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軍の自決命令 私は聞いた

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朝日新聞1988年6月16日夕刊

軍の自決命令 私は聞いた…


渡嘉敷島の「住民集団死」
当時の役場兵事主任ら証言
呼集し手榴弾配る
「まず攻撃、残る一個で…」 

沖縄戦初頭に沖縄の離島、渡嘉敷島で、住民三百余人が「集団自決」した。これが日本軍に強制された「死」だったのか、文字通りの「自発的な死」だったのか。沖縄戦の歴史的評価に深くかかわるとされながら、今ひとつ決め手の証拠を欠くまま論争が繰り返されてきた。が、最近になって、当時、渡嘉敷村役場で兵事主任を務め、「集団自決」の際に生き残った人が「日本軍は非戦闘員の住民にも自決命令を出していた」と初めて明らかにし、インタビューに応じてその詳細を証言した。戦後四十三年、沖縄戦には、なお多くの陰が残されているようだ。間もなく六月二十三日、沖縄の日本軍壊滅の日が来る。(藪下影治朗編集委員、写真も) 

一日一便、那覇への村営定期船は、渡嘉敷漁港近くの岸壁から出る。漁協二階からは、渡嘉敷地区の集落、港、そして村民のいう「玉砕場」へと続く山なみが一望できる。漁協組合長で村議の富山真順さん(72)。事前の約束を得ていたのに、その口は用意には開かなかった。

「できれば話さずにおきたい。それが本心なので……」

陸軍を負傷で除隊した富山さんは、1942年(昭和十七年)、郷里渡嘉敷村(当時の人口約千三百人)の役場に入った。軍隊に詳しいので、翌年、兵事主任に任命される。徴兵のための兵籍簿の管理、予備役兵の定期点呼、出征兵士の身上調査など、村の軍関係事務のすべてを担当する重いポストだった。

渡嘉敷村史などによると、沖縄戦が始まった四五年(昭和二十年)三月当時、島には赤松嘉次大尉指揮下の海上特攻隊など約三百三十人と、招集された村民七十人の防衛隊などがいた。同月二十三日朝、島は猛烈な艦砲射撃と大空襲に見舞われる。日本軍と県民約二十万人が死んだ沖縄戦の始まりだった。島の集落はたちまち焼け落ちた。

「島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と近くの国民学校にいた軍から命令が来た」。

自転車も通れない山道を四㌔の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満の少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。午前十時ごろだったろうか、と富山さんは回想する。

「中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ」

すでにない旧役場の見取り図を描きながら、富山さんは話す。確か雨は降っていなかった。門前の幅二㍍ほどへの道へ並んだ少年たちへ、一人二個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。

「いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る一個で自決せよ」。
一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹はいった。少年たちは民間の非戦闘員だったのに……。富山さんは、証言をそうしめくくった。

三月二十七日、渡嘉敷島へ米軍上陸。富山さんの記憶では、谷あいに掘られていた富山さんら数家族の洞穴へ、島にただ一人いた駐在の比嘉(旧姓安里)喜順巡査(当時三〇)が、日本軍の陣地近くへ集結するよう軍命令を伝えに来た。

「命令というより指示だった」とはいうものの、今も本当に健在の元巡査はその「軍指示」を自分ができる限り伝えて回ったこと、「指示」は場所を特定せず「日本軍陣地の近く」という形で、赤松大尉から直接出たことなどを、認めている。

その夜、豪雨と艦砲射撃下に住民は“軍指示”通り、食糧、衣類などを洞穴に残し、日本軍陣地に近い山中へ集まった。今は「玉砕場」と呼ばれるフィジ川という名の渓流ぞいの斜面である。“指示”は当然ながら命令として、口伝えに阿波連へも届く。「集団自決」は、この渓流わきで、翌二十八日午前に起きた。

生存者の多くの証言によると、渡嘉敷地区民の輪の中では、次々に軍配布の手榴弾が爆発した。

が、手榴弾が防衛隊員にしか渡されていなかった阿波連の住民の輪では、大半の住民は肉親を棒や石でなぐり、首を絞めた。その一人、沖縄キリスト教短大の金城重明教授(59)は、母と幼い弟妹の三人をなぐり、絞めて殺した、という。

「今だ」といったような自決の引き金命令が出たかどうか、はっきりしない。富山さんの一族は二つの輪になって、手榴弾を真ん中に投げた。が、発火操作のミスがあったらしい。富山さんの二個は不発に終わり、いとこのそれは爆発した。一族のうち十三人が死に、六人が生きのびる。

「日本軍のそばが最も狙われて危ない。二十三日の空襲、艦砲射撃後、それは住民の常識だった」
と金城教授はいう。
「命令されなければ。住民が、食糧も洞穴も捨てて軍陣地近くへ集まるはずはなかった」
と。

そして沖縄戦の研究者、安仁屋政昭・沖縄国際大口授(53)は住民集結命令の意味を次のように説明する。
「沖縄戦では住民のほとんどが軍に動員され、陣地造りや弾薬運びなどに使われた。住民が米軍の支配下に入ると、戦闘配備が筒抜けになると日本軍は恐れた。兵力のない渡嘉敷島では、それを防ぐ手は、集団自決の強制しかあり得なかった……」

インタビューの終わりに、富山さんに尋ねた。四十三年後の今になって、なぜ初めてこの証言を?

「いや」
と富山さんは答えた。
「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思った」


集団自決の責任論議

渡嘉敷島集団自決は、戦後、村遺族会がまとめた「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」などいくつかの記録から、軍命令による自決とされてきた。が、1968年刊の防衛庁編の戦史「沖縄方面陸軍作戦」は、戦闘に寄与できない者は戦闘員の煩類(足手まといの意)を絶つため崇高な犠牲的精神で自決した、と記述。さらに71年から2年にかけて作家曽野綾子さんが、自決命令の出た証拠はない、とするノンフィクション『ある神話の背景』を雑誌に連載、論議を巻き起こした。最近では第三次・家永教科書訴訟の重要な争点ともなり、今年二月に那覇で、四月には東京で、金城教授や曽野さんらの証人尋問が行われた。
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