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2005/7/24産経新聞記事

 裁判の提訴日は8月5日だが、産経新聞はそれに先駆けたこの日、同時に2つの記事を掲載した。「裁判」と「教科書検定」と2つのプロモーションが密着連動していることを物語っている。


沖縄戦集団自決「軍命令」…出版物・教科書で独り歩き

産経新聞 平成17(2005)年7月24日[日]
集団自決が軍の命令だったとされてきた“歴史”が法廷で争われることになった。沖縄戦が住民を巻き込んだ悲惨な地上戦だったことは事実だが、軍の残虐性を示す“証拠”の発端は、島の長老と生存者による遺族のための悲しい口裏合わせだったという。最初に書かれた沖縄タイムス社の『鉄の暴風』の記述は大江健三郎氏の代表作『沖縄ノート』だけでなく、故家永三郎氏の『太平洋戦争』など多くの出版物や教科書で独り歩きしている。主なものを拾った。(教科書問題取材班)

◆鉄の暴風


《恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた》

《住民には自決用として、三十二発の手榴(しゅりゅう)弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。手榴弾は、あちこちで爆発した。…阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた》

《座間味島駐屯の将兵は約一千余、…隊長は梅沢少佐…。米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。…村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した》

◆沖縄ノート


《慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞(ぎまん)と他者への瞞着(まんちゃく)の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう》

《那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭(ふとう)では、沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである》

◆太平洋戦争

《沖縄の慶良間列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺進隊の隊長赤松嘉次は、米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、これを処刑し、また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。島民三二九名が恩納河原でカミソリ・斧(おの)・鎌などを使い凄惨(せいさん)な集団自殺をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。座間味島の梅沢隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため三〇名が生命を失った》

◆教科書

《日本軍にスパイ容疑で殺されたり、「集団自決」を強制されたりした人々もあった》《軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した》(日本書籍新社の中学歴史)

《日本軍によって集団自決を強いられた人々やスパイ容疑・命令不服従などを理由に殺された人々もおり…》(実教出版の高校世界史)

《犠牲者のなかには、慶良間諸島の渡嘉敷島のように、日本軍によって「集団自決」を強要された住民や虐殺された住民も含まれており…》(桐原書店の高校日本史)

《日本軍に「集団自決」を強いられたり、戦闘の邪魔になるとか、スパイ容疑をかけられて殺害された人も多く、沖縄戦は悲惨をきわめた》(三省堂の高校日本史)

《戦陣訓によって投降することを禁じられていた日本軍では、一般住民にも集団自決が強いられたり、スパイ容疑や戦闘の邪魔になるとの理由による住民虐殺もおこった》(東京書籍の高校日本史)


沖縄守備隊長遺族、大江氏・岩波を提訴へ 「自決強制」記述誤り、名誉棄損

産経新聞 平成17(2005)年7月24日[日]
先の大戦末期の沖縄戦で日本軍の命令で住民が集団自決を強いられたとする出版物の記述は誤りで、名誉を棄損されたとして、当時の守備隊長と遺族が著者でノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店を相手取り、損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こすことが二十三日分かった。

訴えを起こすのは、沖縄戦で座間味島を守備した陸軍海上挺進隊第一戦隊長を務めた梅沢裕・元少佐(88)と、渡嘉敷島を守備した同第三戦隊長だった故赤松嘉次・元大尉の弟、赤松秀一氏(72)。

訴えられるのは、『沖縄ノート』(岩波新書)の著者の大江氏と、他にも故家永三郎氏の『太平洋戦争』(岩波現代文庫)、故中野好夫氏らの『沖縄問題20年』(岩波新書)などを出している岩波書店。

訴状などによると、米軍が沖縄の渡嘉敷島と座間味島に上陸した昭和二十年三月下旬、両島で起きた住民の集団自決について、大江氏らは、これらの島に駐屯していた旧日本軍の守備隊長の命令によるものだったと著書に書いているが、そのような軍命令はなく、守備隊長らの名誉を損ねたとしている。

沖縄戦の集団自決をめぐっては、昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』で、赤松大尉と梅沢少佐がそれぞれ、両島の住民に集団自決を命じたために起きたと書かれた。この記述は、沖縄県史や渡嘉敷島(渡嘉敷村)の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。

疑問を抱いた作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決を取材し『ある神話の風景』(昭和四十八年、文芸春秋)を出版。座間味島の集団自決についても、生存者の女性が「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが『母の遺したもの』(平成十三年、高文研)で明らかにした。

その後も、昭和史研究所(代表・中村粲元独協大教授)や自由主義史観研究会(代表・藤岡信勝拓殖大教授)が曽野さんらの取材を補強する実証的研究を行っている。
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