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被告準備書面(7)要旨2007年1月19日その2

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被告準備書面(7)要旨2007年1月19日その2







第3 平成18年11月10日付原告準備書面(5)に対する反論


1 同第1(『鉄の暴風』と座間味島の《梅澤命令神話》)について


(1)原告らは、1945年(昭和20年)3月25日夜、
従来からの軍命の伝達方法に従い、防衛隊長である助役から指示された伝令役の防衛隊員が、
「忠魂碑前で玉砕するから集まるように」
との指示を座間味島の村民に伝え、村民はこれを軍の玉砕(自決)命令であると受け止めたことを認めるに至った。また、この指示は「軍の命令」ととれるかのような形で村内に伝えられたことも認めるに至った(以上、原告準備書面(5)5~7頁)。

ただし、原告らは、上記指示は助役ら座間味村幹部が行ったもので、「軍命令」「梅澤隊長命令」ではなかったと主張する。

原告らは、その根拠として、
「二十五日に、道すがら助役に会うと“これから軍に、自決用の武器をもらいに行くから君も来なさい”と誘われた。この時点で村人たちは、村幹部の命によって忠魂碑の前に集まっていたが、梅沢少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と、武器提供を断った」
との神戸新聞掲載の宮城初枝氏の談話及び同新聞に紹介された宮村幸延氏の話を引用している。しかし、前記のとおり、初枝氏の上記談話は、「母の遺したもの」などに掲載されている初枝氏の手記の記載内容に反するものであり、幸延氏の話も同氏への取材にもとづくものとはいえない。

(2)すでに被告準備書面(5)において詳述したとおり、
沖縄戦において日本軍は、「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍官民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、米軍が上陸した場合には村民とともに玉砕する方針を採っており、秘密保持のため、村民に対しても米軍の捕虜となることを禁じ、米軍の捕虜となった場合は女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺されるなどと脅し、いざというときは玉砕(自決)するよう言い渡していたものである。

座間味島では、1942年(昭和17年)1月から太平洋戦争開始記念日である毎月8日の「大詔奉戴日」に、忠魂碑前に村民が集められ、「君が代」を歌い、開戦の詔勅を読み上げ、戦死者の英霊を讃える儀式を行ったが、海上挺進戦隊第一大隊(梅澤隊長)と海上挺進基地第一大隊(小沢義廣隊長)が駐留することになった1944年(昭和19年)9月10日以降は、村民は日本軍や村長・助役(防衛隊長兼兵事主任)らから戦時下の日本国民としての「あるべき心得」を教えられ、
「鬼畜である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される。その前に玉砕すべし」
と指示されていた(甲B5「母の遺したもの」97~98頁。海上挺進隊の基地化について同161頁以下)。また、上記駐留開始直後、小沢隊長は座間味島の浜辺に島の青年団を集合させ、米軍が上陸したら耳や鼻を切られるなどの虐待をされ、女は乱暴されるから自決するよう指示している(乙41)。

前記のとおり、座間味島では、1945年(昭和20年)3月25日の夜に、米軍の上陸を目前にして、米軍の艦砲射撃のなか、防衛隊長である助役の指示により、防衛隊員が伝令として、玉砕(自決)のため忠魂碑前に集合するよう村民に伝達して回り、その結果集団自決に至ったものであるが、軍は、軍官民共生共死の一体化の方針のもと、いざというときは玉砕するようあらかじめ村民に指示しており、軍の部隊である防衛隊の隊長であり兵事主任でもある助役が、自決命令が出たことを防衛隊員から村民に伝えさせ、自決のため集合させたことは明らかであり、この自決命令は軍の命令にほかならない。村民たちが軍の自決命令が出たと認識していたことは前記のとおりである。

また、村民に自決のために手榴弾が渡されているが、手榴弾は貴重な武器であり、軍(=隊長)の承認なしに村民に渡されることはないと考えられ、実際にも、手榴弾は防衛隊員その他の兵士から渡されている。

2 同第2(座間味島の《梅澤命令説》に関する被告主張に対する反論)について


(1)同2(県史の実質的修正について)について

原告らは、紀要(甲B14)末尾6行部分は原告梅澤が記した文ではなく、大城将保氏が書いたものであると主張する。しかし、同部分は原告梅澤の手記の後半部分が主観的記述であったので、手記の掲載にあたり後半部分をカットし、その代わりに末尾6行に原告梅澤の結論を加筆し付加したものである(乙45)。(なお、甲B10の神戸新聞掲載の大城将保氏の談話が本人への取材によるものでなく、事実に反するものであることは前記のとおりである。)

(2)同3(宮村幸延の『証言』(甲B8)について)について

『証言』が真実を記載したものでないことは、前記(第2,1(1))のとおりである。

(3)同4(宮城初枝証言について)について

原告らは、3月25日夜の原告梅澤と助役らとの会談について、宮城初枝氏の手記と原告梅澤の陳述書との食い違いは些末であると主張するが、重大な食い違いである。原告梅澤は陳述書で、
「決して自決するでない。共に頑張りましょう」
と述べたとしているが、初枝氏は手記において、原告梅澤は
「今晩は一応お帰りください。お帰りください」
とだけ述べたとしている(甲B5・39頁)。初枝氏は玉砕するという助役の言葉に驚いたというのであるから、梅澤隊長が「自決するでない」と言ったのであれば、当然このことを記憶し手記に記載しているはずである。また、初枝氏はこのときのことを心の重荷として記憶し続けていたというものであるのに対し、原告梅澤は1980年(昭和55年)12月に初枝氏から告げられるまで、このときのことを覚えていなかったというのであるから(甲B5・262頁)、初枝氏の手記の記載に照らし原告梅澤の陳述書の記載は到底信用することはできない。

(4)同5(座間味村公式見解、住民手記、『自叙伝』について)について

ア 同(1)(宮村盛永『自叙伝』について)について

宮村盛永氏が梅澤隊長の自決命令があったとしていることは、昭和63年(1988年)11月18日付の座間味村村長の沖縄タイムスあて回答(乙21の1、正式な公文書)に、宮村盛永氏が部隊長命令があったと明言していると記載されていること、「自叙伝」(乙28)に
「今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着替えて集合しなさいとの事であった」(71頁)
との記載があること(息子の盛秀の言葉として「玉砕せよとの命令があるから」と記載されていることから、命令とは盛秀の命令ではなく軍の命令であることが明らかである)、「自叙伝」が詳細を参照するよう指摘している「地方自治七周年記念誌」(乙29)に、
「夕刻に至って部隊長よりの命によって住民は男女を問わず若い者は全員軍の戦闘に参加して最後まで戦い、また老人子供は全員忠魂碑の前において玉砕する様にとの事であった」(451頁)
と記載されていることから明らかである。

イ 同(2)(住民手記について)について

原告らは、玉砕命令があったとの住民の手記に命令の主体が記載されていないと指摘するが、軍が絶対権力を掌握していた座間味村において、「命令」は軍の命令以外にありえないものである。

また、原告らは、野田部隊長や、一軍曹、水谷少尉、一兵士などの住民への玉砕指示は梅澤隊長の自決命令があったことの根拠とはならないと主張するが、これらの事実は、慶良間諸島に駐留していた日本軍が、「軍官民共生共死の一体化」方針のもとに、米軍上陸時には玉砕するよう住民に指示していたことを示す証拠であり、軍の命令(梅澤隊長命令)が存在したことの根拠となるものである。

ウ 同(3)(座間味村公式見解について)について

原告らは、座間味村が集団自決を援護法の適用対象とするため部隊長命令を作出したので、部隊長命令を維持せざるをえないのだと主張するが、前記のとおり、集団自決が部隊長命令によるものであることは昭和20年(1945年)当時から村民の共通の認識であり、戦闘参加者処理要綱を決定する以前から集団自決はこれに該当するとされており、部隊長命令がなければ適用対象にできないと言われたから部隊長命令があったことにしたものでないことは明らかである。また、宮村幸延氏の厚生省への陳情は、上記処理要綱が決定された後に、適用年齢を14歳未満へ引き下げることについて行われたものである。したがって、原告らの主張は理由がない。

また、原告が指摘する本田靖春氏の「第一戦隊長の証言」(甲B26)記載の援護法申請に関する厚生省係官の発言等は、原告梅澤の手記をもとにしたものにすぎず、その内容は信用できない。

原告ら引用の神戸新聞記載の幸延氏の話も、幸延氏への取材によるものではなく、記者が友人である原告梅澤から聞いた幸延氏の話を記載したものにすぎない(前出)。


3 同第3(「鉄の暴風」と渡嘉敷島の《赤松命令神話》)について


(1)同2ないし7について

原告は、「鉄の暴風」に記述された赤松隊長による自決命令は、根拠の薄弱な噂ないし風説に基づくものであるとし、援護法適用以前にそのような「噂や風説が成立した理由」として縷々主張し、その前提として、「沖縄県史第10巻」(乙9)における徳平秀雄郵便局長、金城ナヘの手記、及び「沖縄県警察史第2巻」(甲B16)における安里喜順の手記、1971年(昭和46年)「潮」11月号(甲B17)における星雅彦のエッセイに基づいて、渡嘉敷島における集団自決は、赤松隊長の命令によるものではなく、村の責任者の協議により決定され、古波蔵村長の主導で自決に至ったものだとして、集団自決が発生したのは、主として古波蔵村長の責任であるかのように主張している(原告準備書面(5)24頁~27頁)。

しかし、渡嘉敷島における集団自決の前に、村の有力者の協議があり、古波蔵村長による演説があったとしても、その点を捉えて、集団自決が村の有力者や古波蔵村長によって決定されたなどということには全くならない。

前記のとおり、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)3月20日に、赤松隊長の命令によって集められた20数名の住民に対して、赤松隊の兵器軍曹から、手榴弾を2個ずつ配り、
「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」
と訓示して、あらかじめ隊長による自決命令がなされている。また、米軍が渡嘉敷島に上陸した同年3月27日には、赤松隊長から兵事主任に対し、
「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」
という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が住民に伝えられ、住民が同命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まると、翌3月28日、村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えられ、軍の正規兵である防衛隊員が手榴弾を持ち込んで住民に配り、集団自決が行われたのである。したがって、村長ら有力者による協議および古波蔵村長による演説等があったとしても、それは軍(赤松隊長)による自決命令の伝達にすぎず、古波蔵村長らの主導によるものなどでは全くない。

(2)同8(「ある神話の背景」が語る赤松命令形成の背景)について

原告は、古波蔵村長が集団自決の音頭を取っていながら生き残った村長としての責任を軽減するために、存在しない赤松隊長による自決命令を生み出したと解するのが合理的であると主張する(原告準備書面(5)29頁~32頁)。

しかし、前記のように、古波蔵村長が住民に対して演説を行っていたとしても、それは軍(赤松隊長)による自決命令の伝達にすぎず、古波蔵村長が存在しない自決命令を生み出したなどという原告の主張は誤りである。

(3)同10(上原正稔「沖縄戦ショウダウン」)について

原告は、「沖縄戦ショウダウン」(甲B44)が琉球新報に掲載されていたことが、赤松命令説がもはや沖縄でも虚偽であることが広く認識されていることを意味していると主張する。

この「沖縄戦ショウダウン」には、
「赤松隊長は悪人ではない、それどころか立派な人だった」(金城武則)、
「村の人で赤松さんのことを悪くいうものはいないでしょう」(大城良平)、
「赤松嘉次さんは人間の鑑です」(安里喜順(※1))、
「尊敬している。嘘の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」(知念朝睦(※2))
という赤松隊長を賛美する住民らの発言が多数引用されている。
【引用者註】(※1)当時駐在所巡査として部隊から村長らへの命令伝達者。(※2)当時赤松隊長(大尉)の副官で少尉

しかし、赤松隊長は、渡嘉敷島において住民を虐殺している。米軍が投降勧告のために、伊江島から移送された住民6名を西山陣地に送ったところ、赤松隊長は、これを捕らえて処刑し(乙8・411頁、乙13・200~201頁)、投降を呼びかけに来た少年2人を処刑し(乙8・411頁)、国民学校の訓導(教頭)であり防衛隊員であった大城徳安氏を、家族を心配して軍の持ち場を離れたということだけで処刑したことが明らかになっている(乙8・411頁、乙9・693頁)。このように、赤松隊長は、罪のない住民を虐殺した人物であるにもかかわらず、「沖縄戦ショウダウン」に引用されている住民らは、赤松隊長を「立派な人」「悪くいう人はいない」「人間の鑑だ」などと一方的に評価している。

「沖縄戦ショウダウン」は、このように赤松隊長を一方的に評価している者の証言だけから執筆されたものであって信用性がなく、これにより、赤松命令説が沖縄でも虚偽であることが広く認識されているとはいえない。

4 同第4(渡嘉敷島の≪赤松命令説≫に関する被告主張に対する反論)について


(1)同1(手榴弾配布について)について


ア 原告は、
「3月20日、21日は、第一次戦闘配備計画作業完了により、戦隊の各隊は休養日に充て、戦隊長は村民の労を慰うために村長以下各指導者と会食している(甲B19・7頁)」
として、
「このような日に戦隊が17才未満の少年と村役場職員を集めて手榴弾を配り、自決命令を下すことはあり得ない」
などと主張する。

しかし、まず富山証言は、
「島がやられる2、3日前だったから、恐らく3月20日ごろだったか」(乙12)
と証言しており、「3月20日」と断定しているわけではない。そして仮に3月20日、21日が戦隊の休養日だったとしても、「兵器軍曹と呼ばれる下士官」が、役場に来て、訓示するということは十分考えられるのであり(むしろ休養日であったからこそ行えたとも考えられる)、戦隊が自決命令を下すことはありえない、などは全くいえない。

イ また原告は、日本軍は渡嘉敷での地上戦を予想しておらず、
渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も、渡嘉敷島への米軍の上陸を全く予想していなかったので、米軍の上陸を予想しない赤松部隊が米軍の上陸した場合の戦闘に備えて17才未満の少年や役場職員に手榴弾を配布する必要がない、と主張するようである。

しかし、安仁屋意見書(乙11・155頁)にあるとおり、
「第32軍は、慶良間諸島について米軍とは全く違った戦略的判断をしていた。慶良間諸島は地形の険しい島々で飛行場に適する平地もないから、米軍が沖縄本島攻略後に二次的に上陸することはあっても、沖縄本島上陸に先立って攻撃を受けることはないと考えた」
だけであり、仮に日本軍の想定通り、米軍が沖縄本島に上陸し、その上陸船舶団に対し、背後から渡嘉敷の第3戦隊が海上特攻を行って、「玉砕」した場合、米軍が海上特攻の拠点地を攻撃するために渡嘉敷島に上陸することは当然考えられるのであり、その場合に備えて住民に
「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残り1発で自決せよ」
と訓示することは、何ら不自然なことではない。

原告が「富山証言は荒唐無稽なデッチアゲそのものである」などと主張する根拠は全くない。

ウ さらに原告は、手榴弾が軍の厳重な管理の下に置かれていなかったとも主張するようである。

しかし、原告が例として挙げる住民の証言は、
「義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすんで手榴弾を2個持ってきた」
という、わずか1人のそれも盗んだとする者とは別の人間の証言にすぎず、また盗んだとする者が正規兵である防衛隊員(したがって手榴弾を盗まなくても正式に入手できる)であるという点からしても、手榴弾が軍の厳重な管理の下に置かれていなかったという根拠にはならない。

原告が主張の拠りどころとする陣中日誌(甲B19)の3月24日(米軍上陸3日前)の欄にも、
「戦隊長左の日命を下達す。陸軍中尉 田所秀彦、渡嘉敷警備隊長となり防衛隊並に連絡所勤務者を指揮し渡嘉敷村落の警備に任ずべし、敵機退去後舟艇の整備、器材修理、弾薬糧秣の集積、通信線の復旧、消火等全員夜を撤して行う。」
とあり、赤松隊が弾薬を厳重な管理の下に置いていたことがわかる。

また「赤松隊長は村民に手榴弾が渡ることを予想していなかった」などとも主張するが、渡嘉敷島において、軍を統率する最高責任者は赤松隊長であり、このような主張は言い逃れにすぎない。

エ 原告は、
「金城重明の話は、最初は、①自決命令にふれなかったが、次には、②自決命令があったことを明らかにし、その後、③村の指導者を通じて軍から命令が出たと時間が経過するにつれて変遷する」と主張する。

しかし、金城氏が「最初は、①自決命令にふれなかった」とする根拠というのは、曽野綾子氏が金城氏に取材した際に「(自決命令については)その当時は伺いませんでした」と証言していることだけであり、真実曽野氏が取材の際に金城氏から自決命令のことを聞かなかったとしても、それだけで話が「変遷」したということには全くならないうえ、金城氏は曽野氏に当初から自決命令のことを述べており(甲B18・155頁)、金城証言が変遷しているなどということは全くない。

(2) 同2(太田良博の『鉄の暴風』取材等について)について

原告は、太田良博氏と曽野綾子氏の沖縄タイムス紙上の論争を引用して、太田良博氏の「鉄の暴風」における赤松隊長の自決命令説は信用性がない、と主張する。

しかし、太田良博氏の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)、「沖縄戦に神話はない-『ある神話の背景』反論」(甲B40)に記載されているとおり、「鉄の暴風」は、沖縄タイムス社が体験者を集め、その人たちの話を記録して文章化したもので、渡嘉敷島に関する記録も、沖縄タイムス社が直接体験者を集めて記録したものである(乙23・223頁)。証言者の中には、渡嘉敷村長だった古波蔵惟好氏(乙23・224頁)や、国民学校の校長であった宇久真成氏(乙23・226頁~227頁)がおり、「鉄の暴風」は、伝聞に基づくものではなく、集団自決を直接体験した人々から取材し、執筆したものである。

そして太田良博氏が
「戦後二十年もたって曽野氏が赤松大尉やその隊員から聞いた話よりも、戦後間もなく戦争体験者から聞いた話によって書かれた『鉄の暴風』の記録がより確かであると信ずる」
とする(乙23・225頁)のももっともである。

そして太田良博氏が
「赤松大尉の命令、または暗黙の許可がなければ、手りゅう弾は住民の手に渡らなかったと考えるのが妥当である」(乙23・231頁、甲B40・4月13日分)
と指摘したのに対して、曽野氏が反論できなかったことも事実である。

以上のとおり、「鉄の暴風」の記述に信用性がないとはいえない。


(3) 同3(富山証言の信用性について)について

原告の富山証言に信用性がないという主張に理由がないことはすでに述べたとおりである。

原告は
「赤松隊長の自決命令説を維持するために登場したのが、富山証言であり、富山氏は3月20日の手榴弾配布と自決命令説を主張して、既に露見した自決命令の虚偽の隠蔽をはかったのである」などと主張する。

しかし富山氏が虚偽の事実を言う必要など全くない。原告の主張はその一点において失当というほかない。

繰り返しになるが、富山氏が
「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、改めて証言しておこうと思った」(乙12)
と、証言するとおりである。


第4 百人斬り競争事件上告審決定について


死者への敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立要件について、摘示された事実が全くの虚偽であることを要するとした東京高裁平成18年5月24日判決(乙27)に対する上告審において、最高裁判所は、平成18年12月22日、上告棄却決定及び上告不受理決定を行い(乙46)、上記東京高裁判決は確定した。

以上

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