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『鉄の暴風』―――発端

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正論2006年9月号(産経新聞社・扶桑社)
靖国特集 
沖縄集団自決冤罪訴訟が光を当てた日本人の真実
弁護士 徳永信一

『鉄の暴風』―――発端


標的の一つ『沖縄間題二十年』によれぱ、「この慶良間列島の渡嘉敷島には、赤松大尉を隊長とする海上特攻隊130名が駐屯していた。この部隊は船舶特攻隊で、小型の舟艇に大型爆弾2個を装備する人間魚雷であった。だが、赤松大尉は船の出撃を中止し、地上作戦をとると称して、これを自らの手で破壊した。そして住民約3百名に手榴弾を渡して集団自決を命じた」という。

そこで「人間魚雷」とされた特攻ボートはベニア板製の小型船体に自動車用エンジンを搭載し、約30キロメートルで進み、停泊中の米艦船に体当たり攻撃して自爆することが計画された特攻兵器であり、生還は不可能とされていた。しかし米軍の空爆により特攻ポートの多くを破壊された赤松隊は、上官の命令で特攻を断念し、残ったポートを自沈し、米軍を迎えうつ守備隊となるべく西山に転進することになった。3月26日のことである。想定外の展開により、西山の稜線にタコツポを急造して潜むことになった赤松隊は、わずかな機関銃と手榴弾、軍刀しか持ち合わせず、弾薬も食糧も乏しかった。やがて米軍の熾烈な艦砲射撃がはじまり、米軍が上陸を開始した。3月27日の朝のことであった。村民の集団自決は、こうした絶望的な状況下で起きたものだった。

昭和25年8月発行の『鉄の暴風』(沖縄タイムス社編)は渡嘉敷島での集団自決を次のように描写している。「轟然たる不気味な轟音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして――男、女、老人、子供、嬰児――の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は互いにこん棒で、うち合ったり、剃刀で自らの頸部を切ったり、鍬で親しいものの頭を叩き割ったりして、世にも恐ろしい情景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも同時に起こり、恩納河原の谷川の水は、ために血にそまっていた」。

ことの発端はこの『鉄の暴風』の次の記述であった。
「日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二七日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで闘いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねぱならぬ。事態は、この島に住むすべての人間に死を要求している』ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」

占領統治下に発行された『鉄の暴風』は米軍のヒューマニズムをうたい、日本軍への憎しみをこめた劇画調の文体で貫かれている。そこに描かれた《軍命令による集団自決》という命題は、GHQが日本人に刷り込もうとした《非人間的な日本軍》というプロパガンダの図式に見事に合致していた。そして、あたかも目撃証人が語るかのごとき迫真の表現と相まって見事に世間を欺き、広く流布することになった。

そしてそれは裁判の標的となった岩波書店の3冊をはじめ、上地一史著『沖縄戦史』、山川泰邦著『秘録沖縄戦史』、嘉陽安男著『沖縄県史第8巻各論篇7』といったほとんどすべての沖縄戦史に引用され、新聞、週刊誌、テレビ報道の根拠となされたのである。



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