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軍命令はなかったことを教える、授業実践報告

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沖縄戦集団自決命令の真実

軍命令はなかったことを教える、授業実践報告(中学)
服部 剛
(横浜市公立中学校教諭)


1.はじめに


各種中学校歴史教科書には、沖縄戦に関して、以下のような記述がなされていま す。

教育出版「日本軍は、軍の行動のさまたげになるとして、県民を集団自決させたり、スパイと疑って殺害するなど、多くの犠牲を強いた」。

日本書籍新社「日本軍にスパイ容疑で殺されたり、『集団自決』を強制されたりした 人々もあった」とするだけでなく、加えて脚注に「軍は民間人の降伏も許さず、集団 的な自殺を強制した」とあります。

帝国書院は一ページ分のコラムを使って沖縄戦を解説しており、「日本軍によって 食料をうばわれたり、安全な壕を追い出され、砲弾の降りそそぐなかをさまよったり して多くの住民が死に」、人々は「集団死に追いこまれた」としています。

各社とも、戦局が悪化する中で非道な日本軍が島の一般住民を足手まといと判断 し、「集団自決」を「命令」したことになっているのです。

沖縄戦では住民個々の自決は各地でも見られましたが、大人数の「集団自決」は慶良間列島の「渡嘉敷島・座間味島」において行われました。それは大変に痛ましいこ とであり、哀悼の念を禁じ得ません。しかし、ここで問題なのは、それが「軍命令」であったかどうかということです。もし、「軍命令」によって自決が強要されたのならば、我が日本軍は住民を殺したことになります。国民の命を守るべき軍人にあってはあるまじき行為といえましょう。

ところが今や、軍命令による集団自決事件は「虚構」であることが判明しています。要するに作り話ですね。にもかかわらず教科書には間違った記述が載り続けてい ます。これは歴史的事実を歪曲するばかりでなく、日本軍の名誉に関わる問題です。加えて、日本軍人は冷血な人殺しという印象を刷り込み、軍隊そのものを嫌悪させる結果を生み出しています。児童生徒の歴史認識及び国防意識の健全育成にとって、見過ごすわけにはいかないことが放置されているのです。少し前のことですが、私の勤務する地区の日教組は「有事法制」反対の政治運動を推進するにあたって、この沖縄の「集団自決命令」を引き合いに出しています。件のビラには、何と『軍は国民を守らない』とのスローガンを立てて有事法反対の主張が説かれています。虚構が政治運動に利用されているのです。歴史的事実を知らない教師が(何せ教科書に書いてあるのですから)、沖縄戦におけるこの虚構部分を教室で子供に教えていますので、アジビラも真実味を帯びています。しかし、これは犯罪行為に等しいものではないかと思います。いずれにせよ、真実を探求する学問の徒が放置していて良いことではありません。そこで私は、事実を事実として明らかにし、皇軍および無念の冤罪を着せられた兵士の名誉を回復する授業を実施しました。


2.世にいわれる集団自決とは


今日は沖縄戦の話をします。沖縄戦で知っていることはありますか。「ひめゆりの 塔」「特攻隊」「悲惨な地上戦」、いろいろありますね。物量に勝る米軍を相手に、 我が軍はたいへん過酷な戦いを強いられました。この沖縄戦で、最初に米軍が上陸したのは沖縄本島ではなく、那覇から西方約40キロのところにある「慶良間列島」でした。

今日の話はこの慶良間の「渡嘉敷島、座間味島」という二つ島が舞台です。地図で 島の場所を確認しましょう。(地図別掲)

では、慶良間列島の当時の状況を解説しましょう。

【慶良間列島、当時の様子】


<昭和20年に入り、硫黄島が陥落して、次は台湾か沖縄が戦場になることが予想されました。米軍を迎え撃つ日本軍約300名は、沖縄県慶良間列島「渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島、慶留間島」のそれぞれに「海上特攻基地」を作りました。「海の特攻隊」はベニヤで出来た一人乗りボートに自動車のエンジンを付け、120キロの爆薬を二つ積んで体当たりする決死の作戦です。ところが何と、米軍は沖縄本島を攻撃する前に、この慶良間列島に殺到してきたのです。3月23日、米軍のすさまじい空襲が始まりました。空を埋め尽くさんばかりの米軍機は、島の村から山中まで機銃掃射を浴びせかけます。島民は防空壕や物かげに隠れましたが、米軍は上空からガソリンをまいた上に焼夷弾を投下したといいます。島の周りを完全に包囲した米国の大艦隊は、翌24日の夕刻から猛烈な艦砲射撃を開始しました。その規模は何とタタミ一畳に砲弾十発以上が撃ち込まれた計算になるほどで、島は焦土となりました。日本軍の特攻用の船も兵器もほとんど破壊されてしまいました。翌日から上陸を開始した米軍に対し、砲弾・弾薬を撃ち尽くした日本軍の部隊はやむなく日本刀と手榴弾だけで斬り込んで戦います。しかし、機関銃などの圧倒的な戦力を持つ米軍には歯が立たず、慶良間列島はほぼ制圧されようとしていました。>

○このような極限状況の中で、慶良間列島では何が起こったのでしょうか。

次の資料で確認しましょう。これらはともに沖縄戦に関する有名な書物です。

【『鉄の暴風』(沖縄タイムス社・昭和25[1950]年)】


<渡嘉敷島では、米軍の攻撃が激しくなって住民が軍の陣地に行くと、赤松隊長が軍の壕の入り口に立ちはだかって「住民はこの壕に入るべからず」と厳しく住民をにらみつけていた。攻撃がいよいよ激しくなると、避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松隊長からもたらされた。「こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する」と命令したのである。手榴弾を手にした族長や家長が「みんな、笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。住民は軍から自決用に手渡されていた手榴弾を使って集団自決した。男、女、老人、子ども、嬰児…、そのとき死んだのが329人であった。(中略)座間味島では、米軍上陸の前日、梅沢隊長が忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた。ちょうどそのとき、付近に艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長や役場職員、教員などの家族はほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。その数52人である。>

【『沖縄県史』第八巻(沖縄県教育委員会・昭和46[1971]年)】


<いよいよ、敵の攻撃が熾烈となったころ、赤松大尉は『住民の集団自決』を命じ た。約1500人の住民は、2、30人が一発の手榴弾を囲んで自決をはかった。互いに、鍬や棍棒で殺し合ったりした。あるいは剃刀で喉を切った。>


【「血ぬられた座間味島」(下谷修久『沖縄敗戦秘録』昭和43[1968]年)】


<3月25日夕刻、梅沢部隊長から、住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人子供は全員、今夜忠魂碑前において玉砕すべし、という命令があった。>

(以上、中学生用に抜粋・要約)


渡嘉敷島と座間味島で、何が起こったと書いてありましたか? 
もうダメかもしれない、という極限状況の中で、日本軍の隊長から住民に対して「自決命令」が出されたというのです。実は、教科書にもこのように書いてあります(日本書籍新社185頁)。

「日本軍にスパイ容疑で殺されたり、『集団自決』を強制されたりした人々もあった」
「(脚注)軍は民間人の降伏も許さず、集団的な自殺を強制した」

  • 渡嘉敷島「赤松嘉次(あかまつよしつぐ)大尉」
  • 座間味島「梅沢裕(うめざわゆたか)少佐」

住民に「自決命令」を出す

集団自決が強制された

戦闘に関係ない一般住民に対して、軍隊が自殺を強要したのはなぜだと思います か?

この問いに生徒たちは、「軍が降伏することを許さなかった」「敵にやられるぐらいなら、自分で死んだ方がましと思っていたから」「無力な住民は戦いの足手まといだと思ったから」などと答えました。また、これが事実だとしたら、君たちはどう思いますかという問いには、「ひどい話」「バカじゃないか!」「住民がかわいそう」と憤慨しました。当然の反応でしょう。国民の生命財産を守るのが軍隊の使命ですから、これが事実とすれば、あってはならない理不尽なことです。


3.「集団自決」は軍命令だったのか~赤松隊長の場合


まず、渡嘉敷島の「赤松大尉」のケースから検討しましょう。
月日は流れ、終戦から25年目の1970年のことです。渡嘉敷島で自決命令を出したとされる赤松隊長が沖縄を訪問しました。赤松隊長が沖縄の地に降り立った時、どんなことが起こったでしょうか。次の資料を読んでください。

【『ある神話の背景』(曾野綾子・PHP文庫)より要約】


<1970年3月、赤松元隊長は、渡嘉敷島で犠牲になった人々を慰霊する「慰霊祭」に参加するため、沖縄を訪問することになりました。しかし、那覇空港などには、「渡嘉敷島の集団自決、虐殺の責任者、赤松来県反対」の横断幕を掲げた抗議団が待っていました。抗議団は赤松元隊長を取り囲んで「赤松、帰れ!」「人殺し帰れ!」「県民に謝罪しろ!」と口々にののしりました。赤松元隊長は無言でじっと立ちつくしていました。  
しかし、「300人の住民を死に追いやった責任はどうする」との荒げた声に、赤松元隊長はやっと口を開き、「事実は違う。集団自決の命令は下さなかった」と言いました。
そこで、抗議団は激怒し、
「集団自決を命令しなかったというが、それは違うと村人たちは言っている、どうか」
「申したくありません」
「ちゃんと言え。何だその開き直った態度は…!」
赤松元隊長は無言で答えませんでした。
その後、新聞記者たちに「では、真相を聞かせてほしい」と問いつめられた赤松元 隊長は、
「この問題はいろいろなことを含んでいるので、そっとしておいて欲しい」と答えたのです。
しかし、赤松元隊長への集中的な非難は、その後も長く続いたのでした。>

今や、日本軍の沖縄住民に対する集団自決命令は、教科書にも書いてあるほど「常識」として定着しています。しかし、当の赤松隊長は「命令していない」「いろいろな問題があるから真相は言えない」と否定しています。皆さん、どちらが本当なのでしょうか?

では当時、現場にいた人の証言を紹介しましょう。一人は、赤松隊長の側近だった 知念朝睦(ちねんちょうぼく)少尉。もう一人は、集団自決の一部始終を見ていた金城武徳(きんじょうたけのり)さんという人の証言です。

【知念朝睦少尉の証言】

(当時、赤松隊長の側近として常に行動を共にしていた人)

<どうして、こういうこと(集団自決)が起きたのか。その動機はおそらく、数日前阿嘉部落が全滅し、村民は自決したと聞いて、いずれ自分たちもあのようになるんだと、決めていたに違いありません。そこへ、米軍の迫撃砲です。もう生きられる望みを断たれたと思っていたのです。それが自決をさせたと思います。赤松隊長は、村民に自決者があったという報告を受けて、早まったことをしてくれた、と大変悲しんでいました。私は赤松の側近のひとりですから、赤松隊長から私を素通りしては、いかなる命令も行われていないはずです。集団自決の命令なんて、私は聞いたことも見たこともありません。>
(「昭和史研究所会報」第64号を中学生向けに要約)

渡嘉敷島で、集団自決は確かにありました。しかしこの生き証人によると、集団自決は日本軍の命令によって強制されたものでしたか? 
違いますね。村民に自決を促したのは「村長」です。

○「軍による自決命令はなかった」というのが事実です。
しかし、なぜ軍が集団自決を命令したことになってしまったのでしょうか。

誰かがウソの証言をしたとしか考えられません。ウソの証言が、まことしやかに語られ、今や多くの本に書かれているだけでなく、教科書にまで「事実」として記載されるようになってしまいました。

そのせいで、赤松隊長の人生はどうなったでしょうか。彼は世間から多くの非難を浴び続けました。娘さんも「お父さんはそんなにひどい人だったのか」と非常に苦しんだそうです。それでも赤松隊長は、何も語らないまま病気で亡くなりました。

さて、赤松隊長が沖縄を訪問した時、新聞記者に真相を聞かれて「この問題はいろいろなことを含んでいるので、そっとしておいて欲しい」と答えていましたね。

○無実の罪を着せられても、なぜ赤松隊長は最後までだまっていたのでしょうか。


4.「集団自決」は軍命令だったのか~梅沢隊長の場合


「なぜ、赤松隊長は死ぬまでだまっていたのか?」。何か、人には言えぬ事情がありそうですね。それは、もう一つの「集団自決」事件とされた座間味島の梅沢隊長のケースを検証すると明らかになります。

次の資料は、『母の遺したもの』という本の抜粋で、宮城初枝さんという人の証言 です。この本は、宮城さんの娘さんが書いたものです。宮城初枝さんは集団自決事件に至るいきさつ一部始終を見ていました。この後、たまたま村のみんなと別行動だったので一人だけ生き残ることができたのです。

【宮城初枝さんの証言①】


<村の助役の宮里盛秀さんに「これから梅沢隊長の所に小銃弾をもらいに行くから一緒に行ってほしい」と頼まれました。
【原文】助役の宮里盛秀さんに呼び止められました。助役は私に、一緒について来るようにというのです。私は役場の職員ですから呼ばれたのでしょう。つる子さんと別れ、助役について行ったところ、そこには当時の村の指導的立場にある収入役の宮平正次郎さん、国民学校長の玉城盛助さん、役場吏員の宮平恵達さんの三人がいました。
「これから部隊長の所へ小銃弾を貰いに行くから一緒に行ってくれ」
と頼まれました。役場には当時三八式歩兵銃(手動の五連発銃)と九九式歩兵銃(五発装弾式)の二丁の銃がありました。私はてっきりその弾を貰いに行くのだろうと思い、弾を入れる袋が必要かと、手持ちの袋の中のモンペを取り出して雑木の間に押しこみ、空になった袋をもって、四人の後をついて行ったのです。

宮里助役は梅沢隊長に「もはや最後の時が来ました。若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは足手まといにならないよう、忠魂碑前で玉砕させようと思います。弾薬をください」。わたしは息が詰まらんばかりに驚きました。
【原文】助役は隊長に
「もはや最期の時が来ました。私たちも精根をつくして軍に協力致します。それで若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください」と申し出ました。
私はこれを聞いた時、ほんとに息もつまらんばかりに驚きました。

重苦しい沈黙がしばらく続きました。隊長もまた片ひざを立て、垂直に立てた軍刀の柄の部分にあごをのせたまま、じっーと目を閉じたきりでした。
【原文】重苦しい沈黙がしばらく続きました。隊長もまた片ひざを立て、垂直に立てた軍刀で体を支えるかのように、つかの部分に手を組んでアゴをのせたまま、じーっと目を閉じたっきりでした。
私の心が、千々に乱れるのがわかります。明朝、敵が上陸すると、やはり女性は弄ばれたうえで殺されるのかと、私は、最悪の事態を考え、動揺する心を鎮める事ができません。やがて沈黙は破れました。

梅沢隊長はやおら 立ち上がり、沈痛な面持ちで「今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい」と私たちの 申し出を断ったのです。私たちも仕方なくそこを引き上げて来ました。
【原文】隊長は沈痛な面持ちで 「今晩は一応お帰りください。お帰りください」と、私たちの申し出を断ったのです。私たちもしかたなくそこを引きあげて来ました。  
ところが途中、宮里助役は役場職員の宮平恵達さんに「各壕を廻ってみんなに忠魂碑の前に集合するように…」と伝令を命じたのです。
【原文】ところが途中、助役は宮平恵達さんに「各壕を廻って皆に忠魂碑の前に集合するように…」 あとは聞き取れませんが、伝令を命じたのです。
宮平さんは各壕をまわって大声で呼びかけました。「これから玉砕をするので忠魂碑前に集まって下さい【これは原文にはない服部先生の創作です】」>
(宮城晴美『母の遺したもの』を中学生向けに要約)

【引用者註】原文をこの色で記しました。原著38

こうして、集団自決となったわけです。ここ座間味島でも、軍の自決命令はありませんでした。それどころか、梅沢隊長は助役の申し出を断っていますね。実際に、自決命令を出したのは誰でしたか? 
村の助役を務める宮里盛秀氏だったのですね。

軍の命令による住民の集団自決

なかった(自決を促したのは、村のリーダー)

村のリーダーが村民に集団自決を命じた明確な理由は、今となっては想像する他はありませんが、その原因となりうる出来事がその半年ほど前にありました。実は、梅沢隊長と懇意にされている岩田義泰さん(自由主義史観研究会理事)から、私は梅沢隊長の手記を提供していただいています。それによると、昭和19年11月3日の明治節に沖縄県知事以下民間諸団体が那覇の波の上神社に集合して、蹶起大会が催されたそうです。軍とは無関係の行事で、この大会には沖縄全島の自治体の長をはじめ、離島の責任者すべてが参加しています。もちろん座間味島からも田中村長とともに宮里助役が参加していました。大会の席上、日露戦争従軍の勇士が登壇し、「県民は軍に協力して戦おう。老若男女は沖縄古来の風習に従って行動し、戦えない者は自決しよう!」と提言したというのです。会場は悲壮な空気に包まれ、一同、決意を新たにしたということでした。この大会以来、渡嘉敷・座間味の村のリーダーたちは、すでに自決を決意していたと思われますが、どうでしょうか。


5.誰が、なぜウソの証言をしたのか


実は、先の『母の遺したもの』の中に、戦後12年目のたいへん重要な出来事が書かれています。次をお読みください。

【宮城初枝さんの証言②】


<貧しいながらも住民の生活が落ち着きだした1957(昭和32)年4月、厚生省引揚援護局の職員が『戦闘参加(協力)者』調査のため座間味島を訪れたときのこと。母(宮城初枝)は島の長老から呼び出され、「梅沢隊長から自決命令があったことを証言するように」と言われたそうである。母が梅沢隊長のもとへ出かけた五人のうち唯一の生き残りということで、その場に呼ばれたのである。【服部先生が省いた文章】しかし、住民が「玉砕」命令を隊長からの指示と信じていたこともあり、母は断れず呼び出しに応じた。
援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)は、軍人や軍属(軍に雇用されている者)を対象とした法律で、戦没者の遺族や負傷した人などに国から金が支払われることになるが、一般の民間人には適用されていなかった。ところが、1959年から、軍の要請に基づいて戦闘に協力して死亡または負傷した者は「準軍属」として扱い、遺族年金などの各種の補償金がもらえることになった。単に砲弾に当たって死んだり、米軍に殺されたりした人には補償はされないが、「日本軍との雇用関係」にあって亡くなったり、負傷した人には補償されるという法律である。したがって、非戦闘員の遺族が補償を受けるには、その死が軍部と関わるものでなければならなかった。そして、役場の職員や島の長老らとともに厚生省の役人の前に座った母は、「住民は隊長命令で自決したといっているが、そうか」という問いに、「はい」と答えたという。
【原文は】「援護法」(正確には「戦傷病者戦没者遺族等援護法」)は、軍人・軍属を対象に一九五二(昭和二七)年に施行された法律で、翌年には、米軍支配下にあった「北緯二九度以南の南西諸島(奄美諸島と琉球諸島)に現存する者」にまで適用が拡大された。それによって、戦没者の遺族や負傷した人などに国から金が支払われることになるが、一般の民間人には適用されなかった。
ところが一九五九年から、旧国家総動員法に基づいて徴用された者、あるいはそれ以外に軍の要請で戦闘に協力して死亡、または負傷した「戦闘参加(協力)者」に、"準軍属"という新しい枠がもうけられて、結果的には二〇種のケースに適用されることになった。沖縄関係では、「集団自決」、スパイ嫌疑で日本軍に殺害された人、義勇隊参加、陣地構築、食糧供出、壕の提供、道案内、勤労奉仕などによる負傷者や、死亡者が含まれた。
つまり、一般住民の死者たちに対して、単に砲弾に当たって死んだり米軍に殺されたりした人には補償がなされないが、「日本軍との雇用関係」にあって亡くなったり、負傷した人には補償されるという法律である。したがって、この戦争で亡くなった非戦闘員の遺族が補償を受けるには、その死が、軍部と関わるものでなけれぱならなかった。
その結論を得るまでの作業として、まず厚生省による沖縄での調査がはじまったのが一九五七(昭和三二)年三月末で、座間味村では、四月に実施された。役場の職員や島の長老らとともに国の役人の前に座った母は、自ら語ることはせず、投げかけられる質間の一つひとつに、「はい、いいえ」で答えた。そして、「住民は隊長命令で自決をしたと言っているが、そうか」という内容の問いに、母は「はい」と答えたという。

(宮城晴美『母の遺したもの』を中学生向けに要約)

たいへん重要なことが書かれていましたね。要点だけを言えば、「生き残りの宮城さんは、座間味島の遺族たちが国から補償金をもらえるようにするために、自決は軍命令で行われたと証言した」ということです。ウソの証言をしたのは何と驚くなかれ、先の【証言①】で「梅沢隊長から自決命令は出ていない」ことを証明している宮城初枝さん本人だったのです【引用者註】住民が「玉砕」命令を隊長からの指示と信じていたこともありしたことです。ついでに言っておきますが、宮城さんにウソ証言をするよう要請した「島の長老」とは、村議会事務局長の宮村幸延という人です。【引用者註】宮村幸延さんは役場の職員であっても村の長老ではない。宮村さんが村議会事務局長だったのはその30年も後のことだ。この人は戦後、「宮村」と改姓していますが、何と実際に自決命令を出した宮里助役の実弟です。

なぜ、宮城初枝さんはウソの証言をしたのだと思いますか? この問いに生徒たち は「多くの遺族の人たちが、補償金をもらえるようにするため」「遺族の生活を心配したんだと思う」と、戦後未だに経済的に苦しい遺族の境遇に思いをいたしている宮城さんの胸の内を推察しています。また、「島の偉い長老たちに囲まれて、仕方なかったのではないか」と宮城さんの苦悩に言及した生徒もいました。私が聞いた話では、宮城さんは長老から、ウソの証言をしなければこのさき島に住めなくなるかもしれないぞ、と脅迫めいた言葉も投げかけられたといいます。【引用者註】この部分はいったい全体『母の遺したもののどこに書いてあるのでしょうか? 服部剛先生の凄まじい想像力です。

さて、先の赤松元隊長が沖縄で新聞記者に問いつめられた時、「この問題はいろいろなことを含んでいるので、そっとしておいて欲しい」と答えていましたね。考えても見て下さい。もしこの時、赤松隊長が真相をマスコミに話してしまったら、遺族の人たちはどうなってしまうでしょうか?

国からお金がもらえなくなって、遺児やお年寄りの方々は生活が立ちいかなくなってしまいますね。赤松隊長の言っていた「いろいろなこと」とは、そういうことだったのです。だから赤松隊長も梅沢隊長も、ことの真相部分にはふれられず沈黙せざるを得なかったのでしょうね。
【引用者註】これは服部先生の嘘です。赤松隊長は、1971年雑誌「潮」11月号に「私は自決を命令してない」と堂々と手記を書いています。沈黙などしていません。そして、赤松隊長が雑誌に自分の主張を載せた後も、遺族補償の支払いに影響は無かったのです。

やむにやまれぬ理由があったにせよ、宮城さんの証言は衝撃的でした。軍による住民殺害ともいえるこの「集団自決命令」事件は、この後「事実」となって一人歩きして拡大していきました。今や教科書にまで書かれるようになったのです。

略年表で流れをもう一度確認してください。

1945年
  • 沖縄戦
  • 渡嘉敷島の古波蔵惟好村長が集団自決を促す
  • 座間味島の宮里盛秀助役が自決命令を出す

1952年
  • 「援護法」施行

1957年
  • 宮里助役の実弟宮村幸延氏が、集団自決の生き残りである宮城初枝さんにウソの証言を依頼する
             ↓
  • 宮城初枝さんが、現地聞き取り調査に来た厚生省の役人に「梅沢隊長の自決命令があった」と証言する
             ↓
  • この後、村長を先頭に陳情活動が展開される。座間味村役場が宮城さ んの証言を「座間味戦記」にまとめるて、厚生省へ提出する

<座間味戦記~「梅澤部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず、若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又老人、子供は全員村の忠魂碑前に於て玉砕する様にとの事であった」>

1959年
  • 「準軍属」枠を設けた援護法が実施される
             ↓
  • これによって集団自決した負傷者・遺族にも年金や給与金補償金が払われることになる

1962年
  • 宮城初枝さん、月刊誌『家の光』の体験実話懸賞作文に投稿し、入選する

<懸賞作文~「夕刻、梅澤部隊長(少佐)から、住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人子どもは全員、今夜忠魂碑前において玉砕すべしという命令があっ」>
             ↓
  • 以後、「集団自決命令」説が多くの本に引用、拡大される

1968年
  • 『沖縄敗戦秘録~悲劇の座間味島』宮城さんの懸賞作文入選作を転載する

1969年
  • 『秘録・沖縄戦記』(山川泰邦著 読売新聞社)、厚生省に提出された「座間味戦記」を引用する

1970年
  • 赤松隊長が渡嘉敷島慰霊祭に参加し、騒動が起こる
             ↓
  • 以後、宮城初枝さんはマスコミ・研究者・旅行者に対して、「座間味戦の語り部」となり、「集団自決命令」説を証言し続けていく

1971年
  • 『沖縄県史・第八巻』、ついに県の公刊資料にも記載される


  • 国からの補償金を得るため(援護法)
  • ウソの証言(「集団自決は軍命令だった」)
  • ウソ証言の拡大・定着
(歴史教科書にまで「事実」として記載)

このようにして、ウソが「事実」として拡大し、定着していったのです。ヒトラーか誰でしたか、「ウソも言い続ければ『本当』になる」というようなことを言っていましたが、恐ろしいことです。しかし、決して放置していてはいけません。


6.おわりに


さて、この話には続きがあります。次の話を読んでください。

【35年後の真実】


集団自決命令の当事者にされてしまった梅沢隊長の人生も大変でした。マスコミを はじめ、様々な人から非難され、職場にいられなくなって仕事を転々としました。ま た、息子さんまでが反抗するようになって、家庭が崩壊するなど、ずっとつらい思いをしてきました。そして長い時が流れ、昭和55(1980)年のある日、あの証言者・宮城初枝さんが30数年ぶりに会いたいと言ってきたのです。

<母(宮城初枝)が「集団自決の命令は、梅沢隊長ではなかった。でもどうしても隊長の命令だと書かなければならなかった」と語りだしたのは、1977年のことだった。そして、「梅沢さんが元気な間に、一度会ってお詫びしたい」とも言った。
それから三年後の1980年、私は知人を介してようやく梅沢氏の所在を知ることができ、手紙を送った。そして、その年の12月中旬、私は職場近くのホテルのロビーで母と二人、梅沢氏と面会した。梅沢氏は私がマスコミを連れてきてはいないかと、しきりにあたりを見回している。母が梅沢氏に、「どうしても話したいことがあります」というと、驚いたように「どういうことですか」と、返してきた。母は、35年前の3月25日の夜の出来事を順を追って詳しく話し、「住民を玉砕させるよう、お願いに行きましたが、梅沢隊長にそのまま帰されました。命令したのは梅沢さんではありません」と言うと、驚いたように目を大きく見開き、体をのりだしながら大声で「ほんとですか」と椅子を母の方に引き寄せてきた。母が「そうです」とはっきり答えると、彼は自分の両手で母の両手を強く握りしめ、周りの客の目もはばからず「ありがとう」「ありがとう」と涙声で言い続け、やがて嗚咽した。>
(宮城晴美 『母の遺したもの』から中学生向けに要約)

【原文】 (作業中p260~)

そして昭和62(1987)年3月、梅沢隊長は座間味島の慰霊祭に出席しました。この時、国にウソの申請をした宮村幸延氏も梅沢隊長に直接謝りました。

【「母の遺したもの」より】(作業中p268~)

何十年もたって謝罪された梅沢隊長はこう言いました。 「今まで自分は心中穏やかではなかったけれども、それで村が潤い、助かったのだから、いいじゃないか」と。

あなたが、赤松隊長や梅沢隊長だったとしたらどうしますか。
また、宮城初枝さんだったら、どうしたでしょうか。

以下、右の質問に対する生徒諸君の感想です。

○私が赤松・梅沢隊長だったら、マスコミや新聞に本当のことを言ってしまうと思います。いくら住民の暮らしのためだといっても、自分の人生が最悪なものになってしまうなんてたえられないと思うからです。でも、赤松・梅沢隊長は悪いのを自分で全 部背負って生きていくなんてすごいと思うし、尊敬します。また、自分が宮城さんだったら、ウソをついて助役の言う通りにしてしまうと思います。それがいけないことだとわかっていても、やっぱり本当のことは言えないと思います。でも、ウソが定着しているということは不安だし、いやな気分です。私はたまたま本当のことを知ることができたけれど、他の中学生は知らないままです。そして、赤松・梅沢隊長・日本軍を誤解したままです。だから、せめて教科書だけでも真実を載せて欲しいです。(女子)

○僕は赤松隊長や梅沢隊長みたいなことはできないと思う。自分だけ苦しんで、他の人が楽しく生きているのが許せなくなると思う。もし、自分が宮城さんだったら、すごく迷うと思う。自分がウソを言えば、周りの人の生活が楽になると思うが、でも言ったら隊長に迷惑をかけてしまう。そう思うとすごく悩む。(男子)

○自分のことを犠牲にして村の人たちを守ろうとした赤松隊長や梅沢隊長。やっぱり軍の隊長だけのことはある。いつでも住民のことを守る赤松さんや梅沢さんは、とても尊敬できる人です。(女子)

○宮城初枝さんも結構苦しんで、かわいそうな人だったのではないかなと思う。でも、それにもまして隊長さんたちの強い心に感動しました。歴史はいろいろな見方があるので、本などを信じ込んでしまうのも良くないと思いました。(女子)

○最初にウソの方を読んで、「ひどい!」と思った自分がはずかしいです。私もそうだったように、みんなにウソを吹き込んで信じさせようとしている。腹が立ってきます。(女子)

○戦争という異常な世界の中で、冷静な判断をくだすことはとても難しく、行き場を失った住民は自決するしかないという判断になってしまった。軍の方も結果的に住民を守れなかったということで、二人の隊長も困り果て、その責任感からも戦後、真実を語れなかったのだと思います。(女子)

○ウソをそのまま鵜呑みにし、真実が明かされてもそれをきちんと伝えないのは、日本の悪いところだと私は感じました。教科書は真実の歴史を子どもたちに教え、国の未来を託すものなのに、ウソを教えるなんて、あってはならないことだと思います。誰が悪いとか良いとか、戦争はそういう事じゃないと私は思います。人がたくさん亡くなりました。だから、私たちはもう二度とそんな歴史を繰り返さないようにする。そのことをこの事実から学べば、犠牲になった人たちの命もムダにならないと思います。(女子)


【参考文献】

  • 曽野綾子 『ある神話の背景』 PHP文庫
  • 宮城晴美 『母の遺したもの』 高文研
  • 中村粲 『教科書は間違っている』 日本政策研究センター
  • 「昭和史研究所会報」 第43、44、56、64号
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