宮城晴美さん/自決命令明らか
座間味島での「集団自決」は日本軍の命令で起こった。当時、駐屯していた海上挺進第三戦隊の最高指揮官は戦隊長で、住民にとって天皇に匹敵する存在だった。絶対的な責任がある。
私は著書などで母・宮城初枝の証言を基に、戦隊長からの命令は無かったと書いてきた。
しかし、六月二十四日に座間味村の宮平春子さんに会い、兄で兵事主任だった宮里盛秀助役(当時)が「軍からの命令で敵が上陸してきたら玉砕するように言われている」と述べていたと聞いた。決定的な証言だ。
当時、村の行政は完全に戦隊長の傘下に入り、戦隊長から村長や兵事主任に命令が伝わっていた。また、軍官民共生共死の一体化方針などもあり、住民は誰もが「集団自決」が戦隊長からの命令だと認識していた。
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2007年7月28日(土) 朝刊 1・26面
「命令主体は戦隊長」/裁判の核心著作 宮城さん証言
「集団自決」訴訟/助役妹証言「決定的」
沖縄戦時に慶良間諸島で相次いだ住民の「集団自決(強制集団死)」をめぐり、住民に命令を出したとする著作への誤った記述で名誉を傷付けられているとして、旧日本軍の戦隊長らが作家の大江健三郎さんと出版元の岩波書店に慰謝料などを求めた訴訟の証人尋問が二十七日、大阪地裁(深見敏正裁判長)であった。座間味島の「集団自決」について記した「母の遺したもの」の著者で、女性史研究家の宮城晴美氏(57)が被告側の証人として出廷。宮城氏は「住民の『集団自決』は軍の命令や指示によるもので、その最高責任者は部隊の指揮官。戦隊長命令がいつどこで具体的に出されたかは分からないが、命令の主体は戦隊長」と証言した。
母・初枝さんの手記を基に記した「母の遺したもの」で、住民の「集団自決」が梅澤裕戦隊長による命令ではなかったとした点について「(村の幹部が梅澤氏を訪ねた)一九四五年三月二十五日の夜のやりとりのことで、あくまで母の個人的な体験。自分の目の前では命令がなかったということです」と述べた。
「集団自決」訴訟/助役妹証言「決定的」
沖縄戦時に慶良間諸島で相次いだ住民の「集団自決(強制集団死)」をめぐり、住民に命令を出したとする著作への誤った記述で名誉を傷付けられているとして、旧日本軍の戦隊長らが作家の大江健三郎さんと出版元の岩波書店に慰謝料などを求めた訴訟の証人尋問が二十七日、大阪地裁(深見敏正裁判長)であった。座間味島の「集団自決」について記した「母の遺したもの」の著者で、女性史研究家の宮城晴美氏(57)が被告側の証人として出廷。宮城氏は「住民の『集団自決』は軍の命令や指示によるもので、その最高責任者は部隊の指揮官。戦隊長命令がいつどこで具体的に出されたかは分からないが、命令の主体は戦隊長」と証言した。
母・初枝さんの手記を基に記した「母の遺したもの」で、住民の「集団自決」が梅澤裕戦隊長による命令ではなかったとした点について「(村の幹部が梅澤氏を訪ねた)一九四五年三月二十五日の夜のやりとりのことで、あくまで母の個人的な体験。自分の目の前では命令がなかったということです」と述べた。
初枝さんから託されていたノートの手記の中に「あの晩の後のことは私には皆目分かりません」との記述があることを明らかにした。
「母の遺したもの」では、住民に「集団自決」を命じたのは兵事主任兼防衛隊長(助役)の宮里盛秀さんだったと、反対尋問で従来とは認識が変わっていることを指摘された。宮城氏は盛秀さんの妹の宮平春子さんから、盛秀さん自身が軍の命令を受けていたとの証言を今年六月になって直接聞いたと説明。
宮平さんの証言は、軍による命令を裏付ける決定的な証拠だとし、反対尋問には「体験者が涙ながらに口を開いてつらい体験を語る時に、都合のいいように言葉を選んで身内をかばうようなことはできない」と反論した。
宮城氏は、原告の梅澤氏が「集団自決」を覚悟した村の幹部に「決して自決するでない」と言って帰したと主張していることについて、「今晩はお帰りください」と言ったにすぎないと考えられるとした。
初枝さんの記憶は鮮明で「決して自決するでない」と言ったとすれば母は手記に書いていると述べた。宮城氏は「もし梅澤さんが『死なずに投降しなさい』と言っていればあんなに多くの人が死なずにすんだと思う」と話した。