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原告準備書面(7)全文2007年03月30日その4

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原告準備書面(7)全文2007年03月30日その4






第4 《梅澤命令説》に関する被告準備書面(7)の主張に対する反論


6 県史の実質的修正について


被告は準備書面(7)20頁で、『紀要』(甲B14)末尾6行部分は、大城自身がその意見を書いたものではなく、大城が「原告梅澤の結論を加筆し付加したものである」と述べる(被告準備書面(3)8頁では、当該部分は「原告梅澤の文」である旨との強引な主張があったが、さすがにその点は被告も撤回したようである。)。

しかし、当該部分は、大城が原告梅澤の結論的見解を聞いてそれを書いたものとも到底読めない。

当該部分を改めて引用すると、以下の通りである。
「以上により座間味島の『軍命令による集団自決』の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及び宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島の手記』が諸説の根源になって居ることがわかる。現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明して居る。(戦記終わり)」

この第1文目の内容は、大城が、この紀要の36頁から「一、“隊長命令説”について」と項目立てをして書いている解説(以下「冒頭解説」という)と完全に符合した内容である。

即ち、大城はこの冒頭解説において、様々な文献を自身が分析検討した結果として、
「“隊長命令説”には2種類の原資料が考えられる」(36頁下段9行目)、

「“隊長命令説”には2種の根拠資料が存在する」(37頁下段末尾2行)
と述べ、宮城初枝の手記『血塗られた座間味島・沖縄諸戦死闘の体験手記』と座間味村当局の『座間味戦記』をその2種の資料として挙げているのである(37頁下段)。

この一致一つ取っても、『紀要』末尾6行部分の第1文が、「原告梅澤の結論的見解」だとは、どう逆立ちしても読むことは出来ないはずである。何より、当事者として自身の体験した真実を手記等で訴えることに必死になっている原告梅澤が、一方で研究者の如き詳細な文献考証をし、その結果が大城と一致していたなどということがあろうか。この文献考証は、あくまで大城のものであり、原告梅澤のものではない。

結論として、『紀要』末尾第1文目は、大城の見解そのものであることは明らかである。

では、第2文目だけが「原告梅澤の結論的見解」かというと、それもあり得ない。そのように読むことを求めるのは到底無理というものである。

かといって、この部分が単に宮城初枝の一見解を中立的に紹介しているものとも読めないことは既に述べた通りである。即ち、上記文章は「(通説はこうなっているが、それに反して、その通説の根拠となった)決定的証人が『真相はこうだ』と明言している」との趣旨の結びをなしており、書き手が、決定的証人すなわち宮城初枝の語る「真相」を真実と考えて支持していると読まれて当然であり、実際、大城は紀要発表当時は、宮城初枝の説明及び原告梅澤の手記を真実と考えていたのである。

その証左として、大城は、『紀要』の冒頭解説の最後に下記のようにも書いている(38頁上段15行目)。
「いずれにしても、従来の“隊長命令説”は現地住民の証言記録を資料として記述されてきたのである。これに対し、一方の当事者である梅澤氏から“異議申立て”がある以上、われわれはこれを真摯に受け止め、史実を解明する資料として役立てたいと考えるものである。以下に同氏の手記を掲載させていただき、筆者の当面の責をはたしたいと思う。」

大城は、原告梅澤の“異議申立て”に十分な真実性や説得力を認めたからこそ、「真摯に受け止め」ているのであり、「史実を解明する資料として役立」つものと評価したのである。

尚、これに至る過程については既に原告準備書面(2)8頁以下でも一部指摘したが、重要なので再度述べる。即ち、この昭和61年3月の『紀要』への原告梅澤手記を含む大城のリポートの掲載は、『沖縄県史第10巻』記載の《梅澤命令説》の訂正を求めた原告梅澤に対し、大城が昭和60年10月に親書(甲B25の1)をもって
「当編集所では、毎年、『沖縄史料編集所紀要』を発行しており、県史とほぼ同範囲内(公共図書館、県機関、研究所、研究者など)に配布しております。したがって、もし、県史の記述に重要な事実誤認があり、そのため、関係者に多大なご迷惑をおかけする場合などには、同所に論文や記事を掲載して県史の記述を修正し、研究者およびマスコミ、関係者等に周知徹底することが可能であります。

今回の貴殿のご要望についても、もし責任者(解決執筆者・大城)がその必要性を認めるのであれば、同書にレポートを発表するのが最も現実的で確実な解決方法だと思われます。
(中略)

したがって、今回の場合も、宮城さんが前記の手記を修正する手記を発表されるか、あるいは貴殿の立場からより詳細な手記(新資料)を発表されるか、いずれにしても歴史資料として公認できる根拠資料を示されることが最も望ましい解決方法だと思われます。それにもとずいて(原文ママ)大城が修正記事を書くのであれば、編集所としては『紀要』の紙面を提供する用意があります。(下線部は原告ら代理人)」

と伝えたため、原告梅澤が手記を大城(沖縄県立沖縄史料編集所)に寄せ、それを受けて、大城が行ったものであった。

要するに大城は、同人自身の言葉を借りれば、《梅澤命令説》という「県史の」「重要な事実誤認」について、「責任者」として「修正」と「周知徹底」の「必要性を認め」て、原告梅澤の「詳細な手記」に「基づいて」、『紀要』に「修正記事を書」いて、実質的に「県史の記述を修正し」たのであった。

当時持っていた誠実な調査研究の姿勢、原告梅澤の名誉への配慮などを突然に捨て去り、神戸新聞に寄せたコメントはもとより、自身が責任をもって執筆発表したものまで否定し、その価値を貶める今般の大城の態度に接するとき、原告側としても、困惑と怒りを通り越して、悲しみと哀れを禁じ得ない。

7 宮村盛永『自叙伝』その他について


被告らは準備書面(7)21頁において、宮村盛永も《梅澤命令説》を認めている旨反論しているので、原告らは下記の通り再反論をする。

昭和63年の座間味村の沖縄タイムスへの回答(乙21の1)に宮村盛永が部隊長命令を認めている旨の記載はあるが、これは座間味村公式見解に沿った証言を宮村盛永がせざるを得ない状況に置かれていることが明らかな中のものであるし、内容も伝聞に過ぎないものであって、証拠価値は極めて乏しい。

宮村盛永が書き遺した『自叙伝』(乙28)には、下記のように助役で息子の盛秀の言葉として「玉砕せよとの命令があるから」との記載があることは認めるが、これは果たして《梅澤命令説》を裏づけるものであろうか(下線部は原告ら代理人)。
「二五日まで間断なく空襲、砲撃は敢行され座間味の山は殆ど焼き尽し、住居も又一軒づつ焼かれてゆく姿に、ただ茫然とするばかりであった。丁度午後九時頃、直が一人でやって来て
『お父さん敵は既に屋嘉比島に上陸した。明日は愈々座間味に上陸するから村の近い処で軍と共に家族全員玉砕しようではないか。』
と持ちかけたので皆同意して早速部落まで夜の道を急いだ。途中機関銃は頭をかすめてピュンピュン風を切る音がしたが、皆無神経のようになって何の恐怖も抱かず壕まで来た。早速盛秀が来て家族の事を尋ねた。その時
『今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着替えて集合しなさい』
との事であったので、早速組合の壕に行ったら満員で中に入ることは出来なかったが、いつの間に壕に入ったか政子、英樹、邦子、ヒロ子の姿が判らなくなった。」(以上、No.70、71部分)

上記の下線部の宮里盛秀の「今晩忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから」との言葉は、まだ出てもいない「命令」を盛秀が何故か予測していることや、既に縷々述べた通り盛永その他住民ら自ら「玉砕」の覚悟を固めつつあったことを考え合わせると、盛秀が「今晩、村として、住民の玉砕について、軍の許可をもらって、命令(あるいは指示)を出す(あるいは軍から出してもらう)。そして、自決のための武器をもらう」ということを意図していたものと読むのが相当であろう。

尚、村民が自ら「玉砕」の覚悟を固めつつあった点については、他にも、『母の遺したもの』(甲B5)においては、3月25日に宮里盛秀とともに原告梅澤に会いに行く直前、初枝が他の村民と下記のようなやり取りをした件が紹介されている(37、38頁)。
「私とてじっとしてはおれません。何度か艦艇を見に行っては戻りのくり返しで、道らしい道もないまま無造作に歩き続けていました。私と同じように、いても立ってもいられなくなったという宮平つる子さんとばったり出くわしました。
 つる子さんは覚悟を決めているらしく、
『初栄さん、私と一緒に死にましょうよ。どうせ助からないのよ』
と言ったので、私も同じことを考えていましたので、
『一緒に死にましょうね』
と、語気を強めて応えました。」

被告らは、1955(昭和30)年の『地方自治七周年記念誌』(乙29)に「部隊長による老人子供への玉砕命令」が明記されており、宮村盛永がそれを支持しているとするが、前記『自叙伝』からすると、宮村盛永自身は、原告梅澤によるかかる命令を聞いていないことは明らかであり、そもそも「部隊長による玉砕命令があった」と断じることの出来る立場にはないことは明らかである。

何より、原告らが真実と主張する《盛秀助役命令説》においても、多くの村民が当該命令を軍あるいは部隊長からの命令と信じたことを否定するものではないし、矛盾もしないのである(原告準備書面(5)5頁)。宮城初枝が真実を公表するまでに村民により纏められたこの『地方自治七周年記念誌』において、《梅澤命令説》が書かれていることが直ちに真実を裏づけるものとはいえない。けだし、その根拠となったものこそが、宮城初枝が後に嘘であることを告白した証言だったからである。

8 住民の手記について


被告らは、その準備書面(7)21頁において、「軍が絶対権力を掌握していた座間味村において、『命令』は軍の命令以外にはありえない」との主張をしているが、極めて粗雑な議論であり、かつ、根拠のない断定である。村に軍が駐留していようとも、村幹部による命令ないし指示・指導も村民に対してあったことは、『母の遺したもの』他に明白であるし、一方、梅澤部隊は、米軍上陸前は戦闘準備に追われ、米軍の攻撃開始後には出撃基地が破壊されるなどしてその対応に忙殺されていたのであって、住民集団自決前後に、村民の動静の把握統制等を強力に行う余裕などなかったのが実情であった(甲B14・41頁等)。

また被告らは、「野田隊長や、一軍曹、水谷少尉、一兵士などの住民への玉砕指示も《梅澤命令説》の根拠となる」旨の主張もするが、前記のとおり、戦時下の日本国民としての「あるべき心得」の一つとして「鬼畜である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される。その前に玉砕すべし」との教えが軍民問わず広められていたのは前記の通りであって、野田隊長らの住民らへの「玉砕」の示唆も、それぞれ追い詰められた状況で、かかる教えが確認的に述べられたものに過ぎない。軍主導でもなく、命令でもないようなこれらのエピソードをもって、《梅澤命令説》の根拠などと被告らが強弁することの不当性は明白である。

また、後述するように、阿嘉島の野田隊長は、自決命令を出していないし、阿嘉島では集団自決そのものが発生していないのである。


第5 《赤松命令説》に関する被告準備書面(7)の主張に対する反論


1 照屋昇雄(元琉球政府援護課職員)証言について


被告らは『鉄の暴風』(乙2)は、沖縄タイムス社が、集団自決の経験者を集めて取材し、その証言を記録したという。

しかし、曽野綾子氏によれば、「太田氏が現実に取材したのは当時座間味村の助役の山城安次郎氏、南方から復員した宮平栄治氏である。宮平氏は事件当時南方にあり現場を見ていない。山城氏が目撃したのは渡嘉敷島でなく隣の座間味島の集団自決である(甲B18・50、51頁)。また宮平栄治氏は取材を受けた記憶がないという」(同51頁)。

そうすると、渡嘉敷島に関する『鉄の暴風』の資料は、直接体験者でない者からの伝聞証拠という形で、固定されたことは明らかである(同51頁)。

被告らは『鉄の暴風』に、赤松隊長の集団自決命令を裏付ける決定的な件として
「3月27日に地下壕で将校会議を開いたが、その時赤松大尉は
『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員を潔く自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している』
とし、これを聞いた沖縄出身の知念少尉は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した。」
という記載があることを指摘する。

引用者註:被告らが決定的な裏付けとしている?

しかしながら、曽野氏が昭和46年7月に那覇で知念元少尉に会った際、地下壕で将校会議があったのか質問したところ、知念元少尉は「地下壕はなかったし、集団自決を命じる将校会議が開かれた事実もない」と明確に否定している。知念元少尉はさらに「昭和45年まで沖縄の報道関係者から一切インタビューを受けたことがない」とも明言している(甲B18・112,113頁)。

集団自決命令を決定的に裏付ける地下壕も将校会議もなかったということになり、『鉄の暴風』は本人にインタビューせずに知念元少尉の経験を記載する程に杜撰なものである。そうであれば、赤松隊長の自決命令がなかったと言われるのは当然のことである。

また被告らは、『慶良間列島・渡嘉敷の戦闘概要』(乙10)に赤松隊長の自決命令の記載があるというが、曽野氏は『慶良間列島・渡嘉敷の戦闘概要』は『鉄の暴風』と酷似する表現、文章が多数見られ、偶然の一致ではあり得ないこと、『慶良間列島・渡嘉敷の戦闘概要』に引用した際のものと思われる崩し字が見られること、『鉄の暴風』の発行年月が早いこと(甲B18・48頁)、昭和20年3月27日の米軍上陸という重大な日を、同じく昭和20年3月26日と間違って記載することなどから、『慶良間列島・渡嘉敷の戦闘概要』が『鉄の暴風』の間違いを引写したに過ぎないと指摘している。

『鉄の暴風』の自決命令が信用出来ない以上、『慶良間列島・渡嘉敷の戦闘概要』に記載されている自決命令説も信用性がない(同49頁)。

戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用において集団自決者が特別に援護の対象となったのは、他の戦争被害者と異なり、自決命令があったことを前提とする。一般的に戦争の被害者ということだけでは特別な援護法の対象となり得ない。軍の活動に関与したり、あるいは軍を援助したり、軍により壕からの強制退去を求められたなどの特殊事情のある場合に戦闘協力者として援護の対象とされた。集団自決者については命令による自決とすることで、援護の対象とされたものである。集団自決の場合には当初から援護法の対象になっていたということはない。

集団自決者が最初から援護法の対象となっていたとするならば被告らはその根拠を明らかにすべきである。

被告らは、既に虚偽であることが明らかになった座間味島の自決命令の他に、今回は阿嘉島の野田隊長から、
「いざとなった時には玉砕するように命令があったと聞いていました」
とする大城昌子証言を持ち出して「自決命令の訓示」があったする。

しかし、大城昌子証言は自ら玉砕命令を受けたものではなく、他人から玉砕命令があったことを聞いたというものであり、単なる伝聞に過ぎない(しかも、玉砕命令を告げたのは、取材した当のインタビューアーである可能性もあり、風聞の域を出ない)。しかも証言はその後に、
「その頃の部落民にはそのようなことは関係ありません。ただ家族が顔を見合わせて早く死ななければ、とあせりの色をみせるだけで、考えることといえば、天皇陛下のことと死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです」
と続くのであり(乙9・730頁)、むしろ島民には自決命令の有無と関係なく自決しようとしていた固い決意が看取される(この点は、『母の遺したもの』に書かれた座間味島における初枝と宮平つる子とのやりとりや、盛永の『自叙伝』に描かれた自決の決意の形成過程と同種のものである)。文字通り、「命令なんてものは問題ではなかったわけです」ということを受け止めるべきである。

前記大城証言をもって、あくまで自決命令があったというのは、いかにも牽強付会の誹りを免れない。

座間味村には座間味島、阿嘉島、慶留間島が含まれる。そして阿嘉島では、集団自決は一件も発生しなかったことを県史が認めているのである(乙9・700頁)。

阿嘉島の中村仁勇は「野田隊長は住民に対する措置という点では立派だったと思います。26日の切り込みの晩、防衛隊の人たちが戦隊長のところへいって、『住民をどうしますか、みんな殺してしまいますか』と聞いたわけです。野田隊長は、『早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ』と指示したそうです。」と証言している(乙9・708頁)。

このような状況で自決命令が出るはずがない。

阿嘉島の中島フミは
「軍曹に殺してくれとお願いした。するとその人は『お前たちは心の底から死にたいとは思っていないから殺さない』といわれた」
と証言している(乙9・718頁上段)。

自決命令が出ていれば、殺してくれと頼まれて拒絶する理由はない。

阿嘉島の垣花武一は「その後公然と逃亡許可がおり、6月22日、野田隊長は『降伏したい者は山をおりてよし』という命令をだしたため、3分の2近くの者が小さい子供たちを連れて米軍の方に行きました」と証言している(乙9・725頁上段)。

野田隊長が予て自決命令を出したとすれば、この段階で逃亡許可を出すことはあり得ない。
以上の事実からすると、被告らが大城昌子証言を著しくねじ曲げて自決命令があったと強弁していることは明らかである。

2 手榴弾配布=軍命令説の破綻について


被告らは大江志乃夫や林博史の著書の記述に関して、両著者の感想に過ぎないとし、自決命令がなかったとは言えないとする。しかし、沖縄戦についての有力な作家である両著者が感想であっても、自決命令がなかったとの印象をもったことは重大である。

富山証言のいかがわしさは既に原告準備書面(2)41~44頁、原告準備書面(3)第2の2~9頁、原告準備書面(5)の第4の3(48頁以下)で強く批判したところからも明らかである。

更に、手榴弾についての富山真順の供述のいい加減さについては後述する。

3 『鉄の暴風』と渡嘉敷島の《赤松命令神話》)について


富山真順による手榴弾の3月20日配布時に命令がなされているという主張について、それ自体が虚偽であることは、原告準備書面(2)の41~44頁、原告準備書面(3)の第2の2~9頁、原告準備書面(5)の第4の3(48頁以下)で強く批判したところである。

被告らは、赤松隊長が住民を殺害した事実を取り上げて赤松を援護する者のみを取材したと『沖縄戦ショウダウン』を批判するが、これらの者の取材すら行わないで『鉄の暴風』、『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』『座間味村渡嘉敷村戦況報告』が作成され、沖縄の戦争に関する世論を形成していった事実こそ歪という他はない。

沖縄における新聞の発行部数は沖縄タイムスと琉球新報が各20万部、朝日新聞が800部、産経新聞が300部という現状がある。沖縄タイムスによる『鉄の暴風』によって沖縄における言論がいかに現実とかけ離れたものになったかは想像に難くない。それを端的に表すのが『沖縄戦ショウダウン』の記述である。

更に被告らは、休養日の手榴弾配布は不自然でないとか、米軍が沖縄本島攻略後に二次的に攻撃することがあっても沖縄本島上陸に先立って攻撃を受けることはないと考えただけであり、赤松部隊玉砕後の渡嘉敷島の攻撃が考えられるから、手榴弾を配って訓示することは不自然でないと主張する。

しかし、戦闘が起こりそうな場合に、直近の戦闘に対する用意の前にそれより遠い戦闘の準備をするということはあり得ない。特に赤松部隊は特攻隊であり、特攻後の住民のことを考慮していなかったことは知られている(甲B18・36頁)。

弾薬の管理、金城重明の供述の変遷、太田良博の供述については、既に前回の準備紙面で主張し尽しているので触れない。敢えて付言するならば、沖縄戦に関しては被害の大きさ、あるいは日本軍の残酷さ、戦争の悲惨さという意味ではどのような極端な話でも通るという雰囲気が沖縄戦を巡る記事には見られる。しかし、それは戦争の時に止まって未来に目を向けないことに他ならない。

赤松隊長による住民虐殺についても同じことが言える。例えば、渡嘉敷島の防衛隊員であった大城良平は赤松隊長の住民虐殺について以下のように述べている。

(1) 
「大城(徳安)先生は、具合が悪かったのです。何度逃げたか分かりません。防衛隊といえども軍隊の一員であるという自覚の全然ない人でした。逃げては捕らえられて、罰せられるのですが、ききめはありません」(乙9・781頁下段~782頁上段)。

「捕虜になられると、こちらの陣地や兵力が敵側にばれてしまう。軍隊にとっては大変迷惑な話です。敵につれ去られていって、4、5日してから帰ってくる。こういう事は明らかにスパイ行為をやっていると断定します」(同780頁下段)。

「その後また逃げて、とうとう斬られてしまいました」(同782頁上段)。

このような事情を、平時の感覚を前提に住民虐殺と呼ぶのは無理である。

(2)
「赤松隊長が自決を命令したという説がありますが、私はそうではないと思います。なにしろ赤松は自分の部下さえ指揮できない状態に来ていたのです。ではなぜ自決したか。くだけていえば、敵の捕虜になるより、いさぎよく死ぬべきということです。自発的にやったんだと思います。みんな喜んで手榴弾の信管を抜いていたといいます。結局、自決は住民みんなの自発的なものだということになります。」(同781頁上段)。

殺された大城安徳と同じ渡嘉敷島の人の言葉としてかみしめるべきではなかろうか。

4 手榴弾の不発について


従来、渡嘉敷島の集団自決に手榴弾が使用されたことから自決命令を根拠づけようとする試みが行われて来た。

ところが渡嘉敷島での集団自決では、手榴弾が爆発しなかったために死ねなかったという者が少なくない。住民も「不発のほうが多かったですねえ」という(甲B18・151頁)。そして『鉄の暴風』ではその時死んだのが329人、手榴弾の不発で死を免れたのが渡嘉敷部落が126人、阿波連部落が203人、前島部落民が7人(計336人)であった」とする(乙2・35頁)。

不発の方が多い手榴弾ということは現実の問題としてあり得ない。手榴弾が爆発しなかったのは何故か、これまで疑問が提起されなかったが、問題を含むので検討する。

曽野綾子氏は『ある神話の背景』で「住民の多くはやはり手榴弾の起爆法を知らなかったのだという」(甲B18・151頁)。
  • ア 手榴弾は安全ピンを抜いて手榴弾の信管を軍靴、鉄兜などの固いもので叩くことによって信管の中の撃針が雷管に衝撃を伝え、これで点火し、火薬が4~5秒導火した後で本体の火薬を誘爆させる。手榴弾は防水・密閉構造になっており、雨で濡れても使用出来、水中でも爆発する。日本軍の手榴弾は不発弾が極めて少なかったことで知られている。
  • イ 赤松隊長が自決命令を出して手榴弾を配ったのならば、赤松隊長やその部下から村民に手榴弾の操作方法が指導されていたはずである。自決のために配布しながら、手榴弾を爆発させる方法を教えないはずがないからである。しかし、手榴弾に不発が多かった事実は、手榴弾の操作方法を教えらないために爆発させることが出来なかった者が多数いたことを物語っている。

そして手榴弾の扱い方を教えられなかったということは、自決命令のために手榴弾が配布されたのではないことを示している。

手榴弾が爆発しなかったために死ねなかったという者には、手榴弾の操作方法を教えられなかった者と、操作方法は知っていたが、手榴弾が爆発しなかった者があるように思われる。

ア 例えば渡嘉敷村の古波藏惟好村長の場合は、
手榴弾の操作方法を知っていたと思われる者で手榴弾が爆発しなかった例である。古波藏村長(33才)は在郷軍人であったし(甲17-206)、現役の陸軍伍長であったというが(甲B20-223段目)、そうであれば手榴弾の操作方法を知っていたと思われる。

しかるに、古波藏村長は「私は防衛隊員からもらった手榴弾を持って、妻子、親戚を集めて、信管を抜いた。私の手榴弾は一向に発火しなかった。村長という立場の手まえ、立派に死んで見せようと、パカっと叩いては、ふところに入れるのですが、無駄にそれを繰り返すのみで死に切れない」という(乙9・768下段)。

古波藏村長の経歴からすると手榴弾の操作を知らなかったということは考えにくい(旧式の手榴弾の操作しか知らなかったという可能性もあるが)。にも拘らず、手榴弾が2発とも不発であったというのである。不発が極めて少なかったと言われる日本軍の手榴弾だから大きな疑問が残るのである。

イ 古波藏村長の義理の弟である徳平秀雄も
「自分が死ぬのを待っていた。何も考えなかった。村長はパカパカ叩いてはそれを自分のふところにいれていた。発火しない手榴弾に私はいらだち、村長から奪いとって、思い切り、樫の木の根っこに叩きつけるのですが、やっぱり爆発しません。周囲はどかんどかんと爆発音を発していました。」という(乙9・765下段)。徳平秀雄の場合は手榴弾の操作を知らなかったと思われる。

ウ 手榴弾が爆発しなかった場合、皆生き残ったわけではない。
手榴弾が爆発しないため他の方法で自決した者もいる。クワやかみそり、棒で殴って死なせたり、首を吊って死んだ人もいたのである。赤松隊長の自決命令が出たのであれば、手榴弾が爆発しなくても、なお強い意思で自決を決行したと思われる。

そうすると生き残った者で、自決命令が出たわけではないから死ななかったという者もいるのではないかと思われる。生き残ったことを弁解するために手榴弾が不発で死ねなかったという説明を選択した可能性はある。

このように、手榴弾の不発には色々と疑問が残ると言わざるをえない。

牧師の金城重明の場合は、「私たちは手に手に手榴弾のピンを抜き爆死を試みたが、前日からの雨で湿気をうけていたせいか、ほとんどが十分に発火せず、手榴弾の犠牲者はほとんどなかったといってよいくらいだ」という(甲B21・118頁)。

しかし、手榴弾は防水・密閉構造になっており雨で濡れても使用出来、水中でも爆発する。日本軍の手榴弾は前夜からの雨で爆発しないということはあり得ない。金城重明の場合は、操作方法を教えられていなかったため適切な起爆が出来なかったのであろう。それはとりもなおさず赤松隊長の自決命令がなかったことを明らかにしている。

富山真順の手榴弾の不発について
富山真順は、『ある神話の背景』(甲B18)や『沖縄戦を考える』(甲24)で昭和20年3月27,28日の自決命令説の虚偽が明らかになったことから、昭和20年3月20日に手榴弾の配布を持ち出して手榴弾の配布=自決命令説をこじつけようとした。その経過は原告準備書面(2)の第2(41~44頁)、原告準備書面(3)の第2の2~9(6~11頁)、原告準備書面(5)の第4の3(48~51頁)で強く批判した通りである。

更に手榴弾に関する富山真順の証言の信用性のなさを指摘する。
ア 富山真順は週刊朝日の中西記者に、
「自分も手榴弾2個をもっていました。近くの石でコツコツと叩いたのですが、はじめの一個は何秒たっても不発のまま。もう一個あるから、と思ってなげすてて残りのをコツコツとなったのですが、これも不発。おかげで死にそこないました。」後になってわかったことだが、手榴弾は、輸送中の安全を図ってネジをゆるめてあり、使うときネジを締めなければならなかったのだ。」という(甲B20・16、17頁)

イ しかし、これも明らかな虚偽である。
手榴弾は安全ピンを抜いた上で起爆筒を叩くことによって発火、爆発する。手榴弾を石でコツコツと叩いただけでは発火しないのである。富山真順が手榴弾を2個も爆発させることが出来なかったというのは、操作方法を間違っている可能性が高い。

ウ 更に手榴弾を、輸送中の安全を図ってネジを緩めるということはない。
使うときネジを締めなければならないというのも全くの虚偽である。ネジを緩めようが、締めていようが安全ピンがついている以上、安全性には何ら影響がないからである。安全ピンをつけて輸送輸送中に爆発した手榴弾の例は知られていない。安全のためにネジを緩めて輸送する必要は全くない。

輸送中にネジを緩めて、さらに使用する時にネジを締めるというためには特殊な工具(レンチ)を必要とする。戦線で直ちに使用に供される武器をレンチで締め直さなければ、使えないとすれば、そのような手榴弾は実戦に役に立たない。

仮に富山真順の言う通りネジを緩めたとすれば、自決のために手榴弾を配ったとき、ネジを締めたのを渡すか、締めて渡せというはずである。しかし、そのような事実は全く触れられていない。それは、自決命令がそもそも無かったということを意味している。

富山真順という人物は3月20日の手榴弾の配布という虚偽だけでなく、「手榴弾のネジをゆるめた」という虚偽すら捏造する人物なのである。

赤松隊長命令説が破綻した後でも、尚、命令の存在を強弁して3月20日の手榴弾配布を主張する富山真順のような人物がいるかと思えば、全く別の観点から自決命令に疑問を投げかける証言がある。

例えば、渡嘉敷女子青年団匿名座談会では、「私の弟が自分は死なんぞと手榴弾を捨てて逃げてしまった」と証言する(乙9・788頁)。

これは、集団自決が軍命令によるものであることを否定する証言といえよう。島民は、嫌だと思えば手榴弾を捨てることも出来たのである。集団自決は戦争に追い詰められた島民の究極の選択だったのであり、軍命令により強制されたものではないのである。

以上


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