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原告準備書面(8)全文2007年05月25日その1

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原告準備書面(8)平成19年5月25日

第9回口頭弁論



第1 『秘録沖縄戦記』復刻版における《隊長命令説》の削除


1 『秘録沖縄戦記』の復刻


 被告らは、座間味島での集団自決に関する《梅澤命令説》、渡嘉敷島での集団自決に関する《赤松命令説》の真実性を示す有力資料として、1958(昭和33)年『秘録沖縄戦史』(乙4)、さらにはそれを著者山川泰邦が全面改訂した1969(昭和44)年『秘録沖縄戦記』(乙7)を挙げており(被告第1準備書面13頁以下、16頁以下、同21頁以下、同24頁以下)、確かにそれらには具体的に原告梅澤及び赤松大尉による自決命令が記されている(乙7・156頁以下、147頁以下。この乙第7号証を『秘録沖縄戦記』の「元版」という)。

この『秘録沖縄戦記』は長く絶版になっていたが、平成18年10月に、著者山川泰邦の長男であり那覇市役所助役職にあった山川一郎が発行者となり、新星出版株式会社から復刻された(甲53)。

 注目すべきなのは、この復刻版においては、元版に記載されていた原告梅澤及び赤松大尉による自決命令の記述が、完全に削除されていることである。

 以下、この点を詳述する。

2 座間味島の集団自決について


座間味島の集団自決については、『秘録沖縄戦記』の元版(乙7)の記述は下記のとおりである。

「・・・その翌日も朝から、部落や軍事施設に執拗な攻撃が加えられ、夕刻から艦砲射撃が始まった。艦砲のあとは上陸だと、おそれおののいている村民に対し梅沢少佐からきびしい命令が伝えられた。

 それは、『働き得るものは男女を問わず、戦闘に参加せよ。老人、子供は村の忠魂碑前で自決せよ』というものだった。

 従順な村民たちは、老人も子供もみな晴れ着で死の装束をすると、続々と集まってきた。間もなく忠魂碑前は、村民で埋まった。梅沢少佐と村長が来るのを待って、自決が決行されることになっていた。」(156頁)

「そのほか、軍刀で家族全員を刺し殺したり、亜砒酸、小刀、かみそり、手榴弾などで親子、兄弟姉妹、および親しい者同士がお互いの血を浴びて倒れた。梅沢少佐の自決命令を純朴な住民たちは素直に受け入れて実行したのだった。十八日、七十五人が自決、そのほか多くの未遂者を出した。」(158頁)

   これが復刻版では、下記のとおり改変されている。

「・・・その翌日も朝から、部落や軍事施設に執拗な攻撃が加えられ、夕刻から艦砲射撃が始まった。艦砲のあとは上陸だと、おそれおののいている村民たちは、老人も子供もみな晴れ着で死の装束をすると、続々と集まってきた。間もなく忠魂碑前は、村民で埋まった、自決が決行されることになっていた。」(187頁)

「そのほか、軍刀で家族全員を刺し殺したり、亜砒酸、小刀、かみそり、手榴弾などで親子、兄弟姉妹、および親しい者同士がお互いの血を浴びて倒れた。十八日、七十五人が自決、そのほか多くの未遂者を出した。」(188、189頁)

 原告梅澤による自決命令はおろか、軍の関与を示す叙述も全くなくなっている。


3 渡嘉敷島の集団自決について


 渡嘉敷島の集団自決については、『秘録沖縄戦史』(乙4)の記述は下記のとおりである。

「敵の砲弾は的確にこの盆地にも炸裂し始めた。友軍は住民を砲弾の餌食にさせて、何ら保護の措置を講じようとしないばかりか『住民は集団自決せよ!』と赤松大尉から命令が発せられた。自信を失い、負け戦を覚悟した軍は、住民を道づれにして一戦を交え花々しく玉砕するつもりであろうか。

 この期に及んで部落民は誰も命は惜しくはなかった。」(218頁)

そして、それを改訂した『秘録沖縄戦記』元版(乙7)でも、下記の記述がなされていた。
「 敵の砲弾は、島民がのがれた盆地にも炸裂し始めた。赤松隊は住民の保護どころか、無謀にも『住民は集団自決せよ!』と命令する始末だった。住民はこの期に及んで、だれも命など惜しいとは思わなかった。」(148頁)

   ところが、復刻版(甲53)においては、

「 米軍の砲弾は、島民がのがれた盆地にも炸裂し始めた。住民はこの期に及んで、だれも命など惜しいとは思わなかった。」(179頁)

と改訂され、「赤松隊は住民の保護どころか、無謀にも『住民は集団自決せよ!』と命令する始末だった」との元版記載が完全に削除されたのである。


4 改訂の理由


 この重大な改訂の説明として、復刻版(172頁)においては、「本復刻版では『沖縄県史第10巻』(1974年)並びに『沖縄資料編集所紀要』(1986年)を参考に、慶良間諸島における集団自決等に関して、本書元版の記述を一部削除した。なお集団自決についてはさまざまな見解があり、今後とも注視をしていく必要があることを付記しておきたい。」(172頁)と「集団自決」の章の冒頭に断り書がある。

 参考にしたとされる『沖縄県史第10巻』(1974年)は、渡嘉敷島において「赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた」とする『沖縄県史第8巻』(1971年)(乙8・410頁)を訂正し、「どうして自決するような破目になったか、知る者はいないが、だれも命を惜しいと思ってはいなかった」としている(乙9・690頁)。

また、『沖縄資料編集所紀要』(1986年)には、もともと『第8巻』の当該記述は、山川泰邦の『秘録 沖縄戦史』(乙4)を参考にして命令内容が書かれたとされており(甲B14・37p)、それが『第10巻』で資料考証のうえで訂正されている以上、『秘録 沖縄戦記』(乙7)の当該記載も訂正が必定であったといえよう。『第10巻』に載録されている複数住民の証言もこの訂正を裏付けるものであった。

 座間味島における集団自決についても、宮城晴美がその『母が遺したもの』(甲B5)のなかで述べているように、『第10巻』に収載された複数の住民の証言には一切出て来ないにもかかわらず、大城将保が執筆した解説には宮城初枝が書いた『血塗られた座間味島』に基づいて原告梅澤の命令が記載されていたのであったが(甲B5・258~259p)、『沖縄資料編集所紀要』(1986年)には、執筆者の大城将保によって、その経緯が記載されたうえ(甲B14・37p)、原告梅澤の手記が「史実を解明する資料」として掲載されている。そして、座間味島において昭和20年3月25日に原告梅澤を村の幹部が訪ね、「村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。」と頼んだが、原告梅澤が「決して自決するでない。」「弾薬は渡せない。」と拒絶した、という内容を含む原告梅澤の手記について、宮城初枝が「真相は梅沢氏の手記の通りであると言明して居る」と大城将保が記し、これによって事実上の県史訂正がなされているのである(甲B14・46p)。こうしたことが『秘録 沖縄戦記』の復刻改訂にあたって参考にされたのである。

 なお、この『秘録沖縄戦記』復刻版の発行は山川一郎によってなされているが、上記のような重大な内容の改訂については、復刻版の著者が山川泰邦のみとされていることからうかがえるように、山川泰邦が、その生前から意図していたものと解される。山川泰邦が死去したのは1991(平成3)年であるが、改訂の根拠となった上記の『沖縄県史第10巻』(1974年)及び『沖縄資料編集所紀要』(1986年)の発行は、山川泰邦の生前になされており、山川泰邦がそれらの新資料を入手検討していたことは確実だからである。


5 史実の検証に耐えられなくなっている《梅澤命令説》《赤松命令説》


この改変が示すことは、《梅澤命令説》《赤松命令説》が史実の検証に耐えられず、むしろ、真実でないことが今や完全に明らかになっているということである。

 そして、通常の人権感覚や良識を有する発行者や出版社は、誤った記載のあることが明らかになった過去の出版物は、絶版にしたり、復刻をする際には誤りを修正するということを当然になすものなのである(復刻版を発行した山川一郎にしても、出版した新星出版株式会社にしても、本件原告らを擁護しようとする思想傾向をもつものではなく、むしろ沖縄県人、沖縄の出版社として、沖縄の戦争被害を強く訴えようとする基本的立場にあるものであることに留意されたい)。

 本件訴訟でも問題とされている「真実に反する記載」が、些細な事実の誤認ではなく、戦中戦後を誠実に生きてきた2人の市井人を、集団自決の命令者すなわち「住民大量虐殺の責任者」と断罪糾弾する極めて重大な内容を有する誤りであることからすれば、復刻にあたり上記のような全面削除がなされるのは、当然といえば当然のことである。

これに引き比べると、被告らの姿勢は全く対照的である。「書いたときは通説だったのだ」、「歴史検証の成果は受け入れる必要はない」、「著名な文学者、歴史家の価値ある著作に訂正は無用」、「悪い日本軍の一員だったのだから仕方ないだろう」、「これからも訂正もせず、絶版にももちろんしない」・・・、被告らが(言外に)示す態度は、あまりに傲岸なものといわざるを得ない。

 名声高き文筆家であり著名出版社である被告らに対しては釈迦に説法ではあろうが、「ペンの暴力」という言葉がある。「ペン」、すなわち報道出版は、人を殺すに等しいほどの暴力的な効果をも容易にもたらすことがある。

被告らが書き、現に今でも販売している書籍に記された《梅澤命令説》、《赤松命令説》は、被告らが有名で社会的信用も高い文筆家、出版社であることもあいまって、原告梅澤、故赤松大尉ら当人や、その近親者にとっては、その社会的評価や敬愛の情を例えようもなく傷つけるものであり、まさしく「ペンの暴力」そのものである。

 本件訴訟で原告らに対しこの被害からの救済の道が拓かれなければ、もう二度と、原告梅澤の名誉回復や、原告赤松ら故赤松大尉の近親者の敬愛追慕の情の保護の機会は、巡ってこないであろう。

   被告大江健三郎は、かつて『石に泳ぐ魚』事件において裁判所に提出した陳述書(甲B50)のなかで、作品によって傷つき苦しめられる人間をつくらぬよう配慮して書き直すことの必要を述べ、「その発表によって苦痛をこうむる人間の異議申し立てが、あくまで尊重されねばなりません。」と言っていたはずである。被告らがなすべきことは余りにもはっきりしている。


6 補足-『潮だまりの魚たち』-


 今回原告側が入手提出した書証に、2004(平成16)年6月発行の『潮だまりの魚たち』(甲B59)がある。

 この書籍は、座間味島における著者宮城恒彦ほか多数の戦争体験者の証言集であり、集団自決に触れられている箇所も多数あるが、伝聞も含め、集団自決に関する梅澤命令あるいは軍命令には、全く触れられていない。それどころか、集団自決発生の前後のエピソードとして、原告梅澤が村民の女性らに山への避難を命じた(163頁)、あるいは戦闘により重傷を負った日本兵(少尉)が他の兵に対して、村の娘たちを無事親元に送り届けるよう指示した(167頁)などの、軍による集団自決命令と完全に矛盾する人間的エピソードが、いくつも証言として載録されているのである。

 これも、著者が、自身を含めた体験者の証言を丁寧に確認、記録した結果なのであろう。

 このように、近年著される書籍においては、緻密や調査や史実の検証により、慶良間列島における集団自決については、部隊長命令あるいは軍命令によるものとはされない(あるいは根拠の不確かなものとして記述されない)のが一般なのである。


※「沖縄資料編集所紀要」という誤記のおおもとはどうやら、この裁判の原告文書にあるようです。http://minaki1.seesaa.net/article/42931606.html

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