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原告準備書面(3)全文2006年6月9日

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原告準備書面(3)全文2006年6月9日
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原告準備書面(3)
平成18年6月9日

第1 はじめに


被告の準備書面(3)は、《軍の命令による集団自決》という命題にかかわる渡嘉敷島の《赤松命令説》と座間味島の《梅澤命令説》の虚構を明らかにした原告準備書面(2)に対する反論であり、あくまで《赤松命令説》及び《梅澤命令説》が歴史的真実だと強弁するものであるが、子細に読むと分かるように、むしろ、それは『ある神話の背景』と『母が遺したもの』によって白日のものとなった両説の虚構性を塗りつぶし、沖縄住民が見舞われた集団自決の悲劇を、あくまで「非人間的な日本軍」による残虐な犯罪との評価を押し通すべく詭弁を弄し、もって歴史を捏造せんとする人たちの存在とその手法を浮き彫りにしている。

例えば、座間味島の《梅澤命令説》については、これを聞いたとされていた唯一の証人である宮城初枝が、「命令を発したのは梅澤さんではない」という真実を告白し、その告白が『母の遺されたもの』に掲載されたことによって天下に明らかにされ、座間味村の公式見解であった《梅澤命令説》が援護法の適用を受けるためになされた方便であったことが明白になったにもかかわらず、被告らは、その座間味村の公式見解なるものを楯にとって尚も《梅澤命令説》が事実であるとの強弁を維持せんとしている。

すなわち、昭和63年11月18日付座間味村の回答によれば、
「真相を執筆し陳情書を作成した宮村盛永氏、当時の産業組合長、元村長、有力村会議員中村盛久がはっきり証言している」
というわけである。しかし、「はっきり証言している」という証言者の証言内容は、沖縄県史を含めどこにも記録されていない。とりわけ真相を執筆したとされる宮村盛永は、集団自決の実際を自筆の『自叙伝』に記述しているが、そこには、米軍上陸前から住民らが自発的に「米軍が上陸してきたら一緒に玉砕しよう」との意思を確認し合っていたことが克明に記述される一方、そこには軍の命令もそのことをうかがわせるような記述も一行もないのである(昭和63年小説新潮1月号『第一戦隊長の証言』・甲B-26)。

また、被告らは、座間味村の回答書に宮村幸延の証文が原告梅澤の強要によるかのごとき記載があることを取り上げ、これを云々するが、神戸新聞の中井和久記者は宮村幸延を取材し、
「米軍上陸時に、住民で組織する民間防衛隊の若者たちが避難壕を回り、自決を呼びかけた事実はあるが、軍からの命令はなかった。戦後も窮状をきわめた村を救いたい一心で、歴史を“拡大解釈”することにした。戦後初めて口を開いたが、これまで私自身の中で大きな葛藤があった」
とのコメントを昭和62年4月18日付神戸新聞に掲載しており、更に、その後に現地取材を行ったノンフィクション作家の本田靖春は宮村幸延にも取材し、同人が、原告梅澤に差し入れた証文について村当局から叱責を受け、
「当時、島にいなかったものがなぜ証言できるのか」
と糾弾されて一言もなかったと述べたことを記録している。座間味村に蔓延している真実をはばかる微妙な政治的雰囲気を伝える話である(甲B-26)。

いずれにしても、宮村盛永が作成した陳情書が、援護法の適用を受けるための方便であり、そのための政治的文書であったことは明らかであり、座間味村の公式見解なるものも、そうした政治的方便の上塗りでしかなく、宮村幸延の証文にかかる座間味村の見解も、村当局に瀰漫する政治的雰囲気を反映したものと推測されるのである。

歴史的事実が、そうした事実の裏付けのない政治的主張によって根拠づけられるものではないことは多弁を要さない。本件訴訟における真実性の立証は、事実に基づくものであるべきであり、ためにする政治的主張に基づくものであってはならない。《梅澤命令説》が事実だと強弁する被告らは検証に耐えうる事実を主張すべきである。

渡嘉敷島における《赤松命令説》に関し、昭和63年になって突如として登場する富山真順の新証言なるものも同様である。それまでさまざまなところで渡嘉敷島での集団自決や手榴弾について語りながら、一言も触れなかった
「3月20日、17才未満の青少年の非常招集、手榴弾2個配布、一個は敵を殺すため、一個は自決するためと説示」
との証言に信用性がないことはもちろん、赤松隊がまだ特攻で死ぬ覚悟でいた時点における手榴弾の配布を、「軍隊が生き延びるために住民に死を強いる」自決命令だとすることに飛躍とすりかえと無理があることは明らかであり、その証言内容を、集団自決命令の動かぬ証拠と強弁する被告らの主張が詭弁であり、破綻していることは明らかである。

さらにまた、被告らは、客観的証拠により虚構が明らかとなった《梅澤命令説》と《赤松命令説》につき、その真実性の土俵における不利を如何ともしがたいため、その脆弱を補うべく、百人斬り訴訟事件判決の基準、すなわち歴史的事実に関する表現は、「一見明白に虚偽」ないし「全くの虚偽」でなければ、違法ではないという判断基準を用いるべきだと主張する。

名誉権等の人格権を侵害してまで「虚偽」の表現を保護する理由がないことからすれば、「虚偽」であっても「一見明白な虚偽」ないし「全くの虚偽」でなければ許容されるという前記判断基準の不当性は明らかであるが、当事者が死去してから20年以上が経過した後に書かれた表現が問題にされた百人斬り訴訟の基準を、本件においてもち出すことが誤りであることは余りにも明らかである。

けだし、座間味島の集団自決命令を出したと書かれた梅澤元隊長は、今も生きて本件訴訟を闘っているのであり、渡嘉敷島の集団自決命令を発したと書かれた赤松元隊長は、本件書籍二『沖縄問題二十年』が発行され、本件書籍三『沖縄ノート』が発行された当時、生身の人間として生き、さまざまな生活関係において筆舌に尽くしがたい屈辱を強いられたのである。歴史的事実をめぐる論争だから、虚偽であっても構わないという論法が、いかに誹謗言論が跋扈した状況と、原告梅澤らが強いられた被害の実態とかけはなれたものであるかは、わずかな想像力を用いるだけで充分である。

以下、富山真順の新証言、すなわち3月20日の手榴弾交付をもって集団自決命令の証拠とする《手榴弾交付命令説》が全くの詭弁であること並びに被告らが判断基準としての適用を主張する「百人斬り訴訟判決基準」の不当性等について詳述する。

第2 《手榴弾交付命令説》の詭弁


1 渡嘉敷島の《赤松隊長命令説》が伝聞や風説に基づく『鉄の暴風』により

創作され、それが独り歩きして定着したものであることが、徹底的な現地取材と綿密な考証を基にした曽野綾子著の『ある神話の背景』(1978年発行)で明らかになったことは原告準備書面(2)で論じたとおりである。

そのことは《赤松隊長命令説》を記載した本件書籍一『沖縄問題二十年』が『ある神話の背景』出版の翌年に絶版になり、沖縄県史が訂正され、1983年(昭和58年)5月15日出版の嶋津与志著『沖縄戦を考える』で「軍命令は虚偽」とする曽野説への評価が固まった。そして、文部省の検定に抵抗し、家永教科書裁判を戦った家永三郎が、その裁判継続中にもかかわらず、その著書である本件書籍二『太平洋戦争』が第二版(1986年)から《赤松命令説》を削除した時点で、《赤松命令説》は根拠のない虚記であったとの評価が定着したものと解すべきである。

しかし、尚も赤松隊長の命令による集団自決という神話の復活を試みるものがあった。1988年(昭和63年)に朝日新聞に掲載された富山真順元兵事主任の証言、すなわち、「3月20日、17才未満の青少年に非常招集がかかり、二個の手榴弾が交付され、一個は敵を倒し、一個は自決用との説示がなされた」を内容とする証言とこれを針小棒大に拡大解釈して行うこじつけの執念である。


2 富山真順が、渡嘉敷島の資料に登場するのは、以下の資料である。


?『沖縄戦記』(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)の『渡嘉敷島に於ける戦争の様相』(乙3)では、その22頁に、昭和20年3月27日「新城(富山)真順をして村民の西山陣地北方の盆地での終結場所を赤松部隊に連絡させた。」とある。

? 昭和28年3月28日の日付のある『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(乙10)の資料1の12頁には、「昭和20年3月27日駐在巡査安里喜順を通じ集合命令を伝えられた住民は、西山へたどり着いた。・・まもなく兵事主任新城至純をして住民の終結場所に連絡せしめたのであるが、赤松隊長は以外にも住民は友軍陣地外へ撤退せよとの命令である。」とある。

? 1971年(昭和46年)11月号の『潮』(甲B18)の212頁上段から中段にかけて、古波蔵村長から機関銃を借りてこいと言われ、その意思を率直に受けて防衛隊長屋比久孟祥と役場の兵事主任新城真順は集団より先駆けて日本陣地に駆け込み「足手まといになる住民を撃ち殺すから機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせていない」とどなりつけられた」ことが記載されている。

? 富山真順は同号の『潮』(甲B18)に手記を寄せている。そこで富山真順は、「顔見知りの幹部候補生の学生にあうと涙を流して『あなた方は、生きのびてください。米軍も民間人まで殺さないから』というのです。若いのにしったりした人でした」「自決のことは話したくないんですがね。いざとなれば敵を殺してから自分も死のうといつも2個の手榴弾をぶらさげていた。」(甲B21-122頁中、下段)と述べているのである。

?1987年(昭和62年)3月31日に出版された渡嘉敷村史資料編がある。そこには富山真順の戦闘体験の陳述があるが、「17才未満の少年に手榴弾を配った」という事実の記載そのものが全くないのである。


3 1973年(昭和48年)5月30日、曽野綾子氏著作の『ある神話の背景』が出版され、

赤松元隊長による自決命令という神話の虚偽が暴露された。その結果、沖縄県史8 巻(乙8) (1971年(昭和46年)4月28日発行)では
「赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた。」
と記載されていたものが、1974年(昭和49年)3月31日に発行された沖縄県史10巻(乙9) では、渡嘉敷島について「西山陣地の北方にいくと陣地外撤去を厳命された。手榴弾が配られた。どうして自決する羽目になったか知る者は居ないが、だれも命を惜しいと思うものはなかった。」( 乙9- 689,690,691頁)と記載され自決命令が否定
される内容となった。

4 さらに大城将保( 嶋津与志) 氏は

『沖縄戦を考える』( 昭和58年5月15日発行)(甲B24-212,216頁)で
「曽野綾子氏は、それまで流布してきた赤松事件の" 神話" に対して初 めて怜悧な資料批判を加えて従来の説をくつがえした。今のところ曽野説をくつがえすだけの反証は出ていない。」
とし、その結果、赤松隊長命令が虚偽であるとの評価が定着するに至った。

5 東京地裁に継続した家永・教科書裁判第三次訴訟の東京地裁の審理中、

曽野綾子に対する1988年(昭和63年)4月5日の尋問で以下の事実が明らかになった。

村の兵事主任(富山真順) に対し「(昭和20年3月25日に17才未満の青少年や役場の職員に非常召集を掛けて役場に集まらせたという事実を知っているか」( 乙24-218頁質問88) との原告代理人の質問に対して、曽野綾子は「村の兵事主任がそれだけのことを知っているということを誰も言わなかったし、兵事主任に会った記憶もない」と答えた( 同回答乃至問91の質問とその回答) 。

すなわち、件の非常招集が『神話の背景』の出版の為の調査時には村民に知られていなかったことが明らかにされたのである。さらに、曽野綾子は、富山真順が集団自決なり、避難命令の問題なり、手榴弾の問題なりを聞いたとしたら、
「それほどおもしろいことでございましたら、私は必ず記憶しております」
「若い方を招集したり、何かをしたと、そのことが大変重大なことであれば、もう飛びついて、きちんと書いたと思います」
と答え、それほど大きな関心をもって調査していた曽野綾子が事実を察知していたならば、まず富山真順にあって話しを聞き、さらに『神話の背景』にも書いたと断言するのである(乙24-220頁問94,95と回答)。 ところが、その当時、「このことを、土地の人は誰も言わなかった」というのである( 乙24 -220頁問96~101と回答)。事実がなかったからである。

6 1988年(昭和63年)6月16日の朝日新聞に

これまで全く知られていなかった
「17才未満の青少年や役場の職員に昭和20年3月20日に非常召集を掛けて役場に集まらせ、一発を敵に、一発を自決用に手榴弾を配った」という記事が掲載された(乙第12号証)。
前記富山真順の手記や東京地裁での前記曽野証言からすれば、富山真順は、17才未満の青少年らに非常招集をかけて、手榴弾を配った事実について曽野綾子の調査時には全く表明していなかったことが明らかである。また渡嘉敷島の村民も、誰も、富山真順の当該経験を知らなかったことも明らかである。結局、事実そのものが無かったのであり、後日富山真順が捏造したものと推測するほかはない。

7 さらに1990年( 平成2年)3月31日に渡嘉敷村から発行された渡嘉敷村史通史編は、

「渡嘉敷の兵事主任であった富山真順( 旧姓新城) が自決命令があったことを明確に証言した。」
と記載した。村史の該当箇所の執筆者である安仁屋政昭沖縄国際大学教授は
「手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことである。・・・住民が密集している場所で、手榴弾が実際に暴発し、多くの死者が出たことは冷厳な事実である。これこそ『自決強要』の物的証拠というものである」
とする(乙13-197頁下段~198頁上段)。

その記載から明らかなように、手榴弾の交付が自決強要の物的証拠だとする論は、執筆者である安仁屋政昭沖縄国際大学教授の「評価」であって、「事実」そのものではないのである。すなわち、安仁屋は、手榴弾の交付は自決命令と同じことだという評価的レトリックを介して、『鉄の暴風』に記載されて独り歩きした《赤松隊長命令説》における命令を手榴弾の交付を置き換えて、その存在をこじつける詭弁を弄しているにすぎない。あくまでも軍が持久戦を戦うために村民に犠牲を強いるという冷血非情の自決命令が出されたという事実があったか、無かったかが問題なのである。

8 『神話の背景』によって隊長命令が虚偽であったことが定着する中、

家永教科書裁判の主体となっていた社会的勢力が、その神話の復活を図ろうとして仕掛けたのが、昭和63年6月16日付朝日新聞であり、それまで全く知られていなかった「3月20日の手榴弾の配布」という記事であったと推測されるのである。富山真順がこれほど重大な事実を当時、経験していたのであれば、村史資料編の富山真順の戦闘体験の陳述書にも、その余の資料にも当然にその事実が記載されて然るべきであり、それがなかったということは余りにも不可解である。

富山真順は、前記のとおり、村民を自決させるべく機関銃を借りようとして赤松隊長に断られたことが記録されており、手榴弾についても「いざとなれば敵を殺してから自分も死のうといつも2個の手榴弾をぶらさげていた。」と語っていた人物である。逆に、幹部候補生の「あなたがたは生き延びてください」という言葉を紹介していたことを合わせて考えると、3月20日の手榴弾交付の事実もそれが集団自決命令と同じだという論も、あとから考えついた作為的なこじつけであることが強く推測されるのである。

9 また、渡嘉敷村史資料編と同村史通史編(乙13)のいずれも

その戦争編は、安仁屋政昭沖縄国際大学教授の執筆にかかる。1987年(昭和62年)作成の村史資料編中の富山真順の陳述書に、全く影も形も無かった「17才未満の少年らの呼集、手榴弾の配布、自決の指示」が村史通史編に書き込まれるに至った背景には、安仁屋教授の意図が強く働いていることが推測される。

安仁屋教授は、第3次教科書裁判の東京地裁の審理にも証人として供述しており、曽野氏の証言も知る立場にあったことから、赤松隊長の自決命令が虚偽として定着した状況を打破することを企図したと解することができるのである。

従来は昭和20年3月27,28日にあったか否かで議論されていた赤松隊長が発したという自決命令について、家永教科書裁判第3次訴訟の曽野証言によって、それがあったとする《赤松隊長命令説》が完全に破綻したことから、その2カ月後の昭和63年6月16日の朝日新聞に掲載された富山真順の新証言なるものによって、自決命令の有無を手榴弾の交付にすりかえ、しかも、昭和20年3月20日に日付を遡らせることで、《赤松隊長命令説》の詭弁的復活を企図したのである。

しかし、そもそも赤松部隊は3月20日の時点では、まもなく特攻隊として敵艦隊に突入する予定であり、守備隊に転身し、持久戦を闘うことは全く予定していなかった。特攻隊として出撃する部隊として当然なことであるが、村民のことには全く関心をもっていなかったのである。このことは『ある神話の背景』に収められた赤松元隊長の次の発言からも明白である。
「正直言って、初め村の人たちをどうするかなどということは、頭にありませんでした。何故かとおっしゃるんですか。我々は特攻隊です。死ぬんですから、後のことは、誰かが何とかやるだろうと思ってました。少なくとも、我々の任務ではない、という感じですね」(甲B18-36頁)。
赤松部隊は3月25日までに米軍の攻撃で舟艇の大部分を喪失し、作戦の秘匿を優先した上官の命令で、残った舟艇の自沈をやむなくし、守備隊に転進し、持久戦のために山に登ったのであった。

仮に、仮定の話として赤松部隊が特攻のために出撃し、村民に手榴弾が残され「一発は敵をやっつけ、一発は自決のため」ということだったとしても、「捕虜になるよりは死を」という村民の意思に応えたものに過ぎない。そうであれば、かかる手榴弾の交付をもって、「沖縄住民の命を犠牲にして軍が生き残るため」になされた「非人間的な日本軍」の象徴的非道として人々の記憶に焼きつき、最大限の道徳的非難を受け、被告大江が「罪の巨塊」と呼び、発令者である赤松元隊長が「アイヒマン」になぞらえられた「自決命令」とは、性質も内容も全く異なるものであることは明らかである。

第2 百人斬り訴訟判決基準の問題点


1 はじめに


被告らは、事実について、百人斬り訴訟における「一見して明白に虚偽」(「百人斬り訴訟一審判決」)(乙1)、「全くの虚偽」(「百人斬り訴訟控訴審判決」)を要すべきと主張している。

しかしながら、「百人斬り訴訟判決基準」は、「真実」を蔑ろにする基準であり、「真実」の探求を阻害するものであり不当である。

しかも、東京高裁昭和54年3月14日判決(高等裁判所民事判例集32巻1号33頁)を代表する「虚偽」で足りるとした判例を、「はじめに結論ありき」の基準として機能するように改悪した基準である。

また、「一見明白」、「全くの虚偽」を付加することで、刑法が表明する国法秩序とも矛盾し、最高裁の依って立つ価値判断をも無視した、理論的にも問題がある不明確な基準でもある。

2 「真実」を蔑ろにする基準


「百人斬り訴訟判決基準」は、「真実」を蔑ろにする基準である。

「百人斬り訴訟判決基準」は、「虚偽」であっても、違法性が認められない余地を大幅に残すもので、基準として耐えられるものではない。「歴史的事実における表現の自由」の大切さは理解できる。しかしながら、「百人斬り訴訟判決基準」によれば、「虚偽」ではあるが、「一見明白」または「全くの」虚偽でないとして、「虚偽の」「歴史的事実の表現の自由」を認めることになる(まさに、百人斬り訴訟判決は、「一見明白」「全くの」という基準を付加することで「虚偽」の事実の流布を認めたもので、結論ありきの不当な基準である。)。

歴史事実においても最も重要なのは「真実」である。「百人斬り訴訟判決基準」は、名誉権等の人格権侵害を伴う事実と乖離した無責任な言説の跋扈を容認するものであり、ひいては真実の探求と発見を阻害することにつながる。これが、歴史的事実における表現の自由、ひいてはその目的である歴史学の進歩に資するとは到底いえないことは明らかである。

3 東京高裁昭和54年判決を改悪した基準


「百人斬り訴訟判決基準」は、上記東京高裁昭和54年判決に反し、これを「はじめに結論ありき」の基準として機能するように改悪した基準である。

東京高裁昭和54年判決(①死後四四年余を経た・・・かような年月の経過のある場合②摘示された事実が虚偽③事実が重大④時間的経過に関わらず敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害したことを要件とする。)は、概ね「百人斬り訴訟判決基準」と同じもので、その理論の導き方も同じ様ではあるが、要件としては「虚偽」で足りるとして、「一見明白に」とか「全くの」という要件を付加していない。「百人斬り訴訟判決基準」は、一見この東京高裁昭和54年判決を下敷きにしながら、学説上も何ら根拠が見あたらない、また、何らの理由もなく「一見明白に」または「全くの」という要件を加重することで、「虚偽」を立証しても足りないとして、歴史的論争に巻き込まれた名誉毀損の被害者における救済の途を事実上閉じるものである。

また、昭和54年東京高裁判決は、「死後四四年余を経た・・・・かような年月の経過のある場合」の基準として判示されているが、「百人斬り訴訟」の事案は、「約20年」の経過のものである。44年も経た後の基準が、「虚偽」で足りるのに、なぜそれより半分も短い「百人斬り」では「一見明白」「全く虚偽」の要件が加重されるのか、理由は記載されていない。

「百人斬り訴訟判決基準」は、一見東京高裁昭和54年判決を下敷きにしながら、その実態は、「はじめに結論ありき」の基準として機能する改悪をしているのである。

4 刑法と齟齬し、理論的にも問題がある不明確な基準


また、刑法が表明する国法秩序の観点からも、「百人斬り訴訟判決基準」は、妥当ではない。刑法上の死者に対する名誉毀損(刑法230条2項)の構成要件は、「虚偽の事実を摘示」することである。虚偽の事実の摘示であれば、刑法上、構成要件に該当する違法行為として犯罪が成立し、「一見明白な」とか「全くの」という要件が加重される必要はないのである。しかしながら、「百人斬り訴訟判決基準」によれば、刑事上犯罪が成立するはずの「虚偽」の事実を摘示する場合にも、「一見明白」または「全くの」虚偽ではないとして、損害賠償が認められないということにもなる。やはり、このような理論構成は、刑法の立場と大きく矛盾するものであり、国法秩序の整合性の観点からも妥当ではないことは明らかである。一般的にみて民事上の損害賠償の成立は、刑法上の犯罪成立よりも、より緩やかで足りるはずである。

また、名誉毀損に関する最高裁判例理論によれば、名誉毀損があったとしても真実性があれば違法性が阻却され、真実ではなくともそれを真実と誤信したことに相当性があれば、責任が阻却されるのである。真実性ないし相当性ある表現に限り、被害者の名誉権等の人格権の保護に優先するという価値判断である。「百人斬り訴訟判決基準」は、徒に「虚偽の」表現の自由を優先させるもので、最高裁の判例が示した、真実性、相当性ある表現の自由に限り個人の名誉権等の保護に優先するという価値判断を無視したものである。

さらに、最高裁の判例理論は、「真実」か「虚偽」かという「真実性」の判断も、相当な根拠に基づいたものかという「相当性」の判断も、証拠により客観的に判定し得る明快な基準である。ところが、「真実」か「虚偽」かは、客観的に判定し得る基準ではあるが、「一見明白」「全くの」虚偽か、それとも単なる「虚偽」かを客観的に判定することはできない。むしろ、「百人斬り訴訟判決基準」は、「一見明白」「全くの」というマジックワードを用いて結論を恣意的に動かすことができることにもなる不明確な基準である。

かかる理論的にも実際的にも問題があり、不明確で恣意的は判断が可能になる「百人斬り訴訟判決基準」を無批判に本件に流用せんとする被告の主張は到底容認できない。

第3 本件における「百人斬り訴訟事件基準」の非適合性


敬愛追慕の情の侵害の不法行為の要件について被告らがその主張の根拠として援用する2つの判決の基準は、全く事情が異なる本件事案には適用される余地がない。

以下、その理由を詳述する。

1 はじめに(結論)


原告赤松が兄赤松大尉に対し抱いていた敬愛追慕の情を内容とする人格的利益を被告らが侵害したとの原告側の主張に関し、被告らは、死者に対する敬愛追慕の情を害する不法行為の成立には、当該事実摘示が、①死者の名誉を毀損するものであり、②摘示した事実が虚偽であって、かつ③その事実が極めて重大で、遺族の死者に対する敬愛追慕の情を受任し難い程度に害したといえることが必要とする(被告準備書面(1)3頁)。通常の名誉毀損のケースにおいては、特定の事実の摘示により名誉が毀損されれば直ちに違法であり、摘示事実が虚偽であることまでは違法性評価の段階では要求されないことからすれば、この②の点は、立証責任の転換が図られているものと評価できる。

また、被告らは、死者に関する事実が「歴史的事実」に関するものである場合は、上記②の虚偽性の要件については、「一見明白に虚偽であるにもかかわらずあえて摘示したこと」を要する(被告準備書面(1)3頁)、あるいは「摘示された事実がその重要な部分において全くの虚偽であること」を要すると主張する(被告準備書面(3)25頁)。

そのうえで被告らは、本件の原告赤松の請求は「死者に関する歴史的事実」の摘示に関するものであるから、不法行為の成立には、上記の厳格な要件を満たされることが必要であると指摘する。

しかし、上記のような被告らの解釈は失当である。

一般的に、死者の名誉が毀損されれば、それにより遺族は死者に対する敬愛追慕の情という人格的利益を違法に侵害され、不法行為が成立すると解されるべきである。

そして、摘示された当該事柄が公共の利害に関する事実であり、かつ、事実摘示が公益を図る目的でなされた場合で、摘示された事実が真実であることが証明されたときは、例外的に敬愛追慕の情の侵害について違法性が阻却され、不法行為が成立せず、また、真実であることが証明されない場合でも、行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときは、故意または過失がなく、不法行為は成立しないと考えられる。

本件においては、被告らによって死者赤松大尉の名誉が毀損されたことにより、原告赤松は赤松大尉に対する敬愛追慕の情という人格的利益を違法に侵害されたものであり、不法行為が成立する。

そして、不法行為の成立を否定する被告らが、事実の公共性、目的の公益性及び事実の真実性あるいは事実を真実と信じるについての相当の理由の立証責任を負うと解される。

2 死者の名誉の毀損から生じる遺族の敬愛追慕の情の侵害


死者に対する名誉毀損行為により、遺族が死者に対する敬愛追慕の情が傷つけられ、精神的苦痛を被ったときは、遺族に対する不法行為として一般私法上の救済の対象となり得ることは、大阪地裁堺支部昭和58年3月23日判決(判例時報1071号33頁。小説「密告」事件)、東京地裁昭和58年5月26日判決(判例時報1094号78頁。受田代議士事件)等においても認められている。

さらに、大阪地裁平成元年12月27日判決(判例時報1341号53頁。エイズ・プライバシー訴訟)も、当該事案においては、問題の報道は死者の名誉を著しく毀損し、かつ生存者の場合であればプライバシーの権利の侵害となるべき死者の私生活上他人に知られたくない極めて重大な事実ないしそれらしく受け取られる事柄を暴露したものであり、そのような報道により遺族(死者の両親)は死者に対する敬愛追慕の情を著しく侵害されたものである旨認定し、遺族の敬愛追慕の情という人格的利益の侵害による不法行為が成立することを、正面から認めている。

そして、前記エイズ・プライバシー訴訟においては、違法性阻却事由については、「当該事柄が公共の利害に関する事実である場合で、かつ、取材及び報道が公益を図る目的でなされた時には、当該取材の手段方法並びに報道された事項の真実性又は真実性を信ずるについての相当性及び表現方法等の報道の内容等をも総合的に判断したうえで、遺族の個人に対する敬愛追慕の情の侵害につき違法性が阻却される場合がある」と判示し、基本的に、名誉毀損一般に関する違法性阻却の判断(最高裁昭和46年6月23日判決)にならった枠組みを示している。

すなわち、これらの裁判例においては、死者の名誉毀損による敬愛追慕の情の侵害に関するものであるからといって、生者に対する名誉毀損の場合と比べて、虚偽性の面で、立証責任を転換したり、特段に要件を厳格化するという判断はなされていないのである。


3 被告らの主張する要件について


被告らは、遺族の敬愛追慕の情を害する不法行為の成立については、前記のとおり、摘示事実の虚偽性について請求側に立証責任を課すなどの厳格な要件を満たすことが必要とし、それを裏づける裁判例として、東京高裁昭和54年3月14日判決(「落日燃ゆ」事件)を挙げる。

しかし、この「落日燃ゆ」事件は、死者が亡くなって44年余りを経てから死者の名誉を害するような事実について記述された部分のある著作物が初めて出版された事件であり、そのような相当に長い年月の経過があるという特殊な個別的事情に鑑み、「歴史的事実に移行した」事実については「歴史的事実探究の自由、表現の自由への配慮が優位に立つ」という判断から、かような立証責任の転換が図られたものである点に留意されねばならない。

一方、本件についてみれば、本件書籍二、三とも、赤松大尉の生前に出版されたものであり、その時点では、摘示された事実は「歴史的事実に移行した」ものではなく、「歴史的事実探究の自由、表現の自由への配慮が優位に立つ」という価値判断が働く余地は全くない。

その意味で、「落日燃ゆ」事件判決が定立した要件が、同事件において適用される限りでは妥当なものであったと仮に評価されるとしても、全く事情の異なる本件において同じ要件が適用されるべきであると考えるのは、失当である。

4 「歴史的事実」であることに基づく要件の厳格化について


被告らは、死者に関する事実が「歴史的事実」に関するものである場合は、敬愛追慕の情の侵害の不法行為の要件のうち、虚偽性については、「一見明白に虚偽であるにもかかわらずあえて摘示したこと」あるいは「摘示された事実がその重要な部分において全くの虚偽であること」という形にさらに厳格化することが妥当と主張し、それを裏づける裁判例として、百人斬り訴訟第一審判決(乙1)及び控訴審判決(乙27)を挙げる。

この両判決は、「死者に関する事実も、時の経過とともにいわば歴史的事実へと移行していくもの」であり、「歴史的事実については、その有無や内容についてしばしば論争の対象とされ、各時代によって様々な評価を与えられ得る性格のものであるから、たとえ死者の社会的評価の低下にかかわる事柄であっても、相当年月の経過を経てこれを歴史的事実として取り上げる場合には、歴史的事実探究の自由あるいは表現の自由への慎重な配慮が必要となる」(乙1・108、109頁。この部分は控訴審判決でも変更なし)という観点から、前記のような虚偽性の要件の厳格化を導いている。

そして、両判決は、「本件各書籍は、両少尉の死後少なくとも20年以上経過した後に発行されたものであり、問題とされる本件摘示事実及び本件論評の内容は、既に、日中戦争時における日本兵による中国人に対する虐殺行為の存否といった歴史的事実に関するものであると評価されるべき」(乙1・110頁。傍点は原告ら代理人。この部分は控訴審判決でも変更なし)と判示して、厳格化した要件の適用をなしている。すなわち、事実摘示された本人の死後一定期間が経過している点を当該事実が「歴史的事実」であると認定する主たる根拠としているのである。

これに対して本件においては、繰り返しになるが、問題の出版行為は赤松大尉の生前に開始されたものであり、「相当年月の経過を経てこれを歴史的事実として取り上げる場合」には該当しないケースであることは、明白である。

その意味で、百人斬り訴訟第一審判決あるいは控訴審判決が定立した要件が、同事件において適用される限りでは妥当なものであったと仮に評価されるとしても、全く事情の異なる本件において同じ要件が適用されるべきであると考えるのは、失当である。

5 まとめ


結論として、本件においては、死者に関する事実摘示が問題となっていること、あるいは摘示事実が歴史的事実であることを根拠として不法行為の要件を厳格化することは不相当であり、名誉毀損の場合の通常の判断の枠組みが用いられるべきである。

前記1のとおり、本件においては、被告らによって死者赤松大尉の名誉が毀損されたことにより、原告赤松は赤松大尉に対する敬愛追慕の情という人格的利益を違法に侵害されたものであり、不法行為が成立する。

そして、不法行為の成立を否定する被告らが、事実の公共性、目的の公益性及び事実の真実性あるいは事実を真実と信じるについての相当の理由の立証責任を負うと解するのが相当である。
                                    以上


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