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自決未遂…

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自決未遂…

中村八重子
※慶留間島

弾をもらって死のう!


  一九四五(昭和二十)年三月二十六日は朝から空襲が激しく、みんなが隠れている山々に低空で襲いかかり、さらに艦砲も空襲と交互に飛んできましたが、しばらく続いた後、ピタリと攻撃が止んだのです。ああ、空襲は終わったのかと、あっちこっちから顔色を失った人たちが寄り集まってきました。その時です。監視に当たっていた島の学生たちが、あわてふためいてやってきました。その中のひとりが、
「あなたたちはまだ生きているのか。サーバルの人たちはみんな首をしめて死んだよ。アメリカ兵はもうそこまで上陸しているよ。もう生きられない。みんな、早く首をしめて死ななければ!」

「人間が首をしめて簡単に死ねるの!」
「一中隊に行って弾をもらってから死のう」
「兵隊の所に行こう」
ウンザーガーラはもう大混乱におちいりました。

  私たちの運命は、もう泣いても叫んでもどうにもならない。絶望からかみんな一言も声を出しません、、何をすべきかはいわずとしれています。
「一中隊へ行こう。弾をもらって死のう」
―みんなそう思っていました。死ぬことが唯一の逃げ道であり、安らぎでもありました。

  全員、一中隊に向かって歩きだしましたが、山から出ることは容易ではありません。山道では米軍が攻撃しているのか、バリバリと時々弾の音が聞こえてきました。

  私たちは、妹の照子と弟の茂、いとこの栄昌、源吾叔父さん一家、それに数人の村人が一緒でした。山道を歩いている途中、いきなり叔母さんが、
「お父さん、もう生きられないよ。新屋小のおじさんたちは首をくくって死んだというしアメリカ兵につかまったらお父さんは奴隷にさせられるというし、お父さんを奴隷にさせるくらいなら皆死んだほうがいいよ」
といったのです。すると叔父さんは
「待って、すこし待って」
といいました。しばらくすると七歳の好子ちゃんがいいました。
「ねー早く首をくくって死のうよ」
「お父さん! 子供でも死のうといっているのよ。子供の勇気もないのお父さん」
叔母さんは叔父さんをせきたてています。私も必死に止めました。
「待って、今しばらく待って」
大きな声ではいえません。すぐそこには、いつの間にかアメリカ兵がいたからです。サワサワと笹の音がしました。その後、叔父一家は私たちとは別行動をとってしまいました。

  そのうち、ほとんどの人が散り散りになり、あたりを見回すと照子と茂、それに栄昌もいません。少し歩くと木立の中にちょっとした広場がありました。皆そこへ行ったのだろうか。私は残った二、三人とその場へ行き、すわりこんでしまいました。

  間もなくして、枯れ葉を踏む足音が近づいてきました。
「アメリカ兵だ」
と思い、音をたてずに様子をうかがって見たら、さっきまで一緒だった部落の人たちでした。
「みんなはどうしたの」
と聞いたら
「サーバルに行った」というのです。

  そうしているうちに栄昌が来ました。次に照子や茂も中村のヨシおばさんや野崎の伯母さん、静子、澄子さん、下良(シチヤーラ)のおばあさん、おじいさん、おじさん、田之端(タンタ)の親子、あっという間に三、四十人の人たちが、そこに集まってきました。不思議なもので、ちりぢりに逃げた人たちが、また集まってきたのです。でも、様子は前とはずいぶん違っていました。

  栄昌と茂がいうには、一中隊に行ってみると、まだ空襲は続いているが、日本兵が一人も見当たらない。それで自分たちだけが取り残されたと思い、今度はみんなでサーバルに行って死のうということでサーバルまで行き、お互い首をしめあって死のうとしたのだそうです。茂は照子の首をグーツとしめたあと自分の首をしめ、中村のおばさんは自分の母親と四歳の久子ちゃんをしめ殺したというのです。その様子をアメリカーたちは見ていたようですが、何もしなかったといいます。

  結局、照子も茂も中村のおばさんも死にきれず、山に戻って来たのでした。照子の顔を見ると、瞼はむらさき色にはれあがり、首にはいくすじもの血がにじんでいました。

顔や首が紫色に


  三、四十人くらいになった私たちは、死に場所を求めて山の中をさまよっていましたが、ある場所にきたとき、源吾叔父さん一家のむごたらしい死に出くわしました。生後五、六カ月の寛ちゃんと三歳の悦ちゃんを小さな木に猫でもぶらさげるようにぶらさげ、好子ちゃんと洋子ちゃんは肩を抱き合って、隣の木にやや座るような格好で、源吾おじさんと長女の敏子さんはイクギの枝の大きいのに並んでぶら下がり、そのそばに叔母さんが座った形で下がっていたのです。これ以上のことは、とても話せません。

  しかし私たちは、この家族がかわいそうとか何とかというより、うらやましくてしかたありませんでした。ああ、とうとう逝ってしまったか、早く死ねて良かったねと、心から祝福しました。そのうち、アメリカーの大声が聞こえてきました。どうも、私たちのすぐ足下にいるようです。こんな近くまできては、私たちは逃げようがないと、死を急ぎました。それが、スピーカーの音だとも知らずに……。叔父一家のすぐそばを死に場所に決めました。

  ひもらしいひもを持っているのでもない。ただ、防空頭巾のひもとタオルがあるのでそれを裂いて、そこにいる人たちに配ったのです。みんな、ヨーイ、ドンの合図で木にぶら下がりました。でも、木の枝が折れたり、ひもが切れたりで、みんな一緒には死ねません。一緒でなければいけない。一人取り残されるのはこわい。だからみんな一緒に死のうとしました。

  私たちの顔や首は紫色になり、首はヒリヒリ痛むだけです。なかなか死ねません。田之端の小学校三年生の男の子は、しきりに母親に
「死なせてくれ」
とせがんでますが、母親は
「私はどうしてもお前を殺すことはできないよ」
と泣いています。そのうち、この家族と川之端(カーヌハタ)の家族は、私たちのグループから離れて行って、みんな一人残らず死んでしまいました。

  私たちは十四人だけが取り残されました。私たちは、こうなったら海に落ちて死のうと思い、場所を変えることにしました。海の見える所に行くと、ちょうどそこに、一本の小さい山桃の木が、紫色の実をいっぱいにつけて焼け残っていました。三月といえば、山桃の熟する季節で、私たちは飢えと渇きでそれを頬張りながら下を見ると、海は米軍の艦隊でぎっしり埋めつくされ、小さなボートが駆け回っています。崖から飛び下りて死ぬつもりでここに来たものの、死にそこねると敵につかまる危険性があります。死ぬことより、敵につかまることがどんなに恐ろしいかわかりません。

  私たちは、月夜の焼け跡に横たわり、そこで一夜を明かすことにしました。そこは、海に面した足場の悪い所で、しかも敵の方からはまる見えなのですが、なぜか、そこから動こうとは思いませんでした。


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