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ニホンの夏を駆け抜けた三人との出会い(転載)

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ニホンの夏を駆け抜けた三人との出会い(転載)

この夏、在日コリアン人権協会という団体からたのまれて、以下のような小文を同団体の冊子『liber(リベール・ラテン語で自由な、独立したという意)』に掲載した。時間が経ったのでここに転載・紹介しておく。同誌担当編集のKさんはどうやら朝日ジャーナル時代にすれちがっている。世間は狭い。(*^_^*)

**「ニホンの夏を駆け抜けた三人との出会い」*******

▼毎年この時期になるとなぜか三人の人間のことをおもいだす。ひとりは沖縄人であり、ひとりは日本人であり、そしてもうひとりは韓国人だ。ふたりはすでに故人となられ、もうひとりは消息が掴めない。▼最初に出会ったのは沖縄生まれの富村順一というヤクザものだった。二十代初めのころのことだ。どのような経緯から知り合うことになったか判然としないのだが、当時さかんにおこなわれていた新左翼系の集会の場ではなかったか。ごつい身体に野獣のような精気をみなぎらせ真っ黒に日焼けした四角い顔で手刷りのパンフをひとり頒布していた。パンフには『死後も差別される朝鮮人』というおだやかならざる表題が付いていた。好奇心から手にとってみた、そこには沖縄の離島のひとつで第二次大戦末期に日本軍によって島の住民多数が虐殺された事件のことが記されていた。そのなかには乳児までが日本軍によって斬り殺された在日朝鮮人一家・具仲会さんの名前があり、彼が訴えていたのは、そのことだった。「オレは沖縄人だが、在日朝鮮人は日本人に差別され沖縄人にも差別されている、住民虐殺のあったその島でも朝鮮人故に同じ虐殺遺族の人たちからも避けられてしまって居るんだ、二重三重の差別の実態をオレは告発したい」と富村はわたしに熱っぽく語りかけた。そうしたことからわたしも彼の運動に協力することになったのだった。▼沖縄出身のフリーライターの友人が居て彼もまた富村の主張に共鳴し参加した。やがて運動はひろがって、虐殺の地に無念の想いのままに死んでいった被害者たちの石碑を建てることになった。それはけして「慰霊の碑」ではない、むしろ死んでいった人びとの恨みを刻んだものであるべきだということになり、『痛恨之碑』と名付けることになった。

▼この運動の過程でわたしはもうひとりの日本人と出会う。当時国士舘高校の数学教師を解雇され解雇撤回の裁判を起こしていた桑田博という人物である。練馬にある彼の家にはさまざまな運動体の人びとが集まり、さながら梁山泊の様相を呈していた。無鉄砲でその本質のところにカブキ者の気質をそなえるはぐれものたちが自然と集まってきていた。そうした空間は1970年代という時代がもたらした空気でもあっただろう。だが、新左翼運動がやがてはセクトの矮小なイデオロギー対立にと分断されてゆくなかにあって、桑田博の梁山泊にはむしろ自由闊達な空間がかがやいていた。富村はそこでは特定セクトが祭り上げる英雄などではなくやっかいで、しかししたたかで、ある意味でピュアーな沖縄ヤクザの素顔にかえっていた。▼『痛恨之碑』建立運動は桑田博というたぐいまれな市井の運動家の力を得て、ようやく沖縄・久米島のサトウキビ畑のなかに竣工する。だが、そのいっぽうで運動のエンジンでありつづけた富村という男のねむっていた野生もまた目覚めはじめていた。運動の賛同者のわかい女性に片端から手をつけていったのだった。こうしたことは、当時の市民運動のなかではおそらくはさまざまなかたちで起きていたことだっただろう。ある種アナーキーな、既成秩序の破壊と解体がまるでファッションの如くに在った、そうした時代だった。しかし、富村の傍若無人はもはや見過ごせないところまで来ていた。こうして、運動はやがて解体し富村はわれわれのもとから消えてゆく。時代はいつのまにか1980年代へはいってきていた。

▼三人目の人物は、この桑田博の家で出会った宋斗会と名乗る韓国慶尚北道出身の在日一世の韓国人運動家である。詩人を称し、2002年87歳で亡くなるまで、一貫して日本政府の旧植民地政策の責任を追及しつづけた。出会ったころは在日韓国人差別をおこなう法務省に抗議して、みずからの外国人登録証を法務省前で焼き捨てるという直接行動をおこなって当局に逮捕されている。宋さんはいつも山羊のような顎髭を生やしひょうひょうとやせっぽちの身体を風に運ばせるようにあるく人であった。ながく京都大学の熊野寮に居座るように住み続けてすこしも頓着しなかった。最後の仕事は、昭和20年青森県の大湊から朝鮮人帰国者多数を乗せて釜山に向け出港しながら、GHQの指令で寄港した舞鶴でナゾの爆発を起こして沈没、500名以上の朝鮮人犠牲者を出した怪事件「浮島丸事件」の国家賠償を求める運動だったとおもう。その生涯をかけて日本政府の韓国人に対する理不尽を最後の最後まで告発しつづけた。その死をわたしは新聞記事で知ったのだった。

▼なぜこのようなことをここで書くのか、じつはわたし自身もわからない。桑田博氏は宋さんより若かったがさきに亡くなっている。彼は広島・尾道の生まれであるが終戦の時に広島市に滞在し被爆をしていた。自らはしかし被爆者であることを語らなかった。国士舘の裁判では解雇撤回の判決を勝ち取りながら、一緒に闘った朋にゆずり自らは教職にもどることはなかった。その最後は、在日韓国人の救援で腹膜炎を起こしている身体で弁護士と打合せに出かけたことが手遅れになっての凄惨な死であった。ひとり健在であるはずの富村順一は、すでに70歳をはるかに超すはずであるが、その消息はいずことも知れないままである。数年前、横浜山下公園で犬を連れて乞食のような格好の彼を見たという話が伝わってきたが、それきりだった。▼いま、韓国と日本のあいだにはつめたい風が吹いている。小泉純一郎首相は、さきの終戦記念日談話で「一衣帯水」を謳ってみせたが、政治の暗い暗渠から吹きあげる風の匂いは、あいかわらずなまぐさいばかりだ。ひとがひととして自由であり得る社会は、まだかなり先のようにおもえる。

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『liber』110号(2005年8月25日発行)より転載(原文ママ 字詰改行などは変更した)。
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