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原告準備書面(4)全文2006年9月1日

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原告準備書面(4)全文2006年9月1日





原告準備書面(4)
平成18年9月1日


第1 本書面の概要


本書面は、提訴前に絶版されていた『沖縄問題二十年』にかかる訴えを取り下げるとともに、『太平洋戦争』及び『沖縄ノート』の出版頒布にかかる不法行為の成立時期を、書籍や新聞記事等の公刊時期との関係において特定したうえ、第4で原告梅澤の補充陳述書(甲B33)に基づき、第5で神戸新聞の中井元記者の陳述書(甲B34)に基づき、なお《梅澤命令説》を真実であると強弁する被告準備書面(3)に対する反論を行い、第6で平成18年8月27日に産経新聞紙上に掲載された照屋昇雄元琉球政府職員の証言に基づいて《赤松命令説》の虚偽が決定的になったことを論じ、第7で、被告らが最後に依拠する座間味島での《忠魂碑前集合=軍命令説》と渡嘉敷島での《手榴弾配布=軍命令説》を徹底的に批判し、被告らの主張になんらの根拠のないことを明らかにするものである。

そして、逆境のなか、真実を明らかにした宮城初枝、宮村幸延、伊礼蓉子、照屋昇雄らが示した沖縄の良心を顕彰するものである。

第2 訴えの変更


被告らによれば、亡赤松元大尉が渡嘉敷島での集団自決を命じたとの虚偽をもってその名誉と人格を誹謗した本件書籍二『沖縄問題二十年』は、昭和49年に絶版されたとのことであり、今般原告らにおいてもその事実を確認することができた。

絶版となった経緯は詳らかにされていないが、その時期が《赤松命令説》の虚偽性を明らかにした曽野綾子著『ある神話の背景』が発刊された昭和48年の翌年であることから、『沖縄問題二十年』における《赤松命令説》の記述が事実に基づくものではないことを悟った著者らの良心的判断に基づくものであると察せられるところである。

思うに、家永三郎著『太平洋戦争』の初版本(甲B7)にあった渡嘉敷島集団自決《赤松命令説》の記述、すなわち、

「赤松隊長は、米軍の上陸に備えるため、島民に食糧を部隊に拠出して自殺せよと命じ」
との部分が削除・撤回されたのが昭和61年であったことと比較してみても、『沖縄問題二十年』の著者らによる絶版の措置は、「過則勿憚改」に習ったものと評価することができよう。

よって原告らは、本件書籍二『沖縄問題二十年』にかかる訴えを取下げ、請求の趣旨第1項を下記(A)のとおり、請求の趣旨第2項(2)を下記(B)のとおり変更する。


(A) 被告株式会社岩波書店は、別紙一記載の書籍及び別紙三記載の書籍を出版、販売又は頒布してはならない。

(B) 被告株式会社岩波書店は、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞及び日本経済新聞の各全国版に別紙六記載の謝罪広告を別紙六記載の掲載条件にて各一回掲載せよ。

第3 不法行為責任の発生時期について


1 真実性と相当性


座間味島での集団自決が原告梅澤の命令によるものだとする《梅澤命令説》も、渡嘉敷島での集団自決が亡赤松元大尉の命令によるものだとする《赤松命令説》も、いずれも虚構であったことは、すでに論じてきたところから明らかであるが、被告らがこれらを真実と誤信したことにつき相当な根拠が認められれば、不法行為責任が阻却される余地がある。

《梅澤命令説》ないし《赤松命令説》を真実と誤信することの相当性は、世に表れた関係者の証言等の「根拠」によって推移するものであるが、本件各書籍の出版頒布と「根拠」となるべき証言等を時系列にまとめたものが末尾添付の別表である。原告らは、これに基づいて本件各書籍の相当性につき、以下のとおり主張する。

2 本件書籍一『太平洋戦争』の場合


座間味島の集団自決にかかわる《梅澤命令説》は、宮城初枝が『家の光』に寄せた手記を唯一最大の根拠としていたが、昭和60年7月30日付神戸新聞(甲B9)に、宮城初枝が
「梅澤少佐らは、『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と、武器提供を断った」
とする供述が掲載された時点で、その根拠は失われ、相当性が揺らぐことになった。昭和62年4月18日付神戸新聞(甲B11)に宮村幸延の『証言』(甲B8)とインタビュー記事が掲載されたことによって、《梅澤命令説》の虚偽性が明らかとなり、これを真実と誤信する相当性は完全に失われることになった。そして平成12年に宮城晴美著『母が遺したもの』(甲B5)が出版されたことによって、その虚偽性は広く知られるようになった。

よって、《梅澤命令説》を記載した本件書籍一『太平洋戦争』(文庫版)の頒布については、平成14年に出版された当初から不法行為が成立する。

3 本件書籍三『沖縄ノート』の場合


渡嘉敷島での集団自決にかかる《赤松命令説》は、その発端となった『鉄の暴風』初版本の出版当時(昭和25年)から不確かな風説と伝聞に基づいて創作されたものであり、相当な根拠を欠くものであったが、昭和48年5月に曽野綾子著『ある神話の背景』が発行され、そのことが明らかにされた段階で、これを真実と信じる根拠は全く失われた。今般、渡嘉敷島においても援護法に基づく救済のために事実に反する赤松隊長の命令を創作したという元琉球政府職員の照屋昇雄の証言(甲B35)が世に出るに及んで、その虚偽性は決定的なものとなった。

よって《赤松命令説》に基づき赤松元隊長を「罪の巨塊」を犯した極悪人として描いた本件書籍三『沖縄ノート』は、出版された昭和45年当時から不法行為を構成する違法有責な著作物であったとする余地があるが、本件訴訟では、『ある神話の背景』が出版され、その相当性の欠如が明らかになった昭和48年5月以降に出版された第5刷以後の頒布につき、不法行為責任が生じるものとする。

第4 原告梅澤の補充陳述書


1 被告らは、平成18年6月2日付準備書面(3)において

原告梅澤がその陳述書(甲B1)で述べる事実関係に対して縷々反論を行っている。

しかしながら、それらはいずれも事実を捻じ曲げるものであり、原告梅澤の主張を裏付ける各証言が為された際の具体的状況、及びそれに裏打ちされた各証言の真摯性、迫真性を全く理解しない全く不当なものである。

2 宮村幸延の『証言』について


被告らは、上記『証言』(甲B8)は宮村幸延(以下「幸延」という。)が作成したものではないとか、原告梅澤が同行した2人の男に泡盛を飲まされ、泥酔状態で書かされた可能性があるなどとして原告梅澤の主張に疑問を投げかけているが、上記『証言』が作成された経緯は、原告梅澤が補充陳述書(甲B33)で極めて具体的に述べている通りであり、被告らの反論は全く理由がない。

(1) 合同慰霊祭が行われた昭和62年3月28日、
原告梅澤は集団自決に関する村の見解を尋ねるべく田中登村長に会ったが、補償問題を担当していた幸延に聞いてくれといわれ、やむなくその足で、幸延を訪ねていった。誰も同行せず、1人で行ったのである。もともと両名は面識があり、その日も再会を懐しんだという。

原告梅澤が訪問した理由を話すと、幸延は、突然原告梅澤に謝罪し、それまで抱え続けてきた胸のつかえを一気に取り去るように、援護法を適用するために軍命令という事実を作り出さなければならなかった経緯を切々と語った。そして
「こんなに島が裕福になったのは、梅澤さんのお蔭です。貴方がこの島の隊長であったことを誇りとしています。しかし無断で勝手にやったこと、本当に済みませんでした」
と、心からの真情を述べた。 

(2) 甲B8号証の『証言』は、以上の経緯の中で宮村幸延が述べたことを
文書にして欲しいと原告梅澤が依頼し、幸延自身が一言々々慎重に言葉を選んで作成したものである。決して原告梅澤の方で原稿を書き、幸延に押印だけさせたものでもなければ、泥酔状態にあった幸延に無理やり書かせたものでもない。原告梅澤が原稿を書いたのであれば、末尾宛名の「裕」の字を誤る筈がないし、幸延が泥酔状態であれば、筆跡に大きな乱れが生じる筈である。

(3) 当日、両名は杯を酌み交わして義兄弟の契りを交わし、
幸延の父盛永の遺訓にまで話は及んだのであった。宮村家は名門の軍人の一家であり、軍服姿の写真と多数の表彰状が飾られていた。原告梅澤は宮村家に約3時間滞在していた。

幸延がその後『証言』を覆すに至ったのは、何らかの大きな圧力が加わったとしか考えられない。

3 沖縄タイムス社との会談(昭和63年12月22日)について


被告らは、当該会談において原告梅澤が沖縄タイムス社に対し、『鉄の暴風』に掲載されていた自決命令の記事について訂正や謝罪要求をしないことを明言したなどと主張しているが、これも真実を捻じ曲げる不実なものといわざるをえない(以下、甲B33)。

(1) 原告梅澤は沖縄タイムス社に対し、昭和60年12月10日付の手紙で、
記事の訂正と謝罪文の要求をした(甲B27)。

これに対し、同社役員室長の牧志伸宏(以下「牧志」という。)から原告梅澤に、「再度、事の是非を究明し、貴殿の要求事項についてのご返事を差し上げたい」との回答が来た(甲B15の1及び2)。

その後、原告梅澤は、昭和63年11月1日、陸軍士官学校時代の同期生岩崎禮三(以下「岩崎」という。)に付き添って貰い沖縄タイムス社の大阪支社に赴き、幸延から得ていた前記『証言』を提示して、『鉄の暴風』の訂正と謝罪文の掲載を再度要求したところ、明らかに同社が動揺し、遂には同社の新川明(以下「新川」という。)が謝罪の内容を尋ねて来たため、原告梅澤において口述し、その内容を新川が書き取った(甲B28)。

(2) その後、原告梅澤は、昭和63年12月22日、
上記要求に対する回答ということで沖縄タイムス社大阪支社において新川ら3名と再度会談した(前回と同様、岩崎に立ち会って貰った。)。

そうしたところ、沖縄タイムス社は態度を一変させ、「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」との主張に固執して譲らないばかりか、「以後原告梅澤が沖縄タイムス社に対し謝罪要求をしない」とする内容の書面(甲B29の『覚え書』)を示し、それに押印するよう求めて来たものである(因みに、その書面には、既に沖縄タイムス社の社長の印鑑まで押してあった。)。

そのような不実なやり方に対し、原告梅澤が強く非難したところ、結局、具体的な材料を何も持たない沖縄タイムス社としては対応の術がなく、それ以上の説明は何もできなかった。そして、実際に具体的な証拠を提示して説明する原告梅澤に対し、最後は、応対した沖縄タイムス社の3名が揃って、原告梅澤が自決命令を出したものではないことを認め、非を詫びて謝罪し、間違いを訂正する旨約したものの、謝罪文の提出については即答を避けた。

原告梅澤は気持ちが治まらなかったが、同席した岩崎の諌めもあって、その日はそれ以上追及せずに帰ったものである。

(3) 被告らの主張は、以上の事実を都合良く捻じ曲げたものである。
もし被告らの主張するような経緯であれば、原告梅澤は沖縄タイムス社が用意していた前記『覚え書』(甲B29)に押印している筈である。

(4) なお、会談後間もなく、沖縄タイムス社から原告梅澤に
「『謝罪』要求について(回答)」と題する書面が送られて来た(甲B30)。結局謝罪を拒否する内容のものであったが、当該書類の日付は会談の2日前である「1988年12月20日」となっていた。しかしながら、会談の時には原告梅澤には一切提示されていない。

(5) 神戸新聞記事に掲載された沖縄タイムス社役員室長(当時)の
牧志伸宏の談話(甲B10)からうかがえるように、当時既に沖縄タイムス社は、《梅澤命令説》の真実性に疑問を抱いていたのであり、宮城初枝に続く幸延の証言の持つ意味は十分理解していたはずである。上記会談前後に沖縄タイムス社がみせた右往左往ともいうべき対応の乱れは、内部の動揺と対立の存在を端的に示すものであり、その後の座間味村公式見解なるものを楯にとってなされた硬直した対応の鉄面皮ぶりは、同社の政治性を如実に表しているといえ、真実を追究すべき報道機関の良心に悖るものといわざるをえない。

4 『母の遺したもの』と初枝からの手紙


被告らは、宮城晴美著『母の遺したもの』(甲B5)の中で「梅澤隊長による自決命令はなかった」と証言している宮城初枝(以下「初枝」という。)が、昭和38年4月に発行された『家の光』に投稿した手記において、「梅澤部隊長から自決命令があった」と述べていたことを理由に、『母の遺したもの』における上記初枝の証言の信用性に疑問を呈している。
しかしながら、このような見解は、証拠の持つ信用性の評価を誤っていることは一見して明らかであり、苦し紛れの強弁にすぎない。

(1) 『母の遺したもの』には、はっきりと
「(『家の光』に投稿した手記の)原稿をまとめるにあたり、『自決命令』についてどう記述するか、母はずいぶん悩んだ。」と書いてある(甲B5の254頁)。すなわち、初枝自身、『家の光』への投稿に際して、自らの投稿内容が真実に反していることを十二分に認識していたものである。

現に、昭和57年6月、原告梅澤が座間味島で初枝に再会した際、同女は、長年一人で抱え続けて来た苦しい胸の内を一気に吐き出すように、
「隊長は、自決してはならん、弾薬は支給しないと明言しました。そのことを知っている唯一の生き証人です。」※
と話し、自らの辛さを滲ませながら原告梅澤に何度も謝罪している(甲B33)。
※引用者註:この引用は梅澤陳述からの引用と思われる

(2) その翌月、原告梅澤の自宅には、初枝から、次のように切々と綴られた手紙が届いている(甲B31)。
真実の歴史を残すためには此れから私のやるべき事が残っております。
あの悪夢のような二十五日の晩のでき事は五人の中、私一人が生存しその内容を知り、語り伝えるための宿命だったかも知れません。
後、一人は生きていて欲しかったのでございます。
誰と話す事なく一人で悩んでいる訳でございます。
私の戦後は終っておりません。

今後、下谷さんが悲劇の座間味の本を再発行する事になりましたので好い機会ですので訂正させて頂き度いと思います。当時の島のふん囲気の軍命を出し、誰がも(誰もが)知れない真実を自分一人で知り乍ら、忠魂碑の前集合は住民にとっては軍命令と思いこんでいたのは事実でございます。

何時も私の心境は梅沢様に対して済まない気持でいっぱいでございました。しかし、村の方針に反する事はできませんでした。
お許し下さいませ すべてが戦争のでき事ですもの。

手紙を読み終えた原告梅澤は沖縄復興のために良心の呵責に苛まれてきた初枝の苦労を思い涙したという。 

その後、更に初枝から、自らの手で書き綴った手記の写しも送られて来た(甲B32)。そこには、昭和20年3月25日の出来事、即ち、初枝ら5人が部隊の壕に来たこと、村の助役が原告梅澤に対し自決のための弾薬を渡すよう申し出たこと、それに対して原告梅澤がはっきりと拒んだことが書き綴ってある。

(3) 以上に貫かれている初枝の心境、及び、それに基づく
「梅澤隊長の自決命令はなかった」との告白は、真実を知る者、それも、自らの証言で他人を「自決命令を下した張本人」に仕立て上げてしまったという深い心の傷を持つ者にしか表現出来ない真摯性と迫真性を有している。

最早如何なる弾劾も及ばない。「梅澤隊長の自決命令はなかった」とする初枝の各証言が最高度の信用性を有する証拠であることは、一片の疑問を差し挟む隙もない。

第5 中井和久記者の陳述書と神戸新聞報道


1 はじめに


被告らは、その準備書面(3)において、神戸新聞の昭和60年7月30日、昭和61年6月6日及び昭和62年4月18日の各朝刊に掲載された昭和20年の沖縄座間味村での集団自決に関する記事(甲B9ないし11)に掲載された関係者の談話について、同新聞による直接の取材がなかった、あるいは、同新聞の取材に対して当人はそのように話していないなどの主張をしている。

そこで原告ら代理人は、上記記事の取材・執筆をなした同新聞中井和久記者(当時)にその点を確認した。中井元記者は、十分な取材を重ね、談話を掲載した関係者には取材により直接話を聞いて記事を執筆したことを断言した(甲B34)。

以下、具体的に述べる。

2 沖縄タイムス社牧志伸宏に対する取材


被告らは、甲B第10号証の昭和61年の神戸新聞記事中の沖縄タイムス役員室長牧志伸宏の談話(「梅澤命令説などについては調査不足があったようである」)について、「神戸新聞記載のとおり牧志氏が述べたか疑わしい」と述べる(被告準備書面(3)2頁)。

しかし、中井元記者は、沖縄タイムスへの電話取材は確かに行い、記載のコメントも確かにもらったと述べている(甲B34・4頁)。

そして、この報道の内容の社会的歴史的重要性からしても、沖縄タイムスに対する影響力の大きさからしても、また、新聞記者の当然の職業倫理からしても、沖縄タイムス社の牧志のコメントを中井が捏造したとでもいうような被告らの主張は、全く真実に反することは明らかである。

敢えて言うまでもないが、もし、そのかかる捏造の事実があれば、当該記事が神戸新聞に掲載された段階で、沖縄タイムス社や牧志が強く抗議して大問題となったはずである。しかるに、沖縄タイムス社は、神戸新聞に抗議した形跡すらない。被告らの主張は荒唐無稽を通り越して滑稽ですらある。

3 宮城初枝の談話について


被告らは、甲B第9号証の昭和60年の神戸新聞記事中の宮城初枝の談話について、「同記事は、原告梅澤が神戸新聞の記者に働きかけて掲載させたものであり、上記初枝発言は原告梅澤の言い分をもとに掲載された疑いがある」などと主張する(被告準備書面(3)7頁)。

しかし、中井元記者は、宮城初枝への電話取材は、確かに、複数回行い、記事にした真実の話をしてもらったことを明言し、そのコメントをする際の宮城初枝のためらいや、宮城初枝から原告梅澤に対する強い罪の意識が伝わってきたことも記憶していると述べている(甲B34・3頁)。

そもそも神戸新聞が、原告梅澤だけの言い分をもとに、これだけ重大な報道をなし核心的な証言をなしている宮城初枝のコメントを勝手に作り出して掲載する理由など全く考えられない(もし、そのようなことがあれば当時から大問題になっていたはずである。)、被告らの指摘するような「疑い」が全く非現実なものであることは明白である。

4 沖縄県資料編集所主任専門員大城将保の談話について


被告らは、甲B第10号証の昭和61年の神戸新聞記事中の大城将保沖縄県資料編集所主任専門員の談話(「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」)について、「神戸新聞記載の大城将保氏のコメントは、大城氏への取材にもとづくものではない」などと主張する(被告準備書面(3)8頁)。

しかし、やはり神戸新聞の中井元記者は、大城への電話取材は確かに行い、記載のコメントも確かにもらったと述べている(甲B34・3、4頁)。

繰り返しになるが、神戸新聞あるいは中井元記者が、大城の談話を捏造するなどということは、ありえないし、そのようなことをわざわざなす合理的理由がない。

大城はこの談話の内容を否定していると被告らは述べるが、この記事の掲載後、大城あるいは沖縄県資料編集所から、この記事や談話について、神戸新聞に「このようなコメントはしていない」という主旨の抗議をしたという事実はない。ことは沖縄の歴史にかかわる重大事である、もし、記事が捏造ならば、大城ないし沖縄県資料編集所からの抗議がないことはありえない。

5 宮村幸延の談話について


被告らは、甲B第11号証の昭和62年の神戸新聞記事中の宮村幸延の談話(「米軍上陸時に、住民で組織する民間防衛隊の若者たちが擁護壁を回り、自決を呼びかけた事実はあるが、軍からの命令はなかった。戦後も窮状をきわめた村を救いたい一心で、歴史を『拡大解釈』することにした。戦後はじめて口を開いたが、これまで私自身の中で大きな葛藤があった」)にいて、「すべて原告梅澤からの取材にもとづくもので、宮村幸延氏に直接取材したものとは考えられない」と主張する(なお、宮村幸延の姓については、この訴訟では原告被告ともに再三「宮平」との記載がでてきているが、これはいずれも誤記であるので、原告準備書面の分は、ここで訂正する。原告幸延の姓は、戦前は「宮里」であり、戦後は改姓して「宮村」である)。

しかし、この点についても中井元記者は、宮村幸延への電話取材は確かに行い、記載の主旨のコメントも確かにもらったと述べている(甲B34・4、5頁)。

この記事は、記事中で「Aさん」とされている宮村幸延の「証言」が報道内容の核心であり、記事の意義は宮村幸延の証言に尽きるものであることは、一読して明らかであるが、そのような意味を持つ宮村幸延のコメントを、中井元記者が、直接の取材もせずに、あたかも当人が述べたかのような書きぶりで捏造したなどということが、常識的に考えられるであろうか。

そしてまた、宮村幸延にしても、この記事の掲載後、この記事や談話について、神戸新聞に「このようなコメントはしていない」との主旨の抗議をしたという事実は一切ないのである。

6 小括


以上述べたとおり、被告らは、神戸新聞の一連の報道について、不都合な部分には全て、「関係者はそのような取材はされていない」、「そのようなコメントはしていない」と述べてやみくもに否定を重ねるが、そこには確たる根拠は全くない。取材でコメントをした当事者らが一部談話内容を否定しているものも今ではあるようであるが、彼らが沖縄での激烈な政治的圧力や地域的しがらみ等から後でコメントを撤回せざるを得ないところに追い込まれていることは、容易に推測できる。

少し考えてみればわかることである。

神戸新聞の一連の報道は、歴史にかかわる重大事を扱うものであり、それまでの通説を覆すものである。当該記事が神戸新聞という有力な媒体に掲載されれば、渡嘉敷島でのそれにかかわる曽野綾子の『ある神話の背景』の際もそうであったように、喧々諤々の論争が巻き起こることは必至であった。しかも当時、沖縄集団自決をめぐる教科書記述をめぐっては政治闘争としての色彩の濃い家永三郎教科書裁判(第3次訴訟)が係争中でもあった。そのような状況のなか捏造した談話を掲載するなどありえないことは余りにも明らかである。

神戸新聞の取材や報道を全否定する被告らの主張は、無理に真実を捩じ曲げるものであり、何よりも、マスコミの公共的使命を果たすべく真実を探究し、このようなセンシティブな問題について論争を覚悟で記事掲載に踏み切った神戸新聞の報道姿勢を冒涜するものである。

第7 照屋昇雄元琉球政府職員の証言と赤松命令説の終焉


1 渡嘉敷島の集団自決については、

『鉄の暴風』(乙2)、『慶良間列島  渡嘉敷島の戦闘概要』(乙10)あるいはこれらを基に出版された多くの沖縄戦記に「赤松隊長の自決命令があった」との記載があった。

(1) 『鉄の暴風』(昭和25年出版)では、
「住民に対する赤松大尉の伝言として『米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう』ということも駐在巡査から伝えられた」(乙2・33頁)
とされ、

(2)
「恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた『こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから全員玉砕する』というのである。この悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わずかに5日目だった」(乙2・34頁)
とあり、
(3)
「日本軍が降伏してから分かったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌27日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」(乙2・36頁)
と記載された。

2 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(昭和28年頃作成と思われる)では、


「昭和20年3月28日午前10時頃、住民は軍の指示に従い、友軍陣地北方の盆地へ集ったが、島を占領した米軍は友軍陣地北方の約2、3百米の高地に陣地を構え、完全に包囲態勢を整え、迫撃砲をもって赤松陣地に迫り住民の集結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」(乙10・12頁)
と記載された。

3 『ある神話の背景』発行による赤松命令説の破綻


しかし、曽野綾子氏著作の『ある神話の背景』が出版(昭和48年5月30日)され、赤松元隊長の自決命令という神話の虚構性が暴露された。その結果、沖縄県史8 巻(乙8)(1971年〈昭和46年〉4月28日発行)では、
「赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた。」
と記載されていたものが、沖縄県史10巻(乙9) (1974 年〈昭和49年〉3月31日発行) では、渡嘉敷島について
「西山陣地の北方に行くと陣地外撤去を厳命された。手榴弾が配られた。どうして自決する羽目になったか知る者は居ないが、だれも命を惜しいと思うものはなかった。」(乙9・689~691頁)
と記載され自決命令が否定される内容となった。   

4 大城将保(嶋津与志)の『沖縄戦を考える』(昭和58年5 月15日発行)(甲B24・212,216 頁)は、

「曽野綾子氏は、それまで流布してきた赤松事件の『神話』に対して初めて怜悧な資料批判を加えて従来の説をくつがえした。今のところ曽野説をくつがえすだけの反証は出ていない。」
とし、その結果、赤松隊長命令が虚偽であるとの評価が定着するに至った。

5 自決命令説破綻後の動き


『ある神話の背景』の出版と大城将保(嶋津与志)の『沖縄戦を考える』の前記総括の後、赤松隊長の集団自決命令説に固執する者は、家永第3 次教科書裁判での沖縄出張尋問などを通じて、富山真順元兵事主任の昭和20年3月20日の手榴弾配布を主張し、手榴弾配布は自決命令と同じであるとして、否定された自決命令説の挽回を図り、これを支持する朝日新聞の記事(乙12)や沖縄県史通史編(乙13)もあったが、赤松隊長の自決命令が虚偽であることは今や一般に知られることとなったと言える。

しかし、何故、虚偽の自決命令が流布したのかについては、なお十分に明確になったとはいえない状況にあった。

6 琉球政府社会局援護課元職員照屋昇雄の新たな証言


平成18年8月27日付産経新聞に、渡嘉敷島の集団自決について戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄(82才・那覇市)が「遺族たちに戦傷病者遺族等援護法(以下援護法という)を適用するために、軍による命令ということにして自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は一人もいなかった」と証言したことが掲載された。

照屋元職員は、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務め、当時援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるために渡嘉敷島で聴き取りを実施した。同法では一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動したことにして「準軍属」扱いとすることを企図し、照屋氏らが赤松隊長が住民に自決を命じたとする書類を作成して、日本政府の厚生省に提出したことにより集団自決の犠牲者は、準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったというのである。

(1) 照屋元職員は、ここで「渡嘉敷島では聴き取りをするために1週間程滞在し、
100名以上から、話を聞いたが、集団自決が軍の命令だと証言した住民は一人もいなかった。」「なんとか、援護金を取らせようと調査し、厚生省の援護課に(琉球政府)の社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか」と頼んだ。」「厚生省に軍隊の隊長命令なら救うことが出来るといわれて、『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。」「住民はこのことを分かっていた。だから、どんな人が来ても(真相は)絶対言わなかった。」と語っている。

(2) 赤松隊長の同意の経緯と内容の詳細については、
自決を命じた『住民に告ぐ』という文書の存在が明らかではないため更なる調査の余地を残しているが、いずれにせよ当時の琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を努めた人物が渡嘉敷島の村民100人以上から聴き取りをしたが、軍の自決命令を証言した住民が一人も居なかったという事実は重大であり、虚偽の自決命令が援護申請のための方便として利用されたというのは、《赤松命令説》をめぐる論争を終焉させる決定的な事実である。

(3) 照屋元職員は、集団自決の実情について次のように証言する。
「民間人が招集して作った防衛隊員には手榴弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。隊長が(自決用の手榴弾を)渡したというのもうそ。座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬなら家族みんなで死のうという考えがあった。さらに軍国主義のうちてしやまいん、一人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣の島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、皆が自決していった」(甲B35)。

(4) 赤松隊長による自決命令は、援護法の申請のために
渡嘉敷村当局が敢えて虚偽を捏造したものだという原告らの主張に対し、被告らからは、『鉄の暴風』の出版された昭和25年には援護法の適用の問題は発生していないから、援護申請のために虚偽の捏造ということはあり得ないとの反論がされている。しかし、『鉄の暴風』出版前に、外地から帰還した者の家族の中で、ある家族は全滅、ある家族は生きているという事実にさらされた際、島に残っていた者はその責任を追求されることになり、その責任を回避するために軍命令によるものだとせざるをえず、それがいかにもありそうな風説として流布したものと理解することができる(甲B18・168頁)。照屋元職員が産経新聞に語った当時の実情を、戦後帰還した者に説明しても理解して貰えるわけがなかったのであろう。

(5) しかし、今回の照屋元職員の供述に照らすと、当時の女子青年団長であった
伊礼(旧姓古波藏)蓉子の以下の言葉の持つ意味は大きい(甲B2・220~221頁)。
「赤松さまのことが話題にのぼる度に、歪んで書かれた渡嘉敷村の戦記がすべて事実に反することを証明し、その誤解をとく役目を果たさせて戴いております。最後まで部隊と行動を共にして終戦を迎えましたが、その間、赤松さまの部隊の責任者としての御立派な行動は、私たちの敬服するところでした。(中略)村民に玉砕命令を下したとか、いろいろ風評はございますが、それは間違いで、あの時赤松様の冷静沈着な判断によって、むしろあれだけの村民が生きのびることができたのでと申しましても決して過言ではございません。ゆがめられた戦記を読んで赤松さまを誤解している一部の反戦青年の来島反対にあい、渡嘉敷島まで行かれなかったかことは私たちはじめ、渡嘉敷の村民は心から残念に思っております」

照屋元職員の証言は、伊礼蓉子と同じく、赤松隊長を虚偽の自決命令を出した極悪人のままに放置出来ないとするものであり、前述した座間味島の宮城初枝の証言と同じく沖縄の良心と受けとめるべきものである。

第7 忠魂碑前集合=軍命令説と手榴弾配布=軍命令説


1 被告らは、座間味島の集団自決にかかる《梅澤命令説》及び

渡嘉敷島の集団自決にかかる《赤松命令説》の直接的根拠を示すことができないままであるが、座間味島においては、忠魂碑前に集合するよう村民に指示があったことをもって、軍による集団自決命令の根拠だとしたり、渡嘉敷島においては、米軍上陸前になされた手榴弾の配布こそが軍命令の証拠だと強弁する。

2 忠魂碑前集合=軍命令説の破綻

忠魂碑前に集合せよとの指示は、原告梅澤とは全く関係なく出されたものであることは、宮城初枝の各証言ないし『母の遺したもの』をみれば明らかである。

初枝は、原告梅澤にあてた手紙のなかで、
「忠魂碑の前集合は住民にとっては軍命令と思いこんでいたのは事実でございます」
と村民の誤解を弁明している。

また、被告らは、宮村盛永の『自叙伝』(乙28)に
「忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから着物を着替えて集合しなさいとのことであった」
ことを引用し、これを短絡的に軍命令と結びつけようとする。しかし、当該記述の直前には、
「早速盛秀が来て家族の事を尋ねた」
とあり、玉砕命令を告げたのが盛秀であることが明らかになっている。

当時、座間味村の兵事主任兼助役であった盛秀は、宮村幸延が『証言』で自決命令を出した当人であるとした幸延の兄・盛秀その人であった。宮城初枝によれば、助役であった盛秀は、道すがら出会った初枝を誘い、玉砕するため原告梅澤に武器の提供を願い出て断られ、逆に「生き残るよう」説得されたのである。

宮村盛永の『自叙伝』には、盛秀らが「玉砕」の意思を固めていく過程が描かれており、宮村幸延の『証言』(甲B8)の内容が真実に合致していることを裏付けるものである。確かに宮村幸延は、集団自決当時座間味島にいなかった。しかし、『自叙伝』をまとめた父・盛永から、兄・盛秀の最後を含め、ことの一部始終を聞かされていたのである。  

被告らは、外にも、村民が玉砕のため忠魂碑前に集合した事実を含む供述の存在を指摘するが、それが軍命令とは全く関係のないものであることは、既に明らかになっている。

3 手榴弾配布=軍命令説の破綻


渡嘉敷島での《赤松命令説》について被告らが主張する軍命令の根拠は、詰まるところ、米軍上陸前の8月20日に手榴弾が配布されたという富山真順の証言に尽きるようである。

富山真順の証言が信用性に重大な疑問があり、その内容は真実であるとはいえないことは、既に原告準備書面(3)に主張したとおりである。そしてまた、仮に、それが真実だとしても、自決命令の根拠になりえないことも、そこで主張したとおりである。

被告大江健三郎と同じく、旧日本軍の残虐さを指弾し、終始沖縄の側にたつ姿勢を示してきた大江志及夫も、その著書『花栞の海辺から』(甲B36)に、手榴弾の配布があったことを前提にしながらも、「赤松隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる。」とする。

同様に林博史もその著書『沖縄戦と民衆』(甲B37)のなかで、3月20日の手榴弾配布があったという富山証言を何の留保もなく鵜呑みしながらも、「なお、赤松隊長から自決せよという形の自決命令はだされていないと考えられる」としている。

米軍上陸前の手榴弾の配布が、仮にそれが事実であったとしても、《赤松命令説》の根拠となりえないことは、これらの著作の記述からも明らかである。


以上

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