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被告準備書面(10)要旨2007年5月25日

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準備書面(10)

                    2007年5月25日

準備書面(10)記載内容について、日本軍の隊長の自決命令に関する部分の要旨を、以下のとおり整理して述べる。

1 沖縄戦において、日本軍第32軍司令部(球第1616部隊)は、1944年(昭和19年)11月18日に「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」(乙33)を定め、日本軍は、 「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍官民一体の総動員作戦を展開していた。

2 座間味島や渡嘉敷島など慶良間諸島に駐留を開始した日本軍も、この方針のもとに、住居の提供、陣地の構築、物資の運搬、食糧の供出・生産、炊事その他の雑役等に村民を狩り出すとともに、村民の住居に兵士を同居させ、さらには村民の一部を軍の防衛隊に編入し、軍は村の行政組織を軍の指揮下に組み込み、全権を握り、これらの軍への協力を、村長、助役、兵事主任、防衛隊長などを通じて命令していた。

3 そして、軍は、米軍が上陸した場合には村民とともに玉砕する方針を採り、秘密保持のため、村民に対しても米軍の捕虜となることを禁じ(捕虜となったとの理由で日本軍によって処刑された住民が現実に存在する-乙49「座間味村史」上巻366~368頁、乙50「座間味村史」下巻48、106、115頁、乙13「渡嘉敷村史」200~201頁、甲B18「ある神話の背景」193頁以下など)、「米軍の捕虜となった場合は女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される」などと脅し、いざというときは玉砕(自決)するよう、日本軍の隊長からあるいは個々の兵士を通じて言渡していた。

4 昭和20年2月中旬に海上挺進基地大隊の主力が沖縄本島に移動したが、基地大隊の残置地部隊は海上挺進戦隊長の指揮下に入り、その他の部隊(特設勤務中隊、船舶工兵小隊、防衛隊)もすべて第一戦隊長の指揮下に入った(乙55防衛庁防衛研修所戦史室著「沖縄方面陸軍作戦」232、236、244頁、乙49「座間味村史」上巻345頁、乙13「渡嘉敷村史」198頁)。すなわち、梅澤隊長及び赤松隊長は、座間味島及び渡嘉敷島の日本軍の最高指揮官であり、日本軍の指示・命令は、すべて梅澤隊長又は赤松隊長の指示・命令であった。

5 慶留間島は、阿嘉島(両島とも座間味村に属する)とともに海上挺進第二戦隊の野田義彦少佐(戦隊長)が守備隊を指揮していたものであるが、野田戦隊長は昭和20年2月8日の大詔奉戴日に慶留間島で住民に対し、米軍が上陸したときは玉砕するよう訓示した(乙48與儀九英回答書、乙49「座間味村史」上巻357頁、乙9「沖縄県史第10巻」730頁)。
  阿嘉国民学校慶留間分教場の校庭で野田隊長の訓示を直接聞いた與儀九英氏は、野田隊長が「敵ノ上陸ハ必至。敵上陸ノ暁ハ全員玉砕アルノミ」と厳しい口調で大声で住民に訓示したと明確に証言しており(乙48與儀九英氏回答書)、慶留間島において野田義彦少佐の住民に対する玉砕訓示があったことは明白である。
そして、この自決命令に従い(乙48與儀九英氏回答書)、慶留間島では、昭和20年3月26日朝に米軍が上陸を開始した後に、全人口の半数近くの住民が集団自決により死亡した(乙49「座間味村史」上巻356頁以下)。

6 座間味島では、昭和19年9月に日本軍が駐留するようになった直後に、基地大隊の小沢隊長が、島の青年団を集め、米軍が上陸したら自決するよう指示しており(乙41陳述書)、毎月8日の大詔奉戴日には忠魂碑前で日本軍が同様に住民に対し玉砕を指示していた(乙B5「母の遺したもの」97~98頁)。また、米軍上陸前後に多くの住民が日本兵から自決をするよう指示され、自決用に手榴弾を配布されるなどしている(乙9「沖縄県史」746頁宮平初子手記、738頁以下宮里とめ手記、甲B5「母の遺したもの」46頁宮城初枝手記、乙50「座間味村史」下巻61頁宮里育江手記、乙51陳述書、乙52陳述書、乙53・2007年5月14日付朝日新聞朝刊記事など)。
 そして、夥しい数の米軍の艦船等によって島を包囲され航空機による空爆や艦砲射撃などによる攻撃がなされる中で、逃げ場を失った村民は、かねて指示・命令されたことにしたがい、軍の玉砕命令が発せられたとの伝達を受け、あるいは日本軍の将兵から自決するよう指示され、自決用の手榴弾を渡されるなどして、集団自決に追い込まれたのである。
住民は、「軍官民共生共死の一体化」方針のもとで、駐留する日本軍から「玉砕」を指示され、玉砕するしかない立場に追い込まれ、自決したものであり、日本軍が住民に対し「玉砕」を指示することなく、捕虜となることを容認していれば、集団自決が発生することはなかったことは明らかである。
 原告らは、座間味島の集団自決は村の助役が住民に命令したかのように主張するが、座間味村の助役兼兵事主任兼防衛隊長であった宮里盛秀氏は、昭和20年3月25日の夜、父宮里盛永(戦後宮村に改姓)氏らに対し、「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている。まちがいなく上陸になる。国の命令だから、いさぎよく一緒に自決しましょう。敵の手にとられるより自決したほうがいい。今夜11時半に忠魂碑の前に集合することになっている」と告げている(乙51陳述書、同旨乙28宮村盛永自叙伝)。すなわち、宮里盛秀氏は、あらかじめ座間味島の日本軍(梅澤部隊長)から、米軍上陸時には住民は自決するよう命令されていたもので、伝令を通じて自決のため忠魂碑前に集合するよう住民に対し軍(梅澤隊長)の命令を伝えたものである。

7 (この項は被告準備書面(5)による。)渡嘉敷島では、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山(新城)真順氏に対し渡嘉敷部落の村民を役場に集めるように命令し、富山氏が軍の指示に従って17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせ、集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」と訓示した(乙12、乙13-197頁)。渡嘉敷島において、軍を統率する最高責任者は赤松隊長であり、手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれていた武器である。兵器軍曹が赤松隊長の意思と関係なく、手榴弾を配布し自決命令を発するなどということはありえない。すなわち、この時点であらかじめ軍(=赤松隊長)による自決命令があったことが明らかである。
  そして、米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日、赤松隊長から兵事主任に対し、「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が村民に伝えられた(乙12、乙13-197頁)。さらに、同27日夜、村民が同命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まり、翌3月28日米軍の艦砲や迫撃砲が打ち込まれる状況の中で、村の指導者を通じて村民に軍の自決命令が出たと伝えられ、軍の兵士である防衛隊員が軍の陣地から出てきて自決用の手榴弾を住民に配り、そこで集団自決がおこなわれた(乙11-279頁~287頁・金城重明氏証言、乙9-768頁~769頁・古波蔵(米田)惟好氏証言)。防衛隊員が「伝令」と叫んで村長に命令事項を伝え、これにもとづいて村長が手榴弾を発火させるよう住民に指示したとの新たな証言もある(乙53朝日新聞記事)。軍は、軍官民共生共死の一体化の方針のもと、いざというときは捕虜となることなく玉砕するようあらかじめ村民に指示しており、軍が陣地近くに住民を集結させ、軍の部隊である防衛隊員が軍の陣地から自決用の手榴弾を持って出てきて村民たちに配布し、軍の自決命令が出たと伝えられ、その結果村民の集団自決が行われたものであり、軍の命令によって集団自決が行われたことは明らかである。また、村民たちが軍の自決命令が出たと認識し自決したことも明らかである。赤松隊長は、渡嘉敷島における軍の最高指揮官であったもので、軍の自決命令は赤松隊長の命令にほかならない。
  なお、産経新聞に掲載された照屋証言が信用できないものであることは、被告ら準備書面(11)に詳述したとおりである。

8 原告らは、日本軍の隊長の玉砕訓示や兵士の玉砕指示は、戦時下の日本国民としてのあるべき心得の教えを確認したにすぎないものであるから軍の命令とはいえず隊長命令説の根拠となりえないと主張するが、慶良間諸島の住民がそのような心得の教えを受けていたとしても、現実に日本軍が駐留し、敵が上陸することが予想される事態において、島を支配する日本軍の隊長や個々の兵士から、「捕虜となることなく、玉砕せよ」と指示されたのであるから、これは「軍の命令」以外の何者でもない(乙48與儀九英回答書)。

                     以上
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