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被告準備書面(9)要旨2007年3月30日その2

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第4 同第5(匿名性と同定可能性について)について
 1 同2(被告らの主張の不当性について)について
(1) 原告らは、被告らの主張が「『同定可能性』にかかわる特定情報の知・不知の問題のレベルにおいて、『一般読者の注意と読み方』と持ち出してきている点で不当である」「『名誉毀損性』に関わる『一般読者の注意と読み方』の基準は、当該表現が対象者の社会的評価を低下させるものかどうかを判断する局面において機能すべき基準なのである」と主張している。
    しかし、すでに述べたように、当該表現が誰に関するものであるかは、表現が他人の名誉を毀損するかという「名誉毀損性」の問題にほかならないのであって、表現が誰に関するものであるかについては、一般読者の普通の注意と読み方によって判断すべきである(被告準備書面(2)3頁以下)。
(2) すなわち、「名誉を毀損するとは、人の社会的評価を傷つけることに外ならない」(前記最高裁昭和31年7月20日第二小法廷判決)のであり、人の社会的評価が低下するということは、表現の対象者を評価する外部の者による当該人物に対する社会的評価が低下することである。
そして、ある表現が誰かの社会的評価を低下させるか否かは、その「誰か」が特定されなければ、当該表現に接した者にとって、表現の対象者の「社会的評価が低下」することはありえない。つまり、ある表現が他人の名誉を毀損するか(社会的評価を低下させるか)を判断する際、その表現が「誰に関してなされたものか」という表現の特定性の問題と、その表現が「人の社会的評価を低下させるか」(名誉毀損性)という問題とは切り離して判断することは不可能であり、両者は一体のものである。
したがって、表現が誰に関してなされたものであるかという問題と、その表現が人の社会的評価を低下させるかという問題は、同一の基準で判断されなければならない。
    そして、記事等が人の名誉を毀損するものであるか否かは「一般読者の普通の注意と読み方を基準として解釈されるものである」(前記最高裁昭和31年7月20日判決)というのが確立した判例法理である。
    したがって、ある表現が他人の名誉を毀損しているというためには、表現が誰に関するものであるか、その表現中から特定しうることが必要であり、その判断は、「一般読者の普通の注意と読み方」を基準として解釈されるべきである。
そして、東京地裁平成15年9月5日判決(乙14)及び前橋地裁高崎支部平成10年3月26日判決(乙15)は、前記最高裁昭和31年7月20日判決と同様の判断をしている。また、原告らが別項で引用する東京高裁平成10年12月22日判決(甲C7)も、従軍日記の登場人物が「被控訴人」であるかどうかの判断に際し、「一般読者の通常の読み方を基準にするときは」登場人物が被控訴人を指すとはいえないとし、特定性の判断に「一般読者の注意と読み方」の基準を採用している。
  (3) なお原告らは、「『一般読者の注意と読み方』で判断されるということになれば、・・・無名の人物に対しては名誉毀損が認められなくなる暴論である」と主張している。
    しかし、無名の一般人についても、表現行為により、その実名等、直接当該人物を特定できる情報によって事実摘示がなされた場合には、一般読者の注意と読み方を基準としても、表現が誰に対するものであるか特定しうることから、当該人物に対して名誉毀損が認められるのであり、一般読者の注意と読み方を基準とした場合に、無名の人に対して全く名誉毀損が認められないなどということはない。
 2 同4(引用文献と同定性について)及び同5(基準のまとめ)について
  (1) 原告らは、本件では、東京地裁平成15年9月5日判決(乙14)、前橋地裁高崎支部平成10年3月26日判決(乙15)の裁判例が示す基準にしたがっても、「渡嘉敷島」「座間味村」の「守備隊長」という個人を特定するために十分な「一定の情報」が与えられていると主張している。
    しかし、そもそも、「沖縄ノート」の本件記述「その1」ないし「その4」には、「座間味村の守備隊長」という記載はなく、本件各記述から、一般読者が原告梅澤個人を指すものであると認識することは不可能であり、また、「渡嘉敷島」、「(渡嘉敷島の)守備隊長」といった情報のみでは、一般読者にとって、これが赤松大尉を指すものであると認識することは不可能である。したがって、上記各裁判例の基準によっては、「沖縄ノート」の記載が、赤松大尉、原告梅澤に関するものであると特定することはできない。
  (2) また、原告らは、東京地裁平成15年9月5日判決(乙14)は、対象記事の内容そのものを超えて別の週刊誌に基づく記載をも、当然に「一定の情報」の範囲内の資料としていると主張し、同判決が、一般人が入手可能な資料については、当然に、特定情報の判断資料としてよいということを示した裁判例であるとし、本件では、「沖縄戦史」(乙5)が同定情報の対象となる範囲内の資料となると主張している。
しかし、この主張は同判決を誤解したものである。すなわち、同判決は、「原告は、別件記事において、料亭Mが水野と特定されると主張し、・・・別件記事と併せて考察すれば、本件記事が水野と特定できると主張する。そこで以下、別件記事における料亭Mが水野と特定できるか否かにつき検討する」としているとおり、同事件の原告が、別件記事によって特定可能だと主張したため、その主張に理由がないことを示す際に、別の記事による表現の対象者の特定可能性について検討しただけであって、別の記事を、当然に、「一定の情報」の範囲内に含まれると判断したものではない。ましてや、同判決が、「一般人が入手可能な資料については、当然に、特定情報の判断資料としてよいということを示した判例」であるとするのは、原告らの恣意的な解釈にすぎない。
    したがって、本件において、「沖縄戦史」(乙5)が、「沖縄ノート」の記述が原告梅澤、赤松大尉に関するものであると特定するための資料となることはなく、原告らのいう「同定情報の対象となる範囲内の資料」となることはない。
    なお、原告らは、知財高裁平成17年11月21日判決(甲C4)が、文集という配布が予定されないとも考えられる書物について、1500部という少数ともいえる部数を書店で入手可能であったことをもって「同定性判断資料の範囲内としている」などと主張しているが、同判決は、「被告書籍に記載された本件文集の出典頁から、被引用部分7及び8の執筆者(寄稿者)を知ることは困難とはいえない。このような点を考慮すれば、被告書籍における引用部分7及び8の記述は、被引用部分7及び8の各執筆者(寄稿者)との関係では名誉毀損に該当する余地があるといえないでもないが、控訴人らは、いずれも当該被引用部分の執筆者(寄稿者)ではないから、引用部分7及び8の記載が控訴人らとの関係で名誉毀損を構成するものであるとは認められない」としているにすぎず、引用書籍によって表現の対象者を特定できるとの一般的判断をしたものではなく、表現の対象者が特定できなかったと判断しているだけであり、原告らの主張は誤りである。
  (3) また、原告らは、前橋地裁高崎支部平成10年3月26日判決(乙15)は、記事そのもの以外の「一般読者において通常知りうる事項」を考慮することができると判示しているとし、「沖縄ノート」に明確に記載された当時の「渡嘉敷島」「座間味村」の「守備隊長」の公的人事情報、引用文献として著者名・書籍名が明確に記載された「上地一史著『沖縄戦史』」その他公に報道された新聞等は、全て「一般読者において通常知り得べき事項」として特定性判断の資料になると主張している。
    しかし、前記のとおり「沖縄ノート」には、座間味島の守備隊長との記載はなく、また、同判決は、「考慮しうる内容は、無限定なものではなく」、「一般の読者において通常知り得る事項に限られる」と限定的しており、引用文献や新聞報道等が全て「一般の読者において通常知り得る事項」にあたるなどということはなく、原告らの主張は誤りである。
  (4) さらに、原告らは、東京地裁平成6年4月12日判決(甲C3)を引用し、「沖縄ノート」に記載された「『渡嘉敷島』、『座間味村』の守備隊長が、原告らを指していることは多数の報道等により、明らかとなっており、少なくとも現在においては匿名性が喪失しているといってよい」などとも主張している。
しかし、前記のとおり「沖縄ノート」には、座間味島の守備隊長との記載はなく、また、「沖縄ノート」の出版時においては、渡嘉敷島、座間味島の集団自決命令に関して、赤松大尉、原告梅澤の実名を記載した著作物が広く国民一般に読まれていたわけではなく、集団自決が全国紙で報道された事実も全くなかったのであり、赤松大尉、原告梅澤の実名が一般読者に認識されていたとはいえない(被告準備書面(2)7頁)。そして、現在まで、渡嘉敷島、座間味島の集団自決に関して、赤松大尉、原告梅澤が集団自決を命じたという事実が、新聞やテレビで実名をともなって広く報道された事実はなく、現在においても、一般読者が、渡嘉敷島、座間味島で集団自決を命じた人物が赤松大尉、原告梅澤であると認識しているということはない。
したがって、赤松大尉、原告梅澤が集団自決を命じたという事実が一般読者に認識されていたとはいえず、現在において、「沖縄ノート」の記載が匿名性を喪失しているとはいえない。

第5 同第6(引用文献による事実摘示、それらを前提とした意見論評による名誉毀損)について
   原告らは、前記最高裁平成9年9月9日判決(甲C6)を引用した上で、「沖縄ノート」は、「上地一史著『沖縄戦史』」の引用により、同引用書籍に記載がされている原告らの集団自決命令が前提事実となって、引用という形式により、原告らが集団自決命令を行ったと断定的に主張し、該事実を摘示するとともに、原告らの人格の悪性を強調する意見ないし論評を公表している、と主張している。
しかし、まず、「沖縄ノート」の本件記述「その1」ないし「その4」は、赤松隊長、原告梅澤が自決命令をした事実を摘示したものではないことは前記のとおりである。そして、「上地一史著『沖縄戦史』」が引用されているだけで、赤松大尉、原告梅澤が集団自決命令を行ったと主張したことにならないことも明らかである。
また、原告らは、「沖縄ノート」の表現は、引用文献である「上地一史著『沖縄戦史』」を手がかりに、「『間接的ないしえん曲』的に原告らが集団自決命令を行ったことについて事実摘示し、または、その表現の前提として『黙示的』に前記事項を主張するものと理解され、やはり、事実を摘示している」とも主張している。
しかし、「沖縄ノート」における「上地一史著『沖縄戦史』」の引用部分から、赤松大尉や原告梅澤を特定することはできないのであり、赤松大尉、原告梅澤が集団自決命令を行ったことを、「間接的ないし婉曲的」または「黙示的」に摘示したことになるわけではない。

第6 同第7(百人斬り訴訟事件判決基準自体の問題点)について
   原告らは、百人斬り訴訟に関する東京地裁平成17年8月23日判決(乙1)及び東京高裁平成18年5月24日判決(乙27)の判断基準が、真実をないがしろにし、東京高裁昭和54年3月14日判決を改悪し、最高裁判決の枠組みに反するなどと主張する。
   しかし、前記東京高裁平成18年5月24日判決(乙27)について、最高裁は上告棄却決定及び上告不受理決定を行い(乙46)、同判決は確定している。
   同判決は、歴史的事実探求の自由、表現の自由への慎重な配慮が必要だとしたものであり、真実をないがしろにした基準ではなく、東京高裁昭和54年3月14日判決を改悪したものではないことも明らかである。

第7 同第8(本件における「百人斬り訴訟事件基準」の非適合性)について
 1 同1(はじめに(結論))について
   原告らは、「一般的に、死者の名誉が毀損されれば、それにより遺族は死者に対する敬愛追慕の情という人格的利益を違法に侵害され、不法行為が成立すると解されるべきである。そして、摘示された当該事柄が公共の利害に関する事実であり、かつ、事実摘示が公益を図る目的でなされた場合で、摘示された事実が真実であることが証明されたときは、例外的に敬愛追慕の情の侵害についての違法性が阻却され、不法行為が成立せず、真実であることが証明されない場合でも、行為者においてその事実を真実と真実につき相当の理由があるときは、故意または過失がなく、不法行為は成立しない」と主張している。
   しかし、死者に対する名誉毀損は、表現行為が、権利侵害の客体たり得ない死者の社会的評価を低下させるものであり、直接遺族の権利侵害に向けられたものではないことから、原則として遺族に対する不法行為とはならず、間接的に遺族の死者に対する敬愛追慕の情が侵害されうるため、一定の場合に限り、例外的に不法行為が成立すると解されている。この点は、原告らが引用する東京高裁昭和54年3月14日判決も、遺族の敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立が例外的であることを前提に、「右行為の違法性を肯定するためには、前説示に照らし、少なくとも摘示された事実が虚偽であることを要するものと解すべく、かつその事実が重大で、その時間的経過にかかわらず、控訴人の故人に対する敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したといいうる場合に不法行為の成立を肯定するべきものとするのが相当である」と判示し、敬愛追慕の情侵害の不法行為が、例外的に、限定された要件を満たす場合に限って認められるものであるとの判断を明確にしている。
   したがって、遺族の敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立要件について、名誉毀損の成立要件と同列に論じる原告らの主張は誤りである。
2 同2(遺族の敬愛追慕の情を侵害する不法行為の成立について)について
(1) 同(1)(遺族の敬愛追慕の情侵害による不法行為による救済を認めた判例)について
原告らは、「遺族の敬愛追慕の情侵害による不法行為による救済を認めた判例」として、①大阪地裁堺支部昭和58年3月23日判決(密告事件)、②東京地裁昭和58年5月26日判決(受田代議士事件)、③大阪地裁平成元年12月27日判決(エイズプライバシー事件)を挙げ、これらの裁判例において、「死者の名誉毀損による敬愛追慕の情の侵害に関するものであるからといって、生者に対する名誉毀損の場合と比べて、虚偽性の面で、立証責任を転換したり、特段に要件を厳格化するという判断はなされていない」と主張している。
しかし、すでに述べたとおり、①大阪地裁堺支部昭和58年3月23日判決(密告事件)は、根拠のない憶測に基づく事実摘示、すなわち、虚偽事実の摘示を、敬愛追慕の情侵害の不法行為の要件として判断し、また、②東京地裁昭和58年5月26日判決(受田代議士事件)は、摘示事実の真実性の立証責任について何ら言及せず、遺族の敬愛追慕の情の侵害が問題となる事案において、真実性の立証責任を転換しないと判断したものではなく、③大阪地裁平成元年12月27日判決(エイズプライバシー事件)は、歴史的事実探求の自由・表現の自由への慎重な配慮は全く必要ない事案のため、生存している者に対する名誉毀損に準じ、真実性の立証責任を転換せず、要件を厳格化しない基準を採用したものである(被告準備書面(4)7頁)。
したがって、上記各判決が、死者の名誉毀損による敬愛追慕の情の侵害に関するものであることを根拠に、虚偽性の面で立証責任を転換したり特段に要件を厳格化するという判断はなされていないとする原告らの主張は誤りである。
(2) 同(2)(被告らの主張に対する反論)について
ア 原告らは、前記大阪地裁堺支部昭和58年3月23日判決(密告事件)は、「内容虚偽である文章が含まれている場合、出版社に上記『内容が他人の名誉を毀損することのないようにする注意義務』が課されていると判断しており、出版社としては、内容の真実性を立証するか、上記注意義務に反していないことを立証することになる」などと主張している。
しかし、同判決は、「原告の父三鬼に対する敬愛追慕の情侵害」についての出版社の責任を認める前提として、著者が、「何ら根拠のない憶測に基づき三鬼を特高のスパイであると断定し、しかも、実録小説という形式をとったことにより、読者に右虚偽の事実を真実と思いこませ」たことにより、敬愛追慕の情を侵害したと判示しており、「根拠のない憶測に基づく事実摘示」を要求しているのであるから、敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立要件として虚偽事実の摘示を要件としていることは明らかである(なお、同判決は、敬愛追慕の情の侵害だけでなく「原告の名誉」の侵害も認めていることから、「他人の名誉を毀損することのないようにすべき注意義務」がある旨判示しているものである)。
   イ また原告らは、「本件は、『生前』から名誉毀損され、『死後』直後も、『死後』長年経った現在も、名誉毀損されているのであるから」、「『生存している者に対する名誉毀損に準ずるものとして』、③の判例による基準がなお一層あてはまる」と主張している。
しかし、赤松大尉が死亡している以上、赤松大尉に対する名誉毀損は問題になり得ない。また、赤松大尉の死亡時点で、すでに集団自決から35年が経過しており、原告らが摘示事実であると主張する赤松隊長による自決命令がなされたという事実が遺族の敬愛追慕の情を侵害したかどうかは、歴史的事実探求の自由に対する配慮がなされるべきとされる死者の名誉毀損の典型事例にほかならない。したがって、本件では、生者に対する名誉毀損の基準は妥当しない。
3 同3(「歴史的事実探求の自由」と「真実」について)について
  原告らは、被告らの主張が、「歴史的事実」について「虚偽」を認める点で、極めて疑問であると主張している。
しかし、被告らは、歴史的事実が虚偽であってもよいなどと主張していない。
 すでに述べたとおり、死者に関する事実は、時の経過ともに歴史的事実となり、人々の論議の対象となり、時代によって様々な評価を与えられることになるものであり、死者の社会的評価を低下させる事柄であっても、歴史的事実探求の自由やこれについての表現の自由が重視されるべきであるから、歴史的事実に関するものである場合は、当該歴史的事実に関する表現内容の虚偽性の点については、摘示された事実がその重要な部分において「一見明白に虚偽」ないし「全く虚偽」であることを要する(被告準備書面(4)6~7頁)。本件各書籍について、原告らが敬愛追慕の情の侵害の不法行為を主張するには、虚偽性の点については、少なくとも、原告らにおいて、摘示された事実が「一見明白に虚偽」ないし「全く虚偽」であることを立証しなければならないのである。これは、歴史的事実に関する表現内容が虚偽であってもよいとするものではなく、「真実性」の立証責任を転換するものであって、原告らが引用する東京高裁昭和54年3月14日判決及び百人斬り訴訟判決(東京地裁平成17年8月23日判決(乙1)及び東京高裁平成18年5月24日判決(乙27))も同様である。
 なお、原告らは、歴史的事実についての表現に関する判断事項について、東京高裁平成10年12月22日判決(甲C7)に基づいて論じているが、同判決は死者の名誉毀損ではない生者に対する名誉毀損が問題となった事案であって、歴史的事実に関する表現による遺族の敬愛追慕の情侵害の不法行為の成否が問題となっている本件とは事案が異なる。
4 同4(本件において「歴史的事実」移行はしていない)について
原告らは、「沖縄ノート」は赤松大尉の生前に出版されたものであり、その時点では摘示された事実は「歴史的事実に移行した」ものではないと主張している。
しかし、すでに述べたように、ある事実が、歴史的事実となるか否かは、表現行為が、表現の対象者の生前になされたかどうかとは直接関係ない。ある事実が「歴史的事実」となるかどうかは、死亡から事実摘示までの時間が問題となるのではなく、当該事実が発生してから、摘示されるまでの時間の経過が問題となるのはいうまでもないことである(被告準備書面(4)9頁)。
  前記東京高裁昭和54年3月14日判決及び百人斬り訴訟判決は、いずれも「時の経過とともにいわば歴史的事実へと移行していく」(乙1-108頁)として、ある事実が発生してから摘示されるまでの時間の経過をもって、当該事実が歴史的事実に移行すると判断している。
  原告らの主張は失当である。
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