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原告準備書面(7)全文2007年03月30日その3

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原告準備書面(7)全文2007年03月30日その3





第4 《梅澤命令説》に関する被告準備書面(7)の主張に対する反論


1 宮村幸延の『証言』について


宮村幸延の『証言』(甲8)については、被告らは、原告梅澤が同人を泥酔状態に陥れて書かせたか押印だけさせたかしたもので内容に真実性はない旨繰り返す(被告準備書面(7)6頁ないし9頁、13頁)。

確かに宮城晴美と座間味村公式見解はそのような事実認識をしているが(乙18、甲B5・269頁、乙21の2)、宮城晴美は、押印のみが宮村幸延のもので文章は原告梅澤のものと述べるのに対し、座間味村は文章も宮村幸延の自筆のものとしており、被告らが依拠する2つの調査結果も大きく食い違い混乱している。

原告梅澤が沖縄タイムス社新川らとの会談において、『証言』作成時点で宮村幸延が酔っていたことを認めていたとの被告らの指摘もあり、それは事実であるが、原告梅澤は同時に
「強い酒じゃない。ビールだけだから。正気は失っていないが、十分書けもするし話もするし、普通の状態です」
と、当時の宮村幸延の状態を語っており(乙43の2・6頁上から3、4行目)、「泥酔状態」などでは全くなかったことを明言している。

また、前記会談においては、宮村幸延に『証言』を公表しないでほしいと言われたことを原告梅澤も認めたとの被告らの指摘もあるが、原告梅澤が
「絶対公表しないから書いてくれ」
と懇請したというわけでは決してなく、公表については原告梅澤においても考えてみる、内地の人に知らせるくらいはしたいというのが自身の気持ちである旨原告梅澤は宮村幸延に述べたのであった(乙43の2・5頁下から5行目以下)。

そもそも、かような重大な事実について書面、それも『証言』と題するような書面を書いて渡せば、それが少なからぬ人の目に触れることもありうるということは、当然に想定されることであって、宮村幸延もそのようなことは認識済みで『証言』書面を作成交付したことは自明である。

被告らは、公表しないとの前提で宮村幸延は書いたのだから内容に信用性、真実性はない旨も述べるが、そのような論理も大いに疑問である。公表を予定するかしないかと、内容の信用性、真実性は直接関連しないのがむしろ通常である。素朴に考えて、原告梅澤が家族に見せるだけだとしても、真実でないこと、自身の兄を自決命令の主体であるというようなことを、敢えて宮村幸延が書くであろうか。

結局のところ、
「泥酔状態にされて書かされた」
というのは、宮村幸延と宮村文子夫婦が、神戸新聞昭和62年報道(甲B11)の後、村当局や一部の住民から激しい叱責を受けてやむなく作出した悲しい弁解であって、何の客観的根拠もないと断じざるを得ない。村当局や関係者の叱責については、甲B26号証『第一戦隊長の証言』においても、
「記事が出てから幸延さんは、村当局に叱責された」
と記され(307頁)、甲B第5号証『母の遺したもの』にも
「島は騒然となり、M・Y氏は座間味島遺族連合会会長を更迭され、母は村当局や一部の住民から厳しい批判の目を向けられるのである」
と語られている(270頁)。

被告らは、「梅澤命令説が真実で、盛秀命令説は虚偽なのだから」という結論を前提として、「宮里盛秀の弟の宮村幸延が『証言』書面のようなことを書くことはおよそありえない」との主旨を再三強調するが、前提部分がそもそも争いとなっているのであるから、このような主張は論理的に反論にすらなっていない。

むしろ、「およそありえない」程の内容が、敢えて宮村幸延により語られたのは、その内容が正に真実に他ならないからであると考えるのが合理的なのである。

2 沖縄タイムス社と原告梅澤の会談について


昭和63年12月22日の沖縄タイムス社新川らとの会談において原告梅澤が
「日本軍がやらんでもいい戦争をして、あれだけの迷惑をかけということは歴史の汚点です」、

「もう私はこの問題に関して一切やめます。タイムスとの間に何のわだかまりも作りたくない」
などの発言をしたとの被告らの主張(被告準備書面(7)9、10頁)は原告梅澤らも認めるところであるが、被告が準備書面(3)6頁で
「原告梅澤は、座間味村の前記公式見解を受け入れ、自決命令があったとされていることについて、座間味村や沖縄タイムス社に対し訂正等の要求を一切しないとしていた」
と主張する点は、否認する。

$font(b){録音反訳書(乙43)}を通読すれば一目瞭然であるが、原告梅澤の「自分は自決命令など絶対に出していない」という主張は会談中一貫しており(そして、現在まで全く揺らぎがない)、座間味村公式見解を受け入れる主旨の発言など欠片もしていないことは明らかである。

懸命に真実と真情を訴え、理をもって迫っても、「座間味村がこう言っているから」という理由で訂正に応じられないとの手応えのない返答を延々と(録音提出されている部分だけで2時間以上)繰り返す沖縄タイムス社側の姿勢に、やむなく原告梅澤は、諦めて矛を収める主旨の前記発言をしたものであるが、それも、座間味村に真実を公式に認めさせると村民の受けている援護法給付に支障が生じることとなり、それは本意ではないとの意味を述べたのであった(尚、「歴史の汚点」との部分も、自決命令とは全く関係のない文脈での発言である。)。

この会談の際は沖縄タイムス社側も、社として原告梅澤の言い分を受け入れはしなかったが、下記のような発言をして、原告梅澤の「自分は自決命令は出していない」との言い分に対し、十分に再調査、再検討の余地を認める姿勢や、個人的に共感と理解を示す態度を示して、原告梅澤を懐柔したという面もあった(乙43の2)。

  • 新川 「だからその時点で、梅沢隊長なり、あるいは軍なりが命令したのか、しなかったのか、その問題も一つあります」(24頁下から8行目以下)
  • 新川 「ただ一介の助役の誘導等でそういうことになるのか、ならないのか含めまして、徹底してこれはやらないといかんと思います」(25頁8行目以下)
  • 徳吉 「それは軍命令という場合に、梅沢さんの部隊のことだけじゃなくて、軍という組織化された一国の国の軍隊だと僕らは見るわけです」(27頁10行目以下)
  • 徳吉 (忠魂碑前集合命令について)「あの時点で助役といっても、助役ではなくて、あるいは梅沢さんの部隊長ではなくて、その背景には住民も軍人もその背景にあるのは、一国の軍国主義の・・・を受けてみな生活し、・・・としているわけですよ」(27頁21行目以下)
  • 新川 「個人的には、先ほど申し上げましたように、梅沢さんのお立場、お気持ち、よく分かるんですが」(29頁11行目以下)

また沖縄タイムス社は、座間味村公式見解を盾に取り、「座間味村がこう言っている以上は、出来ない」との論法で、社としての訂正謝罪を拒否したのであり、そのような姿勢の沖縄タイムス社を責めることは、座間味村にも迷惑を掛けることになると原告梅澤は考えて、
「もう私はこの問題に関して一切やめます。タイムスとの間に何のわだかまりも作りたくない」
と述べ、沖縄タイムス社への追及を収める表現をしたのであった。

即ち、座間味村の「本当のことは言えないんだよ、分かってくれよ」というような暗黙のメッセージが背後にある政治的立場を慮って(沖縄タイムス社がそうし向けたのであるが)、原告梅澤もその場において、大局に立った政治的判断をした上で、矛を収める物言いをしたということであった。

3 『母の遺したもの』と宮城初枝からの手紙について


被告らは、宮城初枝が原告梅澤に詫びたことが事実であるとしても、それは昭和20年3月25日の夜に助役らと原告梅澤に面会した際に原告梅澤から自決命令を受けていなかったということに過ぎず、だからといって座間味島において日本軍(梅澤隊長)の自決命令がなかったことになるものではないとの主張を続ける(被告準備書面(7)10頁。同16頁にもほぼ同旨の主張がある)。

では、いつ、どこで、どのような形で原告梅澤が住民に自決命令を下したというのか。この疑問に被告らは何も答えることが出来ない。

他の日本兵に関する全く異なる場面のエピソードを引いたり、「皇民化教育」、「軍官民共生共死の一体化の方針」、「軍の強制や関与」等々の言葉をマジックワードのように用いて問題点をずらし、無理矢理に《梅澤命令説》を正当化しようとしているのみである。

また、被告らは、昭和20年3月25日の夜に宮里盛秀助役や宮城初枝らが原告梅澤に面会した際に、原告梅澤が「自決してはならん」との言葉を述べたかどうかという些末な点に拘泥して、原告梅澤の陳述の信用性を云々するが(被告準備書面(7)10頁下から3行目以下、同20頁下から9行目以下)、その不当性は、原告第5準備書面14頁で指摘したところである。

この場面についての説明は、原告梅澤は昭和63年12月22日の沖縄タイムス社新川らとの会談においても行っており(乙43の2・10頁9行目以下)、その迫真性は着目されるべきである。
「部隊から、私のところに来て、敵が上陸する前夜に
『私たちはいよいよ死ぬ。死に方が分からない、どうして死んでいいか分からんから工事中の爆薬を爆破させてください。忠霊塔の前で。われわれはそのぐるりに集まるから一挙殺してくださいと、助けてくれ』
とこう言ってきた。私は手榴弾もノー、小榴弾もノー、全部はねつけたんです。私はね、
『何で死ぬ必要があるんだと、馬鹿なことを言うな』
と。追い返そうと思ったがね、さらに私は30分くらい本当に困ったよ。これはね、あのね、島の人は純真だねー。いったん覚悟したらね、もう死ぬ気でおるんだよ。私がそう言ったら、あっ部隊長がそう言ったから、もう死ぬのはやめようと、そういう人たちじゃないんだなあ。もう結局、村の当局の誘導でもって死ぬことを覚悟している。それでその時にもうすでに助役のあれでもって伝令が飛んで、忠霊塔の前に集まれ集まれとゆうて、どんどん集まり始めておると。だから今爆薬をくれと。それはですね、また戦闘が始まって、艦砲射撃も撃ち始めたから、結局早く散らさんと危ないといったら、やっと散っていったから私はホッとした。これで私は、もう助かると思ったら、死んじゃったんだな。」  

この場面では、30分程にもわたり問答がなされていたことが上記の原告梅澤の発言からも明らかになっている。このような会談の内容の再現について、関係者の説明の微妙な食い違いを取り上げて云々する被告らの姿勢は、無意味な揚げ足取り以外の何ものでもない。

4 中井記者の陳述書と神戸新聞報道について


中井記者の電話取材について

被告らは、神戸新聞報道(甲B9~11)に関し、中井記者の取材方法が電話による聴き取りであった点を、新聞記者としての基本を踏み外したものであるとする(被告準備書面(7)11頁)。

しかし、上記報道のための取材の殆どは、記者が何か現場や物を実際に観察してどうこうというものではなく(但し、宮村幸延作成の『証言』書面については、中井記者は原告梅澤から見せてもらっている。甲B34・4頁、乙43の2・6頁)、関係者からの聴き取りだったのであり、それが面談により行われたか電話により行われたかで本質的な違いはない。聞いた相手と、得たコメントに間違いがなければ、電話取材でも何ら問題はないはずであり、実際中井記者は、誤って別人に話を聞いたとか、得ていないコメントを記事にしたなどということは全くなかった(これだけの内容を、勝手に捏造して新聞に掲載することがありえようか。実際、その記事内容については、沖縄タイムス社を含め、どこからも抗議はなかったのである。)。

原告らとしては、逆に被告らに問いたい。被告らは、「太平洋戦争」の出版時あるいは「沖縄ノート」の執筆時に、さらには、《梅澤命令説》と《赤松命令説》の信憑性が諸研究の発表や出版物の公刊、報道等により大きく揺らいで現在に至るまでの間に、独自に、原告梅澤や故赤松大尉、宮城初枝その他集団自決の関係者らに対し、電話取材の一つでもよい、直接に接触して何らかの取材や事実確認を行ったのであろうか。

原告らの知るところでは、それらがなされた形跡は皆無である。そこに表れている被告らの姿勢こそが、文筆家あるいは出版社としての「基本を踏み外した」ものなのではなかろうか。

中井記者が原告梅澤の友人であるとの指摘に対して

昭和63年12月22日の沖縄タイムス社新川らとの会談において原告梅澤が、中井記者のことを「友達」と表現し、宮村幸延の『証言』を見せたらそれを記事(昭和62年記事)にした旨述べたことは事実である。

しかし、友人だから中立公正な立場で記事を書いたものではないというような 被告らの指摘(被告準備書面(7)11頁)は全く失当である。

旧来から中井記者と原告梅澤が友人関係にあって、それがために昭和60年、61年及び62年の神戸新聞記事が発表されたのではない。両人はこれら記事の発表前の取材で知り合い、昭和60年記事、昭和61年記事の発表の際に中井記者が原告梅澤の言い分を丹念に聞き、理解をしてくれたために、原告梅澤としては中井記者のことを信頼出来る知人と認識していた。そんな中、昭和62年に宮村幸延『証言』を入手した原告梅澤は中井記者にそれを見せたのであるが、そのことを、翌昭和63年の新川らとの会談において「友達の記者に見せた」と表現しただけのことであった。

上記の経緯からすると、実際は中井記者と原告梅澤は、友人関係というよりも、重要な記事発表の際の、取材者と取材相手という関係にあったというのが正確である。また、中井記者は記事発表当時、神戸新聞においては一取材記者としての立場に過ぎず、原告梅澤が神戸新聞上層部との人的関係があったということもない。言うまでもなく、記事の掲載は、編集長の権限である。

原告梅澤とその程度の関係に過ぎないのに、神戸新聞あるいは中井記者が、《梅澤命令説》の真偽という重大問題について、わざわざ「捏造記事」を連発する理由は全く考えられない。

関係者らに大きな反響を呼んだ一連の神戸新聞記事に対し、それが捏造などとの主張がなされたのは、本件訴訟における被告らの主張が初めてのことである。沖縄タイムス社でさえ、未だ抗議をした事実はない。被告らの主張は荒唐無稽なものと言わざるを得ない。

住民の忠魂碑前集合と梅澤と助役らの会談の前後関係

被告らは、自決の日の梅澤と宮里盛秀助役らの会談の時点で、住民らが忠魂碑前集合をしていた事実はないので、神戸新聞昭和60年記事(甲B9)の宮城初枝名のコメントは、初枝の行ったものではないと主張する(被告準備書面(7)11、12頁)。

確かに、『母の遺したもの』(甲B5・39頁、215頁)や『第一戦隊長の証言』(甲B26・305頁)においては、会談後に助役が忠魂碑前集合の指示を出したように書かれている。

しかし、これは、この時点で住民が忠魂碑前に集合し始めていたことと矛盾することではない。むしろ、昭和20年3月23日から25日夕刻までの激しい米軍の艦砲射撃や空襲により、村は破壊され、多数の村民が死に、攻撃がさらに激烈さを増す中で、村民の間に恐怖による錯乱や「もはやこれまで。死ぬならば家族と一緒に」という心境などが広がり、自発的に、あるいは村幹部の事前の指導やその場での呼び掛けにより、前記会談時には、住民らの玉砕のための忠魂碑前集合が一部始まっていたという状況もあったのではないかと推測できる。

いずれにしても、神戸新聞昭和60年記事(甲B9)の宮城初枝名のコメントは、助役らとともに原告梅澤を訪ねた5人のうち自分だけが生き残りであること、助役が「自決用の武器をもらいにいく」旨述べたこと、原告梅澤が武器提供を断ったことなど、『母の遺したもの』(甲B5)や初枝自身の手記(甲B32)で述べられる初枝の体験と十分に符合しており(昭和60年は『母の遺したもの』も発表されておらず、初枝の手記を中井記者が入手したこともない)、初枝自身の話であることは明らかである。

【引用者註】中井記者は当時彼が入手した材料に少しも矛盾しない記事を書いたかもしれない。電話取材もした。捏造したつもりもない。それなのに、宮城初枝が言うはずのないことを書いてしまった。

大城将保が神戸新聞の取材を否認している点について

沖縄県史料編集所主任専門員大城将保のコメントが掲載された神戸新聞昭和61年記事については、大城は、自分は神戸新聞の記者から一切取材を受けておらず、当該記事は捏造記事であると述べる(被告準備書面(7)12頁。乙44、45)。

しかしながら、神戸新聞社あるいは中井記者が、そのように悪質な「捏造記事」をでっち上げる必要性がどこにあるのか。この61年記事は、神戸新聞だけでなく同内容のものが東京新聞にも掲載されて(甲B5・267頁)、大きな反響を呼んだにも拘らず、捏造の事実が、この裁判に至るまで全くどこからも誰からも抗議も指摘もなされなかったのは何故なのか。疑問は尽きない。

大城は、記事の掲載紙の送付を受けていないため、最近までかかる61年記事のことを知らなかった旨述べるが、到底信じることは出来ない。原告代理人が神戸新聞社中井記者(当時)に確認したところ、掲載紙の送付はしていなかったとのことであるが(県という地方自治体の認識の誤りとそれが訂正されるということを報告する記事の掲載紙を、わざわざ発表したマスコミがその県の側に送るなどということは、なされないのが普通であろう)、かかる重要な報道をされた事実が、コメントをした張本人であり、また沖縄県史に関する公的な立場の専門家である大城の耳に20年間も入らないなどということが、果たしてあり得るであろうか(後述するように、62年記事は座間味村で大問題になっていたことは、『第1戦隊長の証言』に詳しい)。

昭和63年沖縄タイムス社新川らと原告梅澤の会談でも、沖縄タイムス社が大城と話し合いをした旨新川が述べている(乙43の2・14頁)。そのことからしても、昭和60年代、沖縄タイムス社と大城が、《梅澤命令説》の訂正問題を巡って情報交換をしていないことはありえない。61年記事には、大城だけでなく沖縄タイム社牧志の「調査不足があった」とのコメントが掲載されたことからして、61年記事を受けて、大城と沖縄タイムス社の間でも当然に連絡を取り合う状況はあったものと推測される。

被告らは、大城が
「初枝氏の話を聞いても隊長命令はなかったと認識したことはなかったので」
という理由をもって、この昭和61年神戸新聞記事は信用出来ないとの反論もしているが、原告側はその理由部分をそもそも争っているのであり、被告のこの主張は論理的反駁になっていない。「あり得ないから、信用出来ない」というだけの、内容空疎な弁明である。

神戸新聞昭和62年記事について

被告らは、神戸新聞昭和62年記事については、記事の体裁を昭和60年記事、61年記事と比較すると、Aさん(宮村幸延)の談話をもとにしたものではなく原告梅澤からの伝聞を記事にしたものであることは明らかであるなどと指摘する(被告準備書面(7)13頁)。

しかし、これも強引で不自然な解釈である。記者が直接取った談話が、記事本文中に使われることも全く珍しいことではない。

宮村幸延は、『証言』書面を書いただけでなく、自らコメントを出し報道に協力したからこそ、先にも根拠資料を引用したとおり、村当局や関係者に激しく叱責されたのである(甲B26『第一戦隊長の証言』307頁、甲B5『母の遺したもの』270頁)。

被告らは、場当たり的に無理な弁解を重ね、真実を曲げようとし続けていると指摘せざるを得ない。

尚、被告らは、「『証言』は原告梅澤が宮村幸延を騙して入手したものなのだから」という前提の下、「宮村幸延が『証言』書面の内容を肯定する話を記者にするはずがない」との主旨を強調するが、やはり、前提部分がそもそも争いとなっているのであるから、このような主張も全く反論になっていない。「結論をもって理由とする」類の詭弁である。

5 兵事主任の地位と「玉砕」の心得について


宮里盛秀助役が「防衛隊長」兼「兵事主任」であったことに関して

被告らは、実際上中心的に自決命令を下した宮里盛秀助役が「防衛隊長」兼「兵事主任」であったこと、自決命令を伝達した宮平恵達が「防衛隊員」であったことに着目し、自決命令の「軍命」性を根拠づけよう、あるいは印象づけようとしているが、大いに問題である。

即ち、被告らは、被告準備書面(7)19頁下から5行目以下では「軍の部隊である防衛隊の隊長であり兵事主任である助役が、自決命令が出たことを防衛隊員から村民に伝えさせ」と述べ、同16頁7行目以下では「助役(兵事主任兼防衛隊長)は伝令(日本軍の正規兵である防衛隊員)」を通じて自決のために忠魂碑前に集まるよう住民に指示したものであると述べる(下線部は原告ら代理人。その他同18頁5行目以下等でも、「防衛隊長」及び「防衛隊員」という言葉が意図的に使用されている)。

しかし、そもそも防衛隊が「軍の部隊」であるとか、防衛隊員が「日本軍の正規兵である」というのは、全く誤った認識である。また、兵事主任も軍の役職ではない。

まず、防衛隊については、『母の遺したもの』(甲B5)の下記のように正確な説明がなされている(197、198頁)。
「さて、昭和20(1945)年1月3日、日本軍の来島以来、陣地構築と漁労に従事していた座間味島の16歳から45歳までの男性たちが『防衛隊』として再編成され、(中略)この防衛隊隊員や女子青年の徴用は、前述したように義勇隊の性格を帯びたもので、法的には何に根拠のないものであった。(中略)隊員になった男性たちは、毎朝基地隊の兵士たちとともに点呼を受けたあと、壕堀りや壕内の坑木の切り出しを行い、夕刻の点呼まできつい労働に従事させられた。」

当時の座間味島での防衛隊は、法的根拠のない義勇隊、即ち軍に協力する(あるいは協力させられる)民間人であり、その活動内容も戦闘行為ではなかった。防衛隊は、「軍の部隊」と呼べるものではなく、「日本軍の正規兵」などでは到底なかった。「軍」の組織でもなく、「正規」でもなく、「兵」でもなかったのである。

次に、宮里盛秀助役が担っていたという「兵事主任」という役割は何か。これについても、『母の遺したもの』(甲B5)の下記のように正確な説明がなされている(212頁)。
「兵事主任は、村出身の在郷軍人のなかから村長が選任し、徴兵検査のための壮丁(徴兵適齢者)や現役入隊者の引率(いずれも那覇へ)、兵籍簿の整理、召集令状の伝達など、那覇にある連隊区司令部の下部機関としての役目があった。またその他にも、軍からの命令で勤労奉仕などの人員を確保したり、食糧の供出、住民の避難、集結と、すべて兵事主任の盛秀をとおして住民に伝えられ、実行された。」

即ち、「兵事主任」も軍隊内の職務ではなく、村の役職の一つに過ぎなかったのである。

実際、盛秀助役はあくまで村役場の立場であり、軍の一員として振る舞っていたわけではない。それが象徴的に表れているのが、『母の遺したもの』(甲B5)で述べられている、原告梅澤に助役らが面会を求めた場面である(214頁。下線部は原告ら代理人)。
「梅澤戦隊長の精神状態がおだやかではないところへ、5人は本部壕を訪ねてきた。助役の宮里盛秀は衛兵に『自分たちは役場のものです』と告げ、戦隊長への面会を強く申し入れた。しばらく待たされたうえで、やっと戦隊長が5人の前に現れた。」

以上により、実際上中心的に自決命令を下した宮里盛秀助役が「防衛隊長」兼「兵事主任」であったこと、自決命令を伝達した宮平恵達が「防衛隊員」であったことは、自決の軍命令性を何ら根拠づけるものではないことは明らかである。被告らが、防衛隊や兵事主任という役目について敢えて不正確あるいは曖昧な説明をしたり、軍命令性を印象づけようとしているのであれば、それは姑息な主張と言わざるを得ない。また、 盛秀が発し宮平恵達が伝えた命令が全て軍命令であったかのように被告らが述べるのも、全く失当である。

軍が住民に玉砕するよう言い渡していたとの点について

被告らは、座間味島では、昭和19年9月10日の日本軍の駐留後は軍により「米兵に捕まる前に、玉砕すべし」との心得の指導がなされたことを強調し、それを「軍による自決命令」の根拠とする(被告準備書面(7)18、19頁)。

確かに座間味島では、昭和17年1月から太平洋戦争開始記念日である毎月8日の「大詔奉戴日」に、忠魂碑前に村民が集められ、「君が代」を歌い、開戦の詔勅を読み上げ、戦死者の英霊を讃える儀式が行われており、その中で、戦時下の日本国民としての「あるべき心得」の一つとして
「鬼畜である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される。その前に玉砕すべし」
との教えがあったのは事実であると思われる。

これは、『母の遺したもの』に述べられているところの要約であるが(96ないし98頁)、重要なのは、そこに続けられている下記の説明である。
「指導的立場にあったのは、村長や助役、学校長、在郷軍人会の会員であり、昭和19年9月から駐留するようになった日本軍であった。」

即ち、昭和17年1月から昭和19年9月までの2年8か月もの間は、日本軍が島にいない中、村幹部らがいわば自発的に指導していたのであり(なお、その間は、座間味島では防衛隊は組織されておらず、盛秀助役は防衛隊長ではなかった)、日本軍が指導に加わったとしたとしても、昭和19年9月から翌20年3月までのわずか6か月間のみなのである。

このような「玉砕」の指導の主体や期間のみを取り上げても、後の自決命令が、「軍命令」あるいは「梅澤部隊長命令」とされることの不自然さが浮き彫りとなって来る。

またそもそも座間味島に駐留して来た梅澤部隊は、任務遂行上の必要から村民に協力は求めたものの、村民に対し、指導を徹底するとか軍命令を行き渡らせるなどという発想は殆ど持っていなかった。特に「玉砕」に関してはそうである(原告梅澤の手記によると、「島民は当時沖縄で最も愛国的な村民で誠心誠意の人達であった。皆一致団結して協力して戴いたので大いに感謝し私以下部隊は親睦に留意し非違行為は1件もなかった」(甲B14・40頁上段))。

村民からしても、急にやって来た軍隊(当時、部隊長の原告梅澤にしても27歳の若者である)の短期間の指導だけで、自決・玉砕をする決意が固まるわけはなく、むしろ、共に暮らす村の幹部らが長年にわたり指導をしたからこそ、いざというときには自決・玉砕をする覚悟が出来て行ったものと思われる。

具体的には、村民のリーダーである盛秀助役が、忠魂碑の建立に尽力し、「大詔奉戴日」の儀式を中心的に執り行い、戦時下の日本国民としての「あるべき心得」を村民らに指導して来たこと、そしてそれが彼の自決命令の決断に繋がったことは、『母の遺したもの』216頁にも述べられている。
「彼は、村の助役として、3年余りにわたって、『大詔奉戴日』の儀式を執り行い、住民の戦意高揚、天皇への忠誠心を指導してきた中心人物であった。
 追い詰められた住民がとるべき最後の手段として、盛秀は『玉砕』を選択したものと思われる。それは、各壕でそれぞれの家族単位でなく、全住民が集団で、忠魂碑の前で決行することに意味があったようだ。」

尚、座間味島において昭和19年9月の日本軍の駐留後、軍により「米兵に捕まる前に、玉砕すべし」との心得の指導がなされたことがあったとしても、それが「太平洋戦争」と「沖縄ノート」で述べられている《梅澤命令説》とは、懸け離れた事実であり、そのような「心得の指導」の有無は、そもそも本件訴訟の争点とはならないことも、念のため付言する。

また、被告らは、宮村文子が「小沢隊長」が
「アメリカ軍が上陸したら耳や鼻を切られ、女は乱暴されるから、自分で玉砕しなさいと言いました」
と述べている点(乙41)をも新たに軍命令の根拠としているが、宮村文子のかかる説明が真実であるとしても、その内容は《梅澤命令説》とは遠く離れた事実であり(原告梅澤は指示の主体ではなく、小沢隊長の言葉も「命令」とはとても言えないものである)、本件訴訟の中心争点とは殆ど無関係の事実である。
「上記のような『玉砕の心得』は座間味島に日本軍が来る前から日本軍が沖縄にも広めたのだから、結局日本軍が悪い」
というような議論も、《梅澤命令説》の真否が争点である本件訴訟においては全く不適切である。蛇足ではあるが、かかる玉砕の心得は、「日本軍が一方的に広めた」というより、実際のところ国全体で共有した心構えであり、軍だけでなく、政府や国会も同意し、国民も受け入れ、マスコミも喧伝したものだったのであって(その心得の内容が正しかったのかについては別論である)、被告らが「日本軍」を殊更に強調するのも正当とは思われない。


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