正論2006年9月号(産経新聞社・扶桑社)
靖国特集
沖縄集団自決冤罪訴訟が光を当てた日本人の真実
弁護士 徳永信一
靖国特集
沖縄集団自決冤罪訴訟が光を当てた日本人の真実
弁護士 徳永信一
梅澤元少佐の意見陳述
訴状の朗読に続き、白髪の梅澤元少佐が法廷の中央に進み出、この裁判に至る思いを綴った意見陳述書を読み上げた。背筋をピンと伸ぱした大柄な体躯、強い眼差しを裁判長に向けるその姿は、とても88歳の老人にはみえない。
陸軍に志願した梅澤元少佐は、昭和19年9月、海上挺進第一戦隊の隊長となり、座間味島に入った。村民と戦隊との関係は良好であり、隊員は村民との親睦に努めたという。昭和20年3月23日、座間味島は本島に先がけて米軍の空襲に見舞われ、25日は大艦隊が海峡に侵入し、艦砲射撃で島が鳴動し、米軍の上陸は時間の問題であった。間題の場面は、その日の夜の出来事だった。
「夜10時頃、戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が5名来訪して来ました。助役・宮里盛秀、収入役・宮平正次郎、校長・玉城政助、吏員・宮平恵達、女子青年団長・宮城初枝の各氏です。その時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ません。
いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。老幼婦女子は、予ての決心の通り、軍の足手纏いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。
就きましてはひと思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。
その言葉を聞き、私は愕然としました。この島の人々は戦国落城にも似た心底であったのかと。私は5人に、毅然として答えました。『決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。弾薬、爆薬は渡せない』
折しも、艦砲射撃が再開し、忠魂碑近くに落下したので、5人は帰って行きました」
座間味島での集団自決は、ぞの翌日のことだった。村民は壕に集められ、助役の盛秀氏をはじめ次々と悲壮な最後を遂げたという。自決命令を求めて本部壕を訪れた5人のうち初枝氏だけが生き残り、その他は全員自決した。
梅澤隊は、その後も米軍相手に奮戦したが、6月上旬投降した。
戦後、運送会社に入社して第二の人生を送っていた梅澤氏は、昭和33年頃、慶良間諸島の集団自決が写真入りで載り、渡嘉敷島の赤松隊長、座間味島の梅澤隊長が島民に自決命令を出したと報じられていたのを見て愕然とした。
梅澤氏とその家族が、その後味わった苦難は想像に難くない。以後、集団自決はマスコミの格好の標的とされ、梅澤氏は、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などで、ありもしなかった「自決命令」のことが堂々と報じられる理不尽に懊悩し、激しい屈辱に耐えることになったのだった。
「戦後60年が経ち、日本は平和を取り戻しました。しかしながら、真実に反する報道が続いている限り、私自身に終戦は訪れません」
こう意見陳述を結んだ梅澤氏は、裁判長に向かって深々とお辞儀した。