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「隊長は人道主義者」という『神話』ができるまで

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「隊長は人道主義者」という『神話』ができるまで

~座間味島s20年3月24日の会見場面の描写変遷~


裁判で訴えた人たち原告は、沖縄の集団自決が《隊長命令による》という言説を『神話』であって事実ではないと主張しているが、ついでに《軍命令でも軍関与でもない》という結論を求めている。

その進行のなかで、隊長さんは集団自決を止めようとしたのに村民たちはそれを振り切って死んでしまった。《隊長さんは人道主義者だった》、このような新たな神話づくりが進行している。

大阪地裁に提出された双方の準備書面などから、座間味島s20年3月24日の会見場面の描写変遷を見てみる。

I 宮城初枝氏「血ぬられた座間味島・沖縄緒戦死闘の体験手記」

(『沖縄敗戦秘録・悲劇の座間味島』下谷修久編・一九六八年)

「(三月二五日)午後十時頃梅澤隊長から次の軍命令がもたらされました。
『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』
命令を受けた住民の該当者たちは、指定の場所に集まってきます」

故宮城初枝氏は、『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』」と書いたものの、実際にはその場で自分が直接聞いた言葉ではないので、1982年に梅澤氏に告白すると共に、その後、書き換えた手記のコピーを梅澤氏に送った。

また、手記は晩年娘の宮城晴美さんに託され、その死後2000年に晴美氏が著わした『母の遺したもの』に収録された。

II 宮城初枝氏の手記 「母の遺したもの」2000年より

(書かれたのは、1982年梅澤氏に会っった前後か)

その時です。助役の宮里盛秀さんに呼び止められました。助役は私に、一緒について来るようにというのです。私は役場の職員ですから呼ばれたのでしょう。つる子さんと別れ、助役について行ったところ、そこには当時の村の指導的立場にある収入役の宮平正次郎さん、国民学校長の玉城盛助さん、役場吏員の宮平恵達さんの三人がいました。

「これから部隊長の所へ小銃弾を貰いに行くから一緒に行ってくれ」

と頼まれました。役場には当時三八式歩兵銃(手動の五連発銃)と九九式歩兵銃(五発装弾式)の二丁の銃がありました。私はてっきりその弾を貰いに行くのだろうと思い、弾を入れる袋が必要かと、手持ちの袋の中のモンペを取り出して雑木の間に押しこみ、空になった袋をもって、四人の後をついて行ったのです。

艦砲射撃の中をくぐってやがて隊長の居られる本部の壕へたどり着きました。入口には衛兵が立って居り、私たちの気配を察したのか、いきなり「誰だ」と叫びました。
「はい、役場の者たちです。部隊長に用事があって参りました」
と誰かが答えると、兵は
「しばらくお待ちください」
と言って壕の中へ消えて行きました。

それからまもなくして、隊長が出て来られたのです。助役は隊長に、
「もはや最期の時が来ました。私たちも精根をつくして軍に協力致します。それで若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください」
と申し出ました。

私はこれを聞いた時、ほんとに息もつまらんばかりに驚きました。重苦しい沈黙がしばらく続きました。隊長もまた片ひざを立て、垂直に立てた軍刀で体を支えるかのように、つかの部分に手を組んでアゴをのせたまま、じーっと目を閉じたっきりでした。

私の心が、千々に乱れるのがわかります。明朝、敵が上陸すると、やはり女性は弄ばれたうえで殺されるのかと、私は、最悪の事態を考え、動揺する心を鎮める事ができません。やがて沈黙は破れました。

隊長は沈痛な面持ちで
「今晩は一応お帰りください。お帰りください」
と、私たちの申し出を断ったのです。私たちもしかたなくそこを引きあげて来ました。


その後、梅澤裕氏は「友人」である神戸新聞中井和久記者と会い、宮城初枝氏との面会の状況や送られてきた彼女「手記」の写しも見せたものと思われる。それが、神戸新聞の昭和60年7月30日付け記事となった。

III 神戸新聞の昭和60年7月30日付け記事


昭和60年(1985年)の記事には、宮城初枝氏の話として
「二十五日に、道すがら助役に会うと“これから軍に、自決用の武器をもらいに行くから君も来なさい”と誘われた。この時点で村人たちは、村幹部の命によって忠魂碑の前に集まっていたが、梅沢少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と、武器提供を断った」
と書かれている。

この記述は奇妙である。 初枝氏が梅澤隊長のもとを訪れた際に既に村人たちが忠魂碑の前に集まっていたとは、それ以前にもそれ以後にも、どこにもかかれていない。手記には忠魂碑前に集まれという呼びかけが始まったのは、隊長との会見の後だと記されている。もし記事に書かれていることが宮城初枝氏の証言というなら、彼女は梅澤氏に送った手記を否定したことになる。

また梅澤隊長が『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と述べた事実がなかったことも、初枝氏の手記から明らかであり、初枝氏が記者に答えるはずがない内容である。

証言として「」で囲んだ中味は、不確かな取材に基づく中井和久記者の創作と思われる。

IV 梅澤裕氏の『手記「戦闘記録」』

(沖縄史料編集所紀要11号 1986年)

梅澤裕氏は、その年の秋、代理人を沖縄史料編集所に差し向け、上記の神戸新聞記事を根拠に『沖縄戦史』の訂正を求めてきた。史料編集所は訂正するかわりに、当事者記載資料として、『紀要』に梅澤氏の手記を載せることを承諾した。

「戦闘紀要」の記述は、上記神戸新聞記事を骨子としたとも思える内容だった。

二十五日夜二十二頃戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が来訪して来た。助役宮里盛秀氏、収入役宮平恵正次郎氏、校長玉城政助氏、吏員宮平恵達氏及び女子青年団長宮平初枝さん(現在宮城姓)の五名。

その用件は次の通りであった。

  1. いよいよ最後の時が来た。お別れの挨拶を申し上げます。
  2. 老幼婦女子は予ての決心の通り軍の足手纏いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。
  3. きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。

私は愕然とした。今時この島の人々は戦国落城にも似た心底であったか。
私は答えた。

  1. 決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共にがんばりましよう。
  2. 弾薬は渡せない。

しかし、彼等は三十分程も動かず懇願し私はホトホト困った。折しも艦砲射撃が再開し忠魂碑近くに落下したので彼らは急いで帰っていった

この梅澤氏の手記について、手記を受け付けた当時の史料編集所員山城将保氏はこういっている。

同じ場面を梅澤氏は簡単明瞭に「決して自決するではない。弾薬は渡せない」と書いているが、宮城さんの手記には、ただ、ながい沈黙の後に「今晩は一応お帰りください」としか書かれてない。梅澤氏が実際に「決して自決するでない」と発言していたとしたら、最も肝心なこのキーワードを宮城さんが聞かないはずはないし、忘れるはずもないし、書かないはずもない。

『沖縄県史』や『紀要』に解説文を書いた立場から言わせてもらえば、もしあの時、梅澤隊長が本当に「決して自決をしてはならない」と明言しておれば、村役場の幹部をはじめとする村民があれほど大規模な「集団自決」に追い込まれることはなかっただろう、というのが実感である。現在の梅澤氏は、「集団自決」を命令したのは村役場の助役であって私は止めようとしたのだと弁明していい子になろうとしているが、戦闘中の最高指揮官にあるまじき無責任な発言としか思えない。(『沖縄戦の真実と歪曲』)


母初枝氏の手記を託された宮城晴美氏は、陳述書の中でこう述べている。

原告の梅澤氏は、3月25日夜の助役とのやりとりについて、
「決して自決するでない。生き延びて下さい」
と述べたと主張しているとのことですが、母は、1977年(昭和52年)3月26日の33回忌の日に私に経緯を告白して以来、本書に書いてあるとおり
「今晩は一応お帰りください。お帰りください」
と述べたと言っています。母は梅澤部隊長に申し訳ないという気持ちにかられて告白し、手記を書き改めたのですから、「決して自決するでない」と聞いたのなら、当然そのように私に話し、書いたはずです。

本書(『母の遺したもの』)262頁に書きましたように、母は、1980年(昭和55年)12月中旬に那覇市のホテルのロビーで原告の梅澤氏に面会し、1945年(昭和20年)3月25日の夜の助役と梅澤氏とのやり取りについて詳しく話しましたが、梅澤氏は当夜の助役らとの面会そのものについて覚えていませんでした。「決して自決するでない」との梅澤氏の言い分は、記憶にないことを、自分の都合がいいように、あたかも鮮明に記憶しているかのように記述したものと思われます。もし記憶しておれば、梅澤氏はその時訪ねてきた助役・宮里盛秀氏の名前を、前述の「仕組まれた『詫び状』」(乙18)117頁で紹介しましたように「宮村盛秀」と、遺族の戦後改姓の苗字を書くはずはありません。

母は、少なくとも自分の目の前での部隊長の自決命令はなかったということでそのことを梅澤氏に告白し、手記を書き改めたのですが、確かに3月25日の助役とのやりとりの際に、梅澤部隊長は自決用の弾薬は渡していませんが、
「今晩は一応お帰りください。お帰りください」
といっただけで、自決をやめさせようとはしていません。住民が自決せざるをえないことを承知のうえで、ただ軍の貴重な武器である弾薬を梅澤氏自ら渡すことはしなかったというに過ぎなかったのではないかと思います。

「自決をやめさせようとした」との記述は梅澤氏の創作である疑いが濃いが、裁判という自己正当化の晴れ舞台では益々もっともらしいものになっていく。


V 梅澤裕氏陳述書(2005年10月28日)


昭和二○年三月二三日、沖縄本島に先がけ座間味島に米軍の空襲が始まりました。翌二四日に猛爆が始まり、二五日は戦艦級以下大艦隊が海峡に侵入し、爆撃と艦砲射撃で島は鳴動しました。このとき壕に隠していた特攻用の舟艇は殆ど破壊されてしまいました。

問題の日は翌三月二五日のことです。夜一○時頃、戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が五名来訪して来ました。助役宮里盛秀、収入役宮平正次郎、校長玉城政助、吏員宮平恵達、女子青年団長宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です。

その時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ません。

  1. いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。
  2. 老幼婦女子は、予ての決心の通り、軍の足手纏いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。
  3. 就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。

その言葉を聞き、私は愕然としました。この島の人々は戦国落城にも似た心底であったのかと。昭和一九年一一月三日に那覇の波の上宮で県知事以下各町村の幹部らが集結して県民決起大会が開かれ、男子は最後の一人まで戦い、老幼婦女子は軍に戦闘で迷惑をかけぬよう自決しようと決議したという経過があったのです。

私は五人に、毅然として答えました。

  1. 決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。
  2. 弾薬、爆薬は渡せない。

折しも、艦砲射撃が再開し、忠魂碑近くに落下したので、五人は帰って行きました。

『手記「戦闘記録」』に、前年秋の県民決起大会のことがむりやり挿入されている。軍とは無関係のように強調されている。いかにも後付けのいいわけだし、「県民決起大会」は軍の指導によるもので沖縄住民の自発的意思で開かれたものではない。

裁判がはじまると、会見場面はまるで乃木将軍の「水師営の会見」のように、よくできた物語としていろいろと尾ひれがついてくる。


VI 桜井よしこ氏による梅澤氏からのききとり(2007年10月18日の)

『週刊新潮』 '07年1月4日・11日号
http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2007/01/11/post_497/

いよいよ明日にも敵が上陸という翌20年3月24日夜10時頃、司令本部の基地隊に、村民代表5名が訪ねてきた。助役、役場の者、小学校の校長、警察官、女子青年団長だった。

助役の宮里盛秀氏が言った。
「いよいよ敵が上陸しそうです。長い間、御苦労様でしたが、お別れに来ました。私たちは前から、年寄り、女子供、赤ん坊は軍の足手まといになるため、死ぬと決めています」
梅澤氏は本当に驚いた。
「戦国時代の物語として聞いたようなことを、まさか、沖縄の人が言うとは思いませんでした」
と語る。

だが、宮里助役は続けた。
「自決の方法がわかりません。我々皆が集まって円陣を作ります。その真ん中で爆薬を爆破させて下さい」

「そんなことは出来ない」
と梅澤氏。
「それなら役場に小銃が3丁ありますから弾を下さい。手榴弾を下さい」
と宮里助役。
「馬鹿なことを言うな! 死ぬんじゃない。今まで何のために戦闘準備をしたのか。みんなあなた方を守り日本を守るためじゃないか。あなたたちは部隊のずっと後ろの方、島の反対側に避難していれば良いのだ」
梅澤氏は諭して、5人に言った。
「食糧も山中の壕に一杯蓄えてある。そこに避難しなさい。死ぬなど馬鹿な考えを起こしてはいけないよ」

翌日、文字どおり地獄の戦闘が始まった。梅澤氏は部下の6割を失って、遂に敗北した。戦闘に没頭していた氏らは、住民たちのその後の動き、約800名中172名が集団自決した事実を知らなかった。


物語としては素敵だが、事実の記録としては矛盾だらけのインタビューです。
  1. 「いよいよ明日にも敵が上陸という翌20年3月24日夜10時頃」……日にちがちがっていますが?
  2. 「助役、役場の者、小学校の校長、警察官、女子青年団長だった。」……これは桜井よしこ氏の思い違いか? 渡嘉敷島の安里巡査が突然海を渡ってきたのか?
  3. 「「戦国時代の物語として聞いたようなことを、まさか、沖縄の人が言うとは思いませんでした」と語る。 」……こう梅澤氏が本当にいったとすれば、県民総決起大会のことを知っていたという冒頭陳述書はウソということになります。
  4. 「それなら役場に小銃が3丁ありますから弾を下さい。手榴弾を下さい」……少しを3丁としたのはただの勘違いでしょう
  5. しかし、
    「馬鹿なことを言うな! 死ぬんじゃない。今まで何のために戦闘準備をしたのか。みんなあなた方を守り日本を守るためじゃないか。あなたたちは部隊のずっと後ろの方、島の反対側に避難していれば良いのだ」
    梅澤氏は諭して、5人に言った。
    「食糧も山中の壕に一杯蓄えてある。そこに避難しなさい。死ぬなど馬鹿な考えを起こしてはいけないよ」

ここまで来ると何をかいわんや、梅澤氏が自分自身の妄想に酔いしれたからなのだろうか、それとも桜井よし子氏の創作が度を越してしまったのか?

こうして、「梅澤戦隊長は人道主義者だった」という『神話』が、創作、虚偽、ゴマカシ、なりふり構わず完成されようとしている。次のステップは、集団強制死を「国のために自らの命を捨てた」殉死として美しく飾ることなのだろう。
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