を使役として使っていました。私は前の連隊長のやったとおり行なうという考えでした」

――当時南京事件は全然言われていなかったのですね。

「事件ということは全然知りませんでした。敗戦の時、私は台湾軍の参謀長をやっていて、引揚げが終わった時B-29搭乗員処刑の件でアメリカの裁判にかけられ、終身刑となりました。それで上海にいて後で巣鴨にかわりました。ですからその頃南京事件が話題になっていたことは知りませんでした。最近言われてから知るようになりました」

 以トが諌山氏の証言である。

 諌山氏には昭和60年から度々当時の中央の軍の考え方について手紙で教えてもらっていた。そのことを昭和62年に『聞き書き 南京事件』を刊行したさい、簡単に記した。本が発刊された直後、軍全体のことでしたらお話しできますという手紙をいただき、そこではじめてお目にかかった。それまでは南京事件には何ら資料を持たないので証言はできないということでお会いできなかったのであるが、お目にかかると、軍の中央部のことと南京出張については知る限り話して下さった。南京に行ったのは四十三歳の時であり、話をうかがったのは五十年後で、諌山氏は九十三歳であった。諌山氏は温厚な方として知られているが、お目にかかると、いかにもそうだということがわかる。

 昭和八年、諌山氏はフランスから帰って参謀本部の第二部に配属になった。少佐ながら庶務課高級部員をつとめた。昭和十年八月に福岡の連隊に出たが、一年後に再び高級部員として庶務課に戻った。公正、温厚な人で、人事をつかさどるに余人にかえがたいということからであった。昭和十二年十一月には庶務課長となり昭和十四年三月までつとめた。

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