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「沖縄ノート」"プロローグ"より

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「沖縄ノート」"プロローグ"より


「沖縄ノート」
著者 大江健三郎 
発行 岩波書店
岩波新書(青版)762
1970年9月21日 第1刷発行

裁判原告による切り取りは、文脈を無視したいささか歪曲の恐れもあるので、この著作の意図および文意文脈がわかる、最小限度の引用を試みます。


プロローグ 死者の怒りを共有することによって悼む


一九六九年一月九日未明、沖縄県人会事務局長であり、かれを知る者にはつね五にそれ以上の人間であつた古堅宗憲(ふるげんそうけん)氏が、日木青年館において急死した。日本青年館は、古堅さんが生涯をかけた沖縄返還運動の拠点であつたし、古堅さんがその未明の火災に出会わざるをえなかったのは、前日深夜まで、沖縄から上京した古堅さんの同志たちとの話合いがつづいたためである以上、古堅さんは、かれが生涯をかけた闘いの、戦場において斃れたといわねばならない。

ここに古堅さんの死を悼む文章を書こうとして僕は、古堅さんの鎮魂をねがうのではない。古堅さんの魂を鎮めることはできない。僕はむしろ古堅さんに次のように呼びかける心において、この償いがたい死者を悼むのである。死者よ、怒りをこめてわれわれのうちに生きつづけてください、怯儒なる生者われわれのうちに怒りをかきたてつづけてください。

古堅さんの死は、火災によつて青年館五階に充満した煙にまかれての、一酸化炭素による中毒死であつた。古堅さんは一瞬、深い眠りと昨夜の酔いから覚醒して、いまかれを襲おうとしている具体的な死をまつすぐ見すえる時をもった筈である。古堅さんの死のしらせに接して僕はただちに、あの童児のようなかたちの奥から永年の疲労が暗くにじみでている、しかも善意と優しさがそれに拮抗している独特の顔と、あきらかに肥りすぎで丸っこい胴体に手も足もユーモラスに短かく感じられた躰のイメージにとらえられた。その古堅さんの肉体が、すでに煙
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につつまれたベヅドの上で、はっきりと意識を覚醒させた時、かれを襲ったであろう狼狽、恐怖心、無力感のそれらすべてをこめて、瀕死の古堅さんのイメージが僕をがっしりとらえて、僕はながく涙をとどめえなかった。

しかし僕の想像力にかかる瀕死の古堅さんのイメージは、本質においてあやまっていたと、しだいに認識された。古堅さんの生涯の最後の瞬間に、覚醒した意識を占めつくしていたのは、狼狽でも、恐怖でも無力感でもなかったのである。それは怒り、猛然たる怒りであったにちがいない。その慣怒のまえに、僕が悲しみに流した涙などは、まことに、灼熱した鉄片にはじかれて雲散霧消する水滴のごとくであろう。

僕がこの認識にいたったのは、古堅さんの令兄、宗淳(そうじゅん)氏が、通夜と告別式とにおいて、おそるべきストイシズムによってみずからを抑制しつつも、一度ずつ激しく鋭くほとばしらせた怒りの声にみちびかれてであった。古堅さんの死を真に悼むことは、古堅さんの怒りを共有すべくつとめることによってのみ可能であると感じられる。しかし、それ自体がそのままもっとも意識的な沖縄県民の怒りであるところの、瀕死の古堅さんに集約される怒りは、そのもっとも重く鋭い鉾先が、ほかならぬ本土の日本人たるわれわれにむけられている怒りである。古堅さんの生涯の三十八年をかえりみようとする者の誰が、それを認めないでいられるだろうか? われわれの古堅さんの死を悼む心は、まさに恥の心にかさなるほどにも暗然たる、惨澹たる深
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みに沈みこまざるをえない。

この恥という言葉を、僕は古堅宗淳氏の唇から発せられた、その響きと意味あいにおいて用いたい。常楽寺の通夜において、古堅宗淳氏は、飾られた花輪のすぐ傍に正坐していられた。しかも花輪の花のむらがりのなかに顔を突っこんでしまおうとしているとでもいうように、しばしば花にむかって顔をおしつけてじっとしていられた。それは異様で、胸をうった。激甚な悲しみがそのような姿勢をとらせることを感じて、僕は眼をそむけないではいられなかった。しかし、それは悲しみの発作によってでなく怒りの意志においての姿勢だったのである。やがて古堅宗淳氏は挨拶に立って、その「弟であり同志であった宗憲君」が、永いあいだ暮してきた常楽寺で、「最後の足を洗ってもらったこと」を感謝する、ということをいわれた。その表現は感銘深いものであったが、通夜につらなっていた者たちは、つづいてそれよりもなお深く、すなわち穏やかにひかえめに声を制しながらも古堅宗淳氏が、沖縄現地および本土で接した報道に、古堅さんが「焼死体」となったと事実に反する発表をされたことに抗議する言葉に揺さぶられた。

告別式においてもまた古堅宗淳氏は、挨拶を終えて参列者の前を横切られる時、強くおさえようとしながらしかも喉にこみあげる鳴咽の声を発したが、それは挨拶の終りに、やはり「焼死体」という誤報への抗議をのべた時、氏を内側から揺さぶりつづけていた怒りのカが、その
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ように穏やかで意志鞏固な氏を鳴咽せしめたのである。

古堅さんは沖縄返還運動に参加してから、十六年、そのまことに言いようもなく早すぎる死の時のいたるまで、その生家で「一食、一睡」もとることがなかった。その古堅さんの一酸化炭素中毒による被害者としての無念きわまる死を、報道がこぞって焼死と書き、あたかも火災の原因と死者とをむすびつけるかのごとくであったのは、報道にたずさわった日本人みなの「恥」ではないか、と古堅宗淳氏は篤実に告発したのである。この誤報に抗議してみたもののなお、はかばかしい訂正の動きがないのは、「日本国(クニ)の恥」ではないかと怒りをこめて再ぴ語ったのである。

古堅宗淳氏は、伊江(いえ)島の農民である。家の負債を支払うために、労役の子供として糸満(いとまん)漁師に身売りさせられようとしたが、泳ぐ力も弱く、したがって糸満での死よりは、と追いつめられた心で、湿った樹幹に生えるキノコを大量に食ったが嘔いてしまって目的を果たせず、床の下にもぐって泣いている所を、いったんはあきらめて長男を見棄てようとした母親の必死の決意によって救われた幼年期の経験をもつ人である。そしてその大家族が生きのびるために、四反の田畑を売ってその八倍の荒地を買いもとめ、苛酷な労働をかさね野菜栽培にわずかに活路を見出した農民である。

氏の犠牲にたった期待にこたえて、次男の宗明氏は八重山高等農林学校にすすみ、学問的に
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のみならず学生活動にもすぐれた結果をのこしたが、現地召集されて沖縄戦に斃れた。そして十五歳で鉄血勤皇学徒隊に加わり辛くも生きのびた三男を、沖縄開洋高等学校、辺土名(へんとな)高等学校の教師に育て、その三男があらためて本土にまなぶことを決意するとそのまま送り出してやった兄、しかも三男が学生運動に参加したことで帰省するための「旅券」を拒否され、そのまま、まさに論理的に一貫して十六年間におよぶ沖縄返還運動に身を投じている間、島のなかばを基地にうばわれた伊江島で貧しい農民としての実生活を維持しつづけていた兄、このようにも典型的に沖縄の状況を体現している人間である古堅宗淳氏が、その沖縄返還運動にすべての青春を投入し、それがついには全生涯ともなった弟の、死にかかわる汚名をそそごうとして怒りの声を発したのである。

もしその怒りの声に、自分自身の根底を激しく揺さぶられることのない日本人が、沖縄の今日の状況について考えようとするなら、それは死んだ古堅さんのめざしていたようなかたちにおいての、沖縄の状況の中軸にふれることはついにできないであろう。古堅さん自身の瀕死の時の怒りをつうじて、沖縄県民の真の内奥に実在する暗く重い怒りの深みまで、想像カの錘りをおろすことはできないであろう。

なぜなら古堅さんは、政治的な状況を、そうした人間のモラリティの問題として受けとめ、本質的な行動の軸とする型の実践家であったと思われるからである。古堅さんよりも、もっと
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政治的に機敏な活動家は数多いであろう。しかし、僕自身の貧しい経験をつうじて証言するなら、古堅さんは右にあげたような、根本的に人間そのものに発したものとしてのみ行動をおこなう実践家として、僕には、しぱしば出会うことのできる魅力的で有能で積極的で、いかにもしたたかないかなる実践家よりも、重要な人間だったのである。またそれゆえに古堅さんの不慮の死がいかにも償いがたく感じられ、瀕死の古堅さんの怒りが、僕自身の根本的な根にむかって、のがれがたく辛い打撃をあたえつづけるのである。

あらためて僕個人についていうことを許されるなら、古堅さんは政治的な現場での仕事を、きわめて人間的な仕事としてやわらかく受けとめさせてくれる緩衝体として、努力をはらってくれる人であった。もとより僕が沖縄の政治的状況に関ってなにほどのことをしたか、それをかえりみて恥を新たにするが、そのような恥の感覚すらも、古堅さんはまともに受けとめてくれる人だったのである。僕はとくに広島について、また沖縄について、本土で生き延びている人間としての自分のいやらしさを意識しないでは、すなわち端的な恥かしさやためらいをおぼえることなしには人前で話すことができない。しかし、はじめての主席公選における、屋良(やら)革新侯補の勝利のための、沖縄と東京の集会でいくたびか貧しい意見を話した時、僕は古堅さんをパイプにして演壇に立っことによって、その恥かしさやためらいを無理やりおしつぷすことを必要とせずに、いわばそれらと共に話すことができたし、自然な勇気をあたえられる感情に
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おいて、とくに沖縄の聴衆の反応を受けとめることができたのであった。それは端的にいって古堅さんの優しさに支えられてのことであったということを、いまあらためて認めないではいられない。そして古堅さんが、その優しさの底に、もっとも鋭く激しい怒りを据えていたのだという事実をもまた、確認せざるをえないのである。

古堅さんに永く友人としての親しみを感じてきた、といいながら、僕がかれの生前にその大酒家であることを知らなかったというたぴに、おおかたの古堅さんの同志たちは奇異の念をあらわした。僕もまた、しばしば泥酔する人間である。そして僕は白分の泥酔の根拠として、スーダンの荒野の集落で泥酔さわぎがくりかえされることを語った探検家の《何か欠けるものがあること、絶望的な自暴自棄へ人カを追いこむ根源的な不満があることを示しているという言葉をあてはめてみざるをえないことがある。沖縄にたまたま帰省して、しかしその、すでにのべたように切実なきずなにむすばれた家族とは波止場で会うのみ、というような活動をつづけていた古堅さんと那覇のホテルで深夜まで話したことがあり、東京ではもとよりしばしば会いながら、しかし僕は古堅さんといちども共に酒を飲んだことがなかった。

それはなぜだったろうか。なにを誠実めかしたことをいうのか、という潮弄の声をあらかじめ予測しながらもあえていうならば、本土の人間たる僕にとって、古堅さんにたいして酒を飲みながら沖縄の問題をかたることはできなかったのである、すくなくとも泥酔するほどにも飲
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みつづける予感と共には、そうすることができなかったのである。古堅さんの急死の後、かれがしぱしば訪れたという数軒の酒場をたずねた僕は、酔った古堅さんが執拗な怒れる議論家であったことを知らされた。僕はひとり泡盛を飲み、急速に酔って、憤怒する古堅さんの幻を見た。しかも当の僕自身に向って深甚な怒りをこめて告発する古堅さんの幻をありありと見た。僕との限られたつきあいでの古堅さんの様ざまな優しさの思い出が、それぞれにくっきりと怒りの影をおびて再びあらわれた。

もとより古堅さんが常連であった沖縄料理屋、泡盛の酒場で僕が採集した古堅さんをめぐる情報は、当然のことながら単に怒れる議論家としての古堅さんの肖像にとどまらない。古堅さんに直接は学ばなかったが、その受持学級の一級上の生徒だった、そして上京後ずっと古堅さんにみちびかれてきた一婦人は、沖縄外語中等教員養成所で沖縄戦直後にまなび教師となった古堅さんが、まことに山積する悪条件をへてきたにもかかわらず、秀れた教師であったことを証言する。若き古堅先生は、自然科学の教師として植物の新種をひとつ発見すらしたということである。

「鉄の暴風」に灼きつくされて荒廃をきわめる沖縄の土地に、新しい植物を発見するということの意味あいの重さに思いをひそめよ。それは古堅さんの志のむかうところをかたるに充分な挿話であると信じる。
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しかし若い教師は二十二歳の夏に、あらためて新しい学問へ発心して上京し、二つの大学にまなび、それぞれ中退した。すなわち明治学院大学と東京外国語大学がそれであるが、両大学はこの沖縄出身の学生が学力不足によって中退したのでなく、プライス勧告反対・四原則貫徹国民大会を組織して、本土における沖縄返還運動の口火を切り、その実践をそのまま持続し、生涯をかけて前におしすすめるために学園を去ったのであることを認める光栄をもつであろう。

そして一九六九年一月九日未明、ついに三十八歳の生涯を終えるにいたるまで、古堅さんがただそれのみに熱中した沖縄返還運動の現場での活動のいちいちについては、まことに数多くの証言をみちぴくことができる。そしてその証言はすべて、瀕死の古堅さんの怒りをわけもち、あるいはわけもつことを希望する者たちの声によってなされなければならぬ。したがって、僕はひとつだけ沖縄返還運動の現場での、古堅さんの仕事についての証拠物件を提出するにとどめて充分であろう。それは沖縄現地にむかって、日本国憲法を印刷した文書を大量に送りこむ努カを、熱情をこめておこなったのが古堅さんであったという事実である。今日、憲法にまもられぬ沖縄に、武器として憲法を政治的想像力の根底にすえる態度が広くしみわたっている現実を考えれば、沖縄にむかって憲法文書を発送するために地道に働きつづけた古堅さんの内部に、辺土名高校の二十歳になったばかりの自然科学の教師として、焼土にわずかに芽ぷくもののうちに、しかも新種の植物を発見するまで持続的であった強靱な志が、なお生きつづけてい
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たことを誰が認めないでいることができよう?

それはまた、焼土に新しい植物をもとめる激しい情念をそなえた若い教師の魂をしばしばたぎらせたであろう絶望的な怒りが、現実には憲法にまもられぬ沖縄に、そこへ切りはなされ放置された同胞へ連帯の手をさしのべることを拒むことによってのみ憲法の体裁をいちおうはととのえつづけることに成功しているかにみえる本土から、あえて憲法文書を送り出しつづける若い実践家の内部を燃えひろがっていたにちがいない、暗く孤独な怒りの火をあらためて確認することでないであろうか?

恥と共にそれらをあらためて認め、確認しようとする者に対して、怒れる死者の呼びかける声は、自分が煙の充満した部屋で見ひらいた瀕死の眼をもって、星良主席を選ぶことで明瞭に意志表示し、B52爆発炎上を具体的な恐怖と共にかれら自身の土地に見て、その撤退を要求するぜネストヘの動きをおこしている核基地沖縄の民衆を見つめよ、という声である。その民衆の「いのちを守る」自衛のための最小限の行動に、総合労働布令で全面的な拒否をつきつけるアメリカの強権を見つめよ、そしてそれにまけずおとらず臆面なく、沖縄の民衆の意志と、今日と明日の生活のかれら自身による方向づけをまっこうから否定する態度を、いまやあくまでもあからさまに誇示するわが国の駐米大使、外相、首相、すなわち日本国の強権を見つめよ、という声である。
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お抽
その日本国の選挙権を有する民衆として、われわれが古堅さんの死を悼むことは、組踊(くみおどり)『大川敵討(おおかわてきうち)』の「死にゆ死(じ)にゆも、是や気にかかて行きゆむ」という言葉を喚起するこの死者のもっとも暗澹たる怒りを、恥の自覚とともに共有すべくつとめることのほかの、なんでありうるだろうか? しかもその怒りのもっとも重く鋭い鉾先を、われわれ自身にむけることでなくてなんでありうるだろうか。しかしそれによって古堅宗憲氏の鎮魂がなされうるというのではない。
〔六九年一月〕

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