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沖縄戦集団自決についての取り組み

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沖縄戦集団自決についての

昭和史研究所の取り組み

中村 粲(昭和史研究所代表)

私がこの問題に関心をもったのは、10年ほど前比嘉嘉順(旧姓安里)さんの手記を読んで、これは大変なことだ、何とかしなければと思ったのが最初でした。平成10年になって皆本義博元第三中隊長に聞き取りを行いました。沖縄タイムスの書いていることは事実と違うと。

平成10年から2回ほど、実際に渡嘉敷に行ってみようとスタッフを連れてビデオを撮ってまいりました。現場を知っている赤松さんの部下で知念さんと安里巡査、 この方は駐在さんであり軍と住民との間をとりまとめていた方で、300人と言われる集団自決の現場をも見ておる方です。1時間から2時間にわたって聞き取りを行いました。渡嘉敷には金城武徳さんがおり集団自決のあったハブの棲む藪の中に入り、ここは当時と変わってないなと言っておりました。

昭和史研究所でも会報に随時載せてまいりました。その後座間味についてはご存命であられる梅澤さんと連絡をとり手記を頂いたり電話でやりとりしたり、その事を会報に載せたりしておりました。梅澤氏については、はっきりしております。当時の助役、防衛隊長が勝手に自決命令を出し、自らも自決しました。その弟さん宮村幸延氏が昭和62年梅澤氏が訪ねてきたとき謝罪した。あれは援助金欲しさに書いたのだと詫び証文一札を入れ印まで押しており、その証拠が残っております。座間味の件はこれではっきりしたわけですね。

ところが渡嘉敷についてははっきりとした物証がない。証言はあるんですね。比嘉嘉順(安里巡査)さん、知念朝睦さん、赤松さんの所属部隊にいた谷本小次郎さん、当時の自決現場にいた13歳の金城さんがおられる。証言はたくさんあるんですけど、梅澤氏のようなはっきりとした証拠がないんですね。これを明確にしたいと思い厚生労働省と折衝したわけです。自民党の有力者を介して折衝をしたのですが、そのような資料は見せることはできない、どうしても事情が知りたければ直接町役場の方に、全て書類はそっちから上がってきたものだから、直接渡嘉敷の町役場に行ったらいいのではというアドバイスであった。

渡嘉敷の助役松本好勝氏に手紙を書きました。この方は、集団自決の翌日その現場で生まれた方で、村の教育長そして助役となった方です。給付金の申請した日付、許可が下りた日付等を書いた書類を見せてくれないかと再三頼みましたが返事はもらえませんでした。七ヶ月ぐらいたってから事務局に電話があり、遠い昔のことであり資料は残ってないということでした。

それで平成15年3月に産経の石川水穂論説委員と一緒に厚生労働省の援護課に行き、1時間ほど審査室長に会い話を伺いました。座間味、渡嘉敷の人々が悲惨な事実を経験したことは事実である。それによって援護金を受け取る事に誰も反対はしない。ただ援護法に基づく年金給付は、事実軍の命令があったからなのか、つまり軍の命令によって集団自決が行われそれによって遺族年金が出ているのか、それとも行政上の便法に よって軍命令があったことにしたのか、そのことをはっきり知りたいのだと申しました。

担当官は昭和32年頃ですか、調査課というのがあり現地で聞き取り調査のようなことをやり、軍命令があったとの証言を得たので、それに基づいているということでした。調査といっても、お役所の出張報告のようなものです。

昭和21年マッカーサー命令で軍人恩給がストップとなりました。 講和条約が結ばれ、27年に援護法という法律ができ、28年に軍人恩給が復活し軍人は全部恩給に移ったんですね。そして軍属と準軍属が援護法の対象として残ったのですが、その中に戦闘参加者という項目があり、沖縄では兵隊さんの為に多くの住民が協力(道案内、水くみ、宿舎の提供など)したということがわかりました。そういう人々も援護法の対象となったわけです。軍と何らかの関わりのあった人たちにも適用されるということになったわけです。

昭和32年に戦闘参加者概況表を作成し、14歳以上の者を対象としました。集団自決については一般の戦闘参加者と違って37年からは0歳も処遇することになっているという説明がありました。私は集団自決した人々の遺族を救済するために自決者を準軍属にしたのは已むえないことだと思います。それについては係官と話したときも今更どうこういう人はいないと思うが、軍命令があったという部分は厚生労働省としてはあやまりではなかったのかということです。

厚生労働省側としては歴史的事実であったかどうかということについては答えることはできない、あくまで昭和32年の調査に基づいているのだと主張していました。しかし軍命令ではなかったんだということになれば軍の名誉も保たれることではないのかといったが理解してもらえなかった。産経の石川さんはこの問題について、教科書のあやまりを正す必要があると述べておりますね。

このことは産経の「一筆多論」(平成15年4月7日)の中でも記しておられます。結論としては、渡嘉敷については行政側では軍命令があったということになっております。 これが軍命令のなかったことが立証されている座間味とは違うところです。

平成17年4月2日に、赤松さんの26回忌があり、戦友会が主催したわけですが、ご遺族の方々も出席されいろいろな話を聞くことができました。
平成14年に日本政策研究センターから、座間味と渡嘉敷のインタビューを受け、これが14年の8・9月号の「明日への選択」に載りました。それがまとまって「教科書は間違っている」というブックレットになりました。
平成17年4月18日には靖国応援団が梅澤氏を招き、西宮で聞き取りを行いました。宮村幸延氏が書いた詫び状の原本も持参して来られました。

『母の遺したもの』では、あの詫び状は梅澤氏が書いたものだ、と記されており泡盛で宮村氏を酔わせたなかで捺印させたと書いてあるがと梅澤氏に聞いたところ、泡盛など飲んでない。ビールは少々飲んでいたがあれは宮村氏が自分で書いて印を押したのであると云っておられました。

『母の遺したもの』は全部は信用できない、お母さんとあれを書いた娘さんとは考え方が違うようだ。 そして沖縄タイムスですが、これも現場を知らない方が書いたんですね。 「集団自決」をした場所も間違っているし、赤松隊長が住民に壕に入るなと怒鳴ったことになっているが、壕なんかなかったと赤松隊長の部下であった知念さん、そして谷本さんも証言してました。3月28日には壕はなかったのですね。最初はたこつぼですね。人が入れる壕らしきものが出来たのはそれから数ヶ月経ってからです。このような間違いが沢山あるわけです。ですから沖縄タイムスは訂正してもらいたいですね。

自由主義史観研究会も現地の調査をやり実によく調べたと思います。
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