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被告準備書面(2)要旨2006年3月15日

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被告準備書面(2)要旨2006年3月15日





被告準備書面(2)要旨
2006年3月15日
(原告準備書面(1)に対する反論)


第1 同書面第2(請求原因の追加)について


1 同2aについて

本件書籍三「沖縄ノート」に原告が主張する記述が存在することは認める。

2 同2bについて


(1)原告は、「旧守備隊長」が赤松大尉であることが明らかである
と主張するが、本件記述には、渡嘉敷島の守備隊長によって集団自決命令が出されたことも、赤松大尉を特定する記述もなく、一般読者の普通の注意と読み方を基準とした場合、「旧守備隊長」が赤松大尉であると認識されることはない。

したがって、本件記述が、赤松大尉の名誉を毀損するということはありえないし、原告赤松固有の名誉を毀損するということもありえない。また、原告赤松の赤松大尉に対する敬愛追慕の情を侵害するということもありえない。

(2)なお、原告は、本件記述について、「赤松大尉をイスラエル法廷で
ユダヤ人集団殺戮の犯人として処刑されたアイヒマンになぞらえ、赤松大尉が、極悪非道の冷血漢として認識されているアイヒマンと同様、人民裁判によって絞首刑にされるべき犯罪者であるという最大限の侮辱ないし人格非難を行う意見論評である」と主張するが、本件記述は、赤松大尉がアイヒマンと同様、人民裁判によって絞首刑にされるべき犯罪者であるなどとは全く述べていない。

本件書籍三は、本件記述に続けて、

「この法廷をながれるものはイスラエル法廷のそれよりもっとグロテスクだ。なぜなら『日本青年』一般は、じつは、その心に罪責の重荷を背負っていないからである。アーレントのいうとおり、実際はなにも悪いことをしていないときに、あえて罪責を感じるということは、その人間に満足をあたえる。この旧守備隊長が、応分の義務を果たす時、実際はなにも悪いことをしていない(と信じている)人間のにせの罪責の感覚が、取除かれる。『日本青年』は、あたかも沖縄にむけて慈悲でもおこなったかのような、さっぱりした気分になり、かつて真実に罪障を感じる苦渋をあじわったことのないまま、いまは償いまですませた無垢の自由のエネルギーを充満させて、沖縄の上に無邪気な顔をむける。その時かれらは、現にいま、自分が沖縄とそこに住む人々にたいして犯している犯罪について夢想だにしない、心の安定をえるであろう。それはそのまま、将来にかけて、かれら新世代の内部における沖縄への差別の復興の勢いに、いかなる歯どめをも見出せない、ということではないか?おりがきたら、とひたすら考えて、沖縄を軸とするこのような逆転の機会をねらいつづけてきたのは、あの渡嘉敷島の旧守備隊長のみにとどまらない。日本人の、実際に厖大な数の人間がまさにそうなのであり、何といってもこの前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動に責任がない、新世代の大群がそれにつきしたがおうとしているのである。」

とあるように、本件記述は、沖縄について心の罪責の重荷を背負っていない日本青年一般のあり様について論評したものである。

第2 同書面第3(表現の登場人物と特定人の「同定可能性」)について


1 同2(昭和31年最高裁判決の射程)について


(1)原告は、被告が引用する最高裁
昭和31年7月20日第二小法廷判決(民集10巻8号1059頁)が示す「一般読者の普通の注意と読み方」という基準は、「『新聞記事等の名誉毀損性』の有無に係る判断基準であり、出版物における当該記述が表現する登場人物が誰かを特定できるかという『同定可能性』の問題に関する判断基準ではな」く、被告らが、「表現の『名誉毀損性』と、表現の『匿名性』ないし『同定可能性』及び表現の『公然性』という異なる3つの次元の事柄をあえて混同するものである」と主張する(原告準備書面?第3・2)。

しかし、当該表現が誰に関するものであるかは、まさに表現が他人の名誉を毀損するかという「名誉毀損性」の問題であって、表現が誰に関するものであるかを一般読者の普通の注意と読み方によって判断すべきであるとする主張には、何の混同もない。

(2)「名誉を毀損するとは、人の社会的評価を
傷つけることに外ならない」(前記最高裁昭和31年7月20日第二小法廷判決)のであり、人の社会的評価が低下するというのは、当該人物を見る外部の者による、当該人物に対する社会的評価が低下することである。

そして、ある表現が誰かの社会的評価を低下させるか否かは、その「誰か」が特定されなければ、当該表現に接した者にとって、「社会的評価が低下」することはありえない。つまり、ある表現が他人の名誉を毀損するか(社会的評価を低下させるか)を判断する際、その表現が「誰に関してなされたものか」という表現の特定性の問題と、その表現が「人の社会的評価を低下させるか」(名誉毀損性)という問題とは切り離して判断することは不可能であり、両者は一体のものである。

したがって、表現が誰に関してなされたものであるかという問題と、その表現が人の社会的評価を低下させるかという問題は、同一の基準で判断されなければならない。

そして、記事等が人の名誉を毀損するものであるか否かは「一般読者の普通の注意と読み方を基準として解釈されるものである」(前記最高裁昭和31年7月20日判決)というのが確立した判例法理である。

したがって、ある表現が他人の名誉を毀損しているというためには、表現が誰に関するものであるか、その表現中から特定しうることが必要であり、その判断は、「一般読者の普通の注意と読み方」を基準として解釈されるべきである。

(3)東京地裁平成15年9月5日(乙14)は、
「特定人に対し、雑誌記事による名誉毀損の不法行為が成立するためには、当該記事の記載事実が当該特定人に関するものであるという関係が認められることが必要である。そして、当該記事が匿名記事であるときは、当該特定人に関する一定の情報に照らして判断したときに、匿名であってもなお当該特定人について記載したものと認められてはじめて、氏名を公表して書かれた記事と同様に名誉毀損成立の対象となりうるというべきである。そして、上記一定の情報とは、当該記事を掲載した雑誌が一般雑誌として販売されている場合には、一般の読者が社会生活の中で通常有する知識や認識を基準として、その範囲内にある情報であることが必要と解すべきである」

と判示し、一般に販売されている雑誌による名誉毀損の成否が争われた事件について、ある表現が誰に関してなされたものであるかは「一般読者の普通の注意と読み方」を基準とすべきであると判断した前記最高裁昭和31年7月20日第二小法廷判決と同様の判断をしている。

また、前橋地裁高崎支部平成10年3月26日判決(乙15)は、表現の特定性について「新聞記事が特定人の名誉を毀損するものというためには、一般の読者が、一般的な知識をもとに当該記事を読んだ場合に、それ自体から、その記事中の人物が、氏名までは不明であっても、どのような特定の人物であるか我認識しうる程度の記事内容であることを要するものというべきところ、本件記事はこのような意味での特定性を欠いており、一般読者においてこれが原告についての記事であると認識することは不可能であるというべきである。」と判示し、表現の特定性について、前記最高裁昭和31年7月20日第二小法廷判決と同様の基準を用いて判断をしている。

2 同3(「石に泳ぐ魚」事件判決)について

 なお、原告は、「石に泳ぐ魚」事件第1審判決が「不特定多数の者が購読する雑誌に掲載された小説上の特定の表現が、ある人にとって侮辱的なものか、又は、その者の名誉を毀損するか否かについては、『一般の読者の普通の注意と読み方』を基準とすべきであるとしても、その前提条件ともいうべき『表現の公然性』、すなわち、特定の表現がどの範囲の者に対して公表されることを要するかは、事柄の性質を異にする問題である。後者の問題は、特定の表現が『不特定多数の者』が知りうる状態に置かれることを要し、かつ、これをもって足りると解すべきであり、この要件は、本件については、本件小説が不特定多数の者が購読する雑誌『新潮』に掲載されたこと自体によって、既に充足されているものというべきである」としていることを理由に、被告の主張を「表現の名誉毀損性ないし侮辱性の判断基準と表現の公然性の判断基準とを混同するもの」であると主張するが(原告準備書面?第3・3)、この主張は失当である。

同判決も述べているように、「表現の公然性」とは、ある表現を誰に対して公表するかということであって、表現が誰に関してなされたものであるかという表現の特定性の問題とは別のものである。被告は本件各書籍の表現が「公然性」を欠くなどとは主張していない。

3 同4(表現の登場人物の特定性ないし「同定可能性」の判断基準について)について

ある表現が他人の名誉を毀損しているというためには、表現が誰に関するものであるか、その表現中から特定しうることが必要である。

このことは、原告が引用する東京地裁平成6年4月12日判決(判例タイムズ842号271頁)が、「当該報道において報道の対象が特定されたというためには、その報道自体から報道対象が明らかであることを要し、仮に他の報道と併せて考察すれば報道対象が明らかとなる場合であっても、そのことから、直ちに当該報道が報道対象を特定して報じたものとは認めるのは相当でない。」と判示するとおりである。

この点、原告は、前記東京地裁平成6年4月12日判決が「当該報道媒体以外の実名報道が多数に上り、国民の多くが当該事件にかかわる人物の実名を認識した後は、それが一般の読者の客観的水準となるから、多くの実名報道と同一性のある報道だと容易に判明する態様での匿名報道は、匿名性を実質的に失うものといわざるをえない」としていることから、赤松大尉が渡嘉敷島の集団自決命令を下したとの著作物が出版され、赤松大尉が渡嘉敷島の慰霊祭に出席しようとして沖縄県民の反対運動にあったことが報道されたことをもって、多くの国民が渡嘉敷島の守備隊長が赤松大尉の実名を認識し、これが「一般読者の客観的水準となった」と主張する。

しかし、前記東京地裁平成6年4月12日判決は、報道対象となった人物について、「本件各記事に係る事実については、昭和63年6月4日の朝日新聞朝刊に最初に報道されたが、その際の報道は匿名であった。しかし、その後、産経新聞は当日夕刊から、東京新聞は6月5日朝刊から、読売新聞は6月7日朝刊から、朝日新聞は6月8日朝刊から、それぞれ原告の実名及び住所を併記するいわゆる実名報道を開始し、朝日新聞が実名報道に切り換えた6月8日頃から実名報道をする新聞、テレビが多くなり、6月上旬の終わりころには、本件各記事に係る事実と原告との関連が一般国民に広く知れるところとなったものと認められる。したがって、前記2の〈2〉ないし〈10〉記載の本件各記事の内容に照らせば、昭和63年6月上旬の終わりころ以降は、本件各記事が匿名で書かれても、一般国民は、容易に原告との関連性を認識できたものと認められる。そうすると、昭和63年6月4日に配信された記事1については、一般の読者に原告に関する事実の報道であると認識させるものではなかったのであるから、これによって原告の名誉が毀損されたものとは認められないが、6月11日又はそれ以降に配信された記事2ないし記事10については、その内容のみからすれば匿名であっても、当時の一般の読者の認識の状況を前提とすれば、前記2の〈2〉ないし〈10〉に掲げた内容を読めば、原告に関する記事であると推認できたというべきであるから、これらの記事は、実質的には匿名性を失っていたものというべきである」として、当該記事配信の直前に全国紙数紙及びテレビによる実名報道が繰り返されたことによって、一般国民が匿名での当該報道対象者の実名を認識し、これが一般読者の客観的水準となったと認定しているものである。

しかし、渡嘉敷島の集団自決命令に関して赤松大尉の実名を記載した著作物が広く国民一般に読まれていたわけではなく、全国紙で報道された事実もない。したがって、渡嘉敷島の集団自決命令について記述した著作物が複数発行されていたとしても、渡嘉敷島の守備隊長が「赤松嘉次」という人物であることが国民の多くに認識されたとはいえず、「渡嘉敷島の守備隊長が『赤松嘉次』であるという認識」が、一般読者の客観的水準となっていたとは到底いえないことが明らかである。

したがって、前記東京地裁平成6年4月12日判決を引用し、「沖縄ノート」の発行当時に、「渡嘉敷島の旧守備隊長が『赤松嘉次大尉』であるとの認識」が、一般読者の客観的水準となっており匿名性が実質的に失われていたとする原告の主張は明白な誤りである。

4 同5(引用書籍等の記述について)について


(1)原告は、知財高裁平成17年11月21日判決(甲C4)を引用し、
本件書籍三が引用した「沖縄戦史」(乙5 上地一史)には、渡嘉敷島においては赤松大尉が、座間味島においては原告梅澤が集団自決命令を出したとの記述があることから、「沖縄戦史」(乙5)の記述は本件書籍三の記述と一体であって、これらを併せて読めば、本件書籍三の記述が赤松大尉、原告梅澤に対する名誉毀損を成立させうると主張する。

しかし、前記知財高裁平成17年11月21日判決は、「本件文集には被引用部分7及び8に執筆者(寄稿者)の氏名が明記されており、・・・・被告書籍に記載された本件文集の出典頁から、被引用部分7及び8の執筆者(寄稿者)を知ることが困難とはいえない。このような点を考慮すれば、被告書籍における引用部分7及び8の記述は、被引用部分7及び8の各執筆者(寄稿者)との関係では名誉毀損に該当する余地があるといえないでもないが(傍点 被告ら代理人)、控訴人らは、いずれも当該被引用部分の執筆者(寄稿者)ではないから、引用部分7及び8の記載が控訴人らとの関係で名誉毀損を構成するものとは認められない。」と判示しているのであって、当該書籍が他の書籍を引用した場合に、引用された書籍中に執筆者を特定する記述があることを理由に、当該書籍の引用部分が特定人の名誉毀損に当る可能性に言及した部分は、全くの傍論にすぎないものである。しかも、前記知財高裁平成17年11月21日判決は、「名誉毀損に該当する余地があるといえないでもない」とするのみであって、引用された書籍に人物を特定する記載がある場合に、引用した書籍の人物を特定しない記述について特定人に対する名誉毀損が成立することを一般的に認めたものでないことは明らかである。

したがって、本件において、前記知財高裁平成17年11月21日判決を根拠として、本件書籍三による名誉毀損が成立するかのような原告らの主張は、明らかに失当である。

(2)また、「沖縄ノート」は、上地一史著「沖縄戦史」の記述を
引用したものではなく、その記述内容を抽象化して紹介したにすぎない。自決命令の具体的記述はなく、日本軍の隊長についての言及はなく、隊長が自決命令を発したとも記載していない。原告らは、このような場合においても、「沖縄戦史」に言及している以上、「沖縄ノート」は「沖縄戦史」の記述と同一の記載をしたとみなすべきだと主張しているのであろうか。そうだとすれば暴論というほかない。

                                 以上


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