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一八 あるアメリカ人の証言

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一八 あるアメリカ人の証言

 つぎに紹介するのは、『サウス・チャイナ・モーニング・ポスト』紙に掲載された、南京残留のアメリカ人の目撃談である。このアメリカ人が誰であるかは詳細に検討すれば判明すると思うが、とにかく南京全体の情況をよく把握していた人である〔その後の調べでこのアメ刀カ人は表3にあるG・A・フィッチであることが分かった。彼は南京大虐殺の実態をアメリカ国民に広く知らせようと、自分たちで日本軍の蛮行を撮影した十六ミリフィルムを秘かに携えて香港から了メリカにわたる直前に広東に立ち寄ったのである(George A. Fitch, My Eighty Years in China, Mai Ya Publication, 1974)。詳細については本書第一部3章を参照のこと〕。

 「東京裁判」でのマギー、ベイツ、ウィルソンらの証言と、ここに語られた南京大虐殺の証言とを比較したならば、「勝利者の優越感」によって証言が誇張・増幅されたという鈴木明説は肢り立たないことが判るであろう。

 なお・冒頭部分に「新聞関係者は一人も招待されていなかった。」とことざらに書いてあるのはなぜか一奇異な感じをもつが、これは後述するように、日本軍当局が南京事件報道関係者への圧力を強めていたことへの対処らしい。原文は、新聞記者と較べても遜色のない正確な英文で書かれている。

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南京の暴行

(『サウス.チャイナ・モーニング・ポスト』一九三八年三月十六日)

アメリカ人目撃者、侵入者の放蕩を語る
非武装の中国人虐殺さる

 三月初旬、広東の呉鉄城知事がこぢんまりした茶会を主催し、最近南京から戻ったアメリカ人が日本軍の占領の模様を語った。外国人も数名出席していたが、新聞関係者は一人も招待されていなかった。

 アメリカ人の話をつぎに要約する。それによると、民間人や非武装の兵士の虐殺、略奪、放火、強姦など、南京で目撃したおぞましい残虐行為が生々しく語られている。

 一九三七年十一月二十八日までは、各国大使館と中国軍司令官唐生智の間で、南京安全区に関する交渉が行われていた。その数日後、外国大使館の強い要請に折れて、日本軍は安金区を尊重する協定に調印した〔調印はしていない、ただし、中国軍が軍事的に利用しなければ・攻撃はしない旨を約束していた〕。南京市の北西にある、南北ニマイル、東西一・五マイルのこの地区から、中国軍.中国政府機関がすべて移動を開始した。

 十二月十日、市内に砲弾が落ち始めた。この日には、唐将軍は安全区からの移動をすべて完了していた。市の南部は激しい砲弾に見舞われたが、安金区には、境界に二〇発の砲弾しか落ちな

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かったことからみても、日本軍が区を避けて大砲を撃っていたことは明らかである。

 十二月十三日、日本軍が城内に入ってきた。安全区の境界でアメリカ人委員が日本軍部隊に会い、彼らが所持する地図に安金区の印があるのを確かめた。その役員らが背をむける間もなく、この部隊による安金区への一斉射撃が行われ、二〇名の民間人が死亡した。しかしながら、総体的にみて、入城一日二日目は安全区は攻撃の対象からはずされていた。しかし、市の南東部では安全区に避難しなかった多数の民間人が虐殺された。

 南京の防衛司令官は十二月十二日に逃亡した。彼の逃亡が判明するや、防衛軍は急遠に統制を失っていった。しかし、退却中の中国兵は、市民に迷惑をかけることも、略奪を働くようなこともなかった。わずかに米屋から当座に必要な食料を持ち出したぐらいである。兵士のなかには安全区へ逃げこんだ者もあり、武装を解けば一般市民の扱いを受けることは保証されたので、区の本部に武器・制服を差し出した。

難民の死

 下関方面に逃走した中国軍は、間近に日本軍が迫ってきているものと思いこみ、市内のいたるところにトラックや手荷物を放棄していった。乗り棄てられたトラックが燃えだして、すし詰めの群衆が多数焼け死んだ。日本軍の占領から数日して、用事で下関門の通行許可を貰った安金区の委員は、三フィートの厚さに積まれた死体の上を車で通ることを余儀なくされた。ほかに門を出る手だてはなかったのである。門にさしかかると、炎上中のトラックが出口を一部ふさぐよう

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に立往生していた。逃げようとした難民には焼死した者もおり、混雑のなかで窒息する者はさらに多かった。あるいは、城壁をよじ登り、飛び越えようとして殺された者もいた。また、ジャンク船には折り重なるように群衆が乗り込み、その重さで沈む船もでた。

 川を下る者はもっと多かったが、下流からきた日本軍に見つかり、機関銃で掃討されてしまった。

 川沿いにある中華工業国外貿易協会の建物の下手には、このように死んでいった人たちの遺体が二万五千体も見うけられた。これとは別に統制のよくとれた一部隊が北に進んで日本軍と衝突して戯滅された、と唯一の生き残りである男が語してくれた。

 十二月十四日、日本軍の連隊長が安金区事務所を訪れて、安全区に逃げこんだ六千人の元中国兵―彼の情報ではそのようになっている―の身分と居場所を教えるよう要求したが、これは拒否された。そこで日本軍の捜索隊が本部近くのキャンプから、中国軍の制服の山を見つけだし、近辺の者、一三〇〇人が銃殺のため逮捕された。

 安全区委員会が抗議すると、彼らはあくまで日本軍の労働要員にすぎないと言われたので、今度は日本大使館に抗議に行った。そしてその帰り、暗くなりがけに、この使いの者は一三○○人が縄につながれているのを目撃した。

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みな帽子もかぶらず、毛布だの他の所持品もなにひとつ持っていなかった。彼らを待ちうけているものは明白であった。声ひとつたてる者もなく、全員が行進させられ、行った先の川岸で処刑された。

 日本軍入城の四日目、さらに千人が安全区から粒致されて虐殺された。そのなかには、市が以前安全区に配属したて警官四五〇名のうち五〇名が含まれていた。強い抗議がなされたが、日本大使館そのものが軍隊のまえでは無力であつた。髪の毛が短いとか・船こぎや人力車引きで仕事のため手にたこがあるとか、ほかに力仕事をした形跡がある者は、身分を証明するこのような傷によって、死ぬ保証を得ることとなった。

痛ましい光景

 日本の捜索部隊によつて、安全区のこれらの男たちが妻から引き裂かれる光景は痛ましかった。キャンプでは、夫や息子(すべて民間人)を連れ去られた婦人は千人にのぼった。

 とくに卑劣な例が南京大学で起こつた。そこには三万人の難民が避難する安全区キャンプがあった。占領から2週間たった日、日本軍がやってきて、そこに寝起きする中国人の名前を登録することになった。元兵士は名前を登録してはいけない、と三回繰り返し通告があった。もしこの命令に反して登録をすると、発覚次第に射殺する。が、この命令に従って登録を思いとどまり、列から一歩前に出るなら、命は助けてやる。以前に中国軍に雇われて働いた経験のある者にも同じことが言える。こうした命令、おどかし、命令に従った者には助命の約束を何度もはっきりと

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繰り返した。そして合計二四〇名が列から一歩前進した。彼らは縄につながれて連れ出され、その晩に処刑された。

 このような大量殺戮が、無造作に、しばしば行われた。一人の男が目を焼かれ、安全区に戻ってきた。乗っていた車が焼け落ち、男の頭は黒こげであった。彼は連れ去られた一団の一人で、ガソリンを浴ぴせかけられて火をつけられたのだそうだ。初めに機関銃で撃たれたかとの質問には、覚えがないと答えた。ところが、やっとのことで病院にたどりついたもう一人の負傷者は、ひどい火傷を負い、あごを弾丸が貫通していた。這いずって戻った別の一人には銃剣の傷跡が五ヵ所あった。火傷がひどく黒こげの別の負傷者は、長い距離を這いずってきて、路上で息絶えていた。

 処刑者の遺体を焼くのは、日本軍の常套手段である。よって、この事実に示されるような、火傷を負った生存者は、奇跡としか思いようがない。

略奪と放火

 十二月十九日、商店の放火が大々的に始まった。略奪品はトラックに積まれ、がらんどうの店に火がつけられた。周囲の建物はひとつもやられなかっただけに、YMCAビルの焼失は計画的であった。クリスマス・イブかあるいはクリスマスの当日であったか、南京にとどまった外国人二二名のうちの一四名が一団となって日本大使館に行き、YMCAの焼きうちを抗議したところ、大使館側は、兵士は手に余ると弁明した。が、何はともあれ、日本の部隊が上官の指揮に従い、

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略奪放火を組織的に行つているのを代表団が目撃したと、大使館に通告することはできた。こういった情況が一カ月続いた。商店の八割、住民の五割が略奪され、焼き払われた。公共の建物は交通部を除いて難を逃れた。日本軍の一連の行動とは対照的に、公共建物に手をつけなかったことを考えるならば、どうして交通部が焼かれたのか、また、誰がやったのか納得のいく答は見つからない。交通部は特別の理由があって、退却した中国軍に破壊された可能性もある。

 一月六日、アメリカ大使館員が南京に戻り、安全区委員会はこれから正規の手続きで抗議できるようになった。これより以前には、外国人には日本語で書かれた財産保全のポスターが日本大使館より配布され、他の言語で書かれたポスターといっしょに貼ったのだが、荒れ狂った部隊には、その日本語でさえ効果がなかつた。アメリカの星条旗をひき裂いたり・切り刻んだり、燃やしたりの事件は一四件にものぼる。外国人財産の略奪は三週間に及んだ。一月九日、イギリスの砲艦ビー号から、イギリス、ドイツの両領事が上陸を許可された。彼らは一月六日に到着していたが、アメリカ大使館だけが再開を許可されていた。

婦人の強姦

 占領三日目の十二月十五日明け方から、強姦は目立ってきた。安全区委員会の抗議文と事件のリストが日本大使館に提出された。

 その日、海軍士官がパナイ号沈没の報を携えてきて、同時に南京にいるアメリカ人全員を上海に送ると申し出た。しかし、安全区を管理する委員が、自分だけがこの恩恵を受けるのは気が進

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まないとみるや、士官の表情には失望がありありと浮かんだ。しかし、新聞記者二名が同行することになり、障害物になっている死体の上を通り、下関門を出て日本の駆逐艦のところに連れていかれた。途中国防省の前にいる銃殺部隊をやり過ごした。

 それからは、勢いを増してきた強姦事件の抗議提出のため、日本大使館に通うのが日課となった。大使館側は、秩序はいずれ回復する、といつも委員たちに請け合ったけれど、外交官が無力なことはわかりきっていた。「護も上官の命令に従わないんだ」。何のてらいもなく一人が言った。日本の軍隊は直属の指揮官の権限をもってしても、取り締まることはできなかった。

 二ヵ月の間、昼も夜も残虐行為は続いた。初めの二週間がとくに多く、その数が多少とも減ったのは、現地に最初に到着した五万人の無軌道な部隊が、新しい一万五千人の部隊と入れかわったときぐらいであった。

 占領三日目からは、日に千件の割で強姦事件が起きた。幾度も強姦されたあげく、殺された婦人も多く、それも残忍な手口のものがしばしばであった。被害者の年齢は一〇歳から七〇歳と様々であった。金陵女子文理学院は難民の避難所となり、当初は女性千人を収容していた。これは日本兵の宿舎からはもっとも離れた、安全区の西にあって、夜は、国際委員会のメンバーが入口で眠り、日本軍の強制侵入を防いでいた。酒の入っていない日本兵は、特別勇猛な兵士でもなさそうだった。押し入ろうとして委員会のメンバーに見つかり、「カイレ(出て行け)!」「ハヤーク(さっさとしろ)!」と大声をあげられると、みなきまって立ち去って行った。

 ところが、銃剣の刃先で暴行に夢中になっている酔っ払い兵が相手のときは、ことはそうかん

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たんにいかなかった。日本兵の上官の管理の仕方も不思議と変わっていた。あるとき、日本兵が建物を壊してなかに押し入り、暴行を働いているところに安全区委員会のメンバーが出くわした。すると、たまたま旧本軍の連隊長も通りかかったので抗議すると、この上官は一人の兵士に平手打ちを喰らわして、アメリカ人が部下をぷったかどうか荒っぽく尋ねた。ぷたないと答えるや、連隊長は、そこにいた兵士たちをぶって、さらに続けてむこうずねを蹴とばした。似かよった事件としては、日本兵が民間人の家に押し入っているのを、安全区委員会のメンバーと日本軍の将校の一人が同時に見答めて、後者が違法行為に注意をむけたのだが、彼は兵隊たちに出ていくように頼んでていねいに頭を下げると、兵隊たちはおじきを返して立ち去って行った。すると将校は、立ち去る兵稼の背に向かって、頭を下げて見送ったのである。

奇妙なポスター

 二月に、日本当局は中国人を安心させようとするポスターをもちだした。それは子どもを抱いたキリストの両脇で、男と女が祈っているキリスト教徒のポスターを模写したものであった。キリストのかわりに日本兵がおさまり、中国人の子どもが抱かれて、パン、塩、砂糖の包みをぶらさげている。左側の中国人の父親は首(こうべ)を垂れて感謝し、右にいる母親は米櫃のかたわらに跪いている。下には「日本兵を信じなさい。皆さんを守ります」と書かれていた。

 このころには、駐屯部隊は一万五千名から六千名へと大幅に減少した。この新規の縮小部隊と松井大将の入城によって、なんらかの秩序が回復した。明らかに罪となる行動や、野卑でサディ

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スティックな傾向のある兵士が高率を占める部隊に対して、当局のとり得る方策は、兵士の数を減らす以外になかった。その機をとらえて、安心感を与える政策やポスターの時期が熟した、と日本当局は最終判断をしたと伝えられる。恐怖の九週間が過ぎた二月の十七日、それまで路上に出るのをはばかっていた人力車一四台が、初めて街頭に現れた。

 安全区で行われた日本軍の残虐行為にもかかわらず、安全区の保持はそれなりに意義があった。残留の中国市民の安全確保にある程度は役に立った。金陵女子文理学院では、アメリカ人の安全区委員が門で見張りをし、中にいた三千人の女子を虐待から守った。安全区域内にある二五のキャンプは、泥とはぎ板でつくった小屋や家であったが、七万人が分散して寝起きしていた。南京を撤収するにあたり、市政府は安全区の難民に、三万袋の米を送る決議をした。また、日本軍が入城して来る前に、米一万袋、小麦一千袋が引き渡され、これらが二ヵ月の間、難民の命をつないだのである。

 日本軍の占領で、十三万袋の米を保有する食料品店はことごとく閉鎖された。日本軍は石炭も封鎖し二千トンの石炭の山を燃やしてみせさえした。安全区では石炭の使用は許可されなかった。>

(以下略)

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