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原告準備書面(2)全文2006年3月24日その2

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原告準備書面(2)全文2006年3月24日その2





3 座間味島における集団自決の実相


(1)集団自決の心理と了解

集団自決が守備隊長であった原告梅澤の命令によるものであるという虚偽の神話が流布し定着した背景には、住民が集団で手榴弾の爆裂等で次々に自決するといった、およそ平時の感覚では理解しがたいことが生じたことを一般の通常人が《了解》するうえで、「軍隊の命令によって強制された」というまことしやかな〝ウソ〟が受け入れやすい説明として広まったという事情があったことを指摘することができる。そしてまた、戦後の言論界を歪ませてきた「残虐な日本軍」という安直な図式も、《梅澤命令説》が人口に膾炙した背景となったということができよう。

しかしながら、実際のところ、《梅澤命令説》という浅薄な認識は、集団自決の実相と敵軍が目前に侵攻してくるという切迫した極限状況下における人間の心理から目を逸らせる機能を果たしてきたのである。それは、まさしく「想像力」の貧困であった。 

慶良間列島で起こった集団自決を《了解》するため、『沖縄県史第10巻』に寄せられた島民達の供述を訪ね、集団自決の実相と島民の心理に触れてみたい。  

(2)中村仁勇『青年義勇隊』

当時県立一中の二年生だった座間味村阿嘉の中村仁勇は、地元で組織された義勇隊に入り、部隊と一緒に行動していたが、同人の『青年義勇隊』(乙9・703頁)の中で、戦隊長の野田少佐がとった住民に対する措置について次のように述べている(708頁~)。    

野田隊長は、住民を殴ったり、処刑したりして、みんなからは反感をもたれていましたが、ただ一つ、住民に対する措置という点では立派だったと思います。

二十六日の斬り込みの晩、防衛隊の人たちが戦隊長のところへ行って「部落民をどうしますか、みんな殺してしまいますか」ときいたわけです。野田隊長は、「早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ」と指示したそうです。

杉山というのは、杉に似た木が何本か生えているところで、そこは三方に高い山があって谷間になっています。どこから弾がとんできてもあたらない安全地帯です。そこに、三八〇名ほどの島民が一カ所にかたまって避難していました。避難というより、部落民はそこで一緒に死ぬつもりで集まっていたわけです。私もその夜は杉山へ行って家族と一緒にいました。

翌日、山の上をみると、そこに谷間に向けて機関銃を据えて兵隊が三名ついているのが見えました。後で聞いたんですが、糸林軍医が二名の兵隊をひきいて銃座についていたということです。その友軍の機関銃を見て、住民は、いざとなったら自分たちを一思いに殺してくれるんだと、安心していました。みんな一緒に玉砕できるんだということで、かえって混乱がしずまったんです。当時の私たちは、とにかくアメリカにつかまったら、マタ裂きにされて、大変になるんだと、そればっかりがこわかったわけですから、敵が上陸してきたら玉砕するんだとみんなが思っていたわけです。 

(3)大城昌子『自決から捕虜へ』

座間味村の離島の部落で最も小さい慶良間の住民大城昌子はその供述録『自決から捕虜へ』(乙9・729頁)のなかで、慶良間部落民が決行した集団自決について以下のように述べている。

前々から、阿嘉島駐屯の野田隊長から、いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていましたが、その頃の部落民にそのような事は関係ありません。ただ、家族が顔を見合わせて早く死ななければ、とあせりの色を見せるだけで、考えることといえば、天皇陛下の事と死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです。

米軍の上陸後二時間程経った午後十時頃、追いつめられ一か所に集まった部落民は、家族単位で玉砕が決行されました。数時間前までだれ一人として想像もできなかった事が、わずかの時間でやってのけられたのです。

当時、五十七歳で農業を営んでいた中村慶次さんは、妻子を連れて逃げられるだけ逃げようと思ったようですが、もう行く所もないということで壕にひきかえし、持っていた縄で最初に五十四歳の奥さんの首をしめ、次に二十八歳の娘さんの首を強くしめました。そしてそれぞれの死を確認したあと、自分の首を無我夢中でしめている所を米兵に見つかり、未遂に終わって捕虜となりました。その時のくやしさは何といっていいかわからないと言っています。

私は父(兼城三良)と一緒にお互いの首をしめあっている時に米軍に見つかり、中村さんと同様、捕虜となってしまいました。これまではどんなつらい事があっても、自分のすべてが天皇陛下のものであるという心の支えが、自決未遂のため、さらには捕虜になったため一度にくずれてしまい、天皇陛下への申し分けなさでどうすればいいのか全くわからず、最後の「忠誠」である「死」までうばわれてしまった米軍がにくらしくて、力があるなら、そして武器があるのならその場で殺してやりたい気持ちでいっぱいでした。

米軍にひきいられながら、道々、木にぶらさがって死んでいる人を見ると非常にうらやましく、英雄以上の神々しさを覚えました。それに対して、敵につれていかれる我が身を考えると情けなくて、りっぱに死んでいった人々の姿を見る度に自責にかられるため、しまいには、死人にしっとすら感じるようになり、見るのもいやになってしまいました。

‥‥

以上のような手段で部落民全員が「死」に挑んだわけですが、半数以上ともいわれる部落民が目的を達成し未すいの人たちにいわゆる神々しさを見せつけたわけです。

(4)宮里美恵子『座間味の集団自決』

「座間味村字座間味の宮里美恵子の供述は『座間味の集団自決』(乙9・739頁)にまとめられている。宮里美恵子は、将校らの民宿として家を提供し、彼らと生活を共にしていた。宮里美恵子らは、家族同様にお互い何でも打ち明けて話し合う程の親しみをもって接し、三人の子供らも、「将校さん、将校さん」となついていたという。

二十三日から始まった戦闘は相変わらず衰えることなく、二十五日晩の「全員自決するから忠魂碑の前に集まるよう」連絡を受けた頃などは、艦砲射撃が激しく島全体を揺るがしている感じです。「このような激しい戦闘では生きる望みもないから」ということで、命令を受けると、みんなは一張らの服を取り出して身支度を整えました。

私の主人は戦争前に亡くなっていたため、忠魂碑に向かう前に子供たちに、

「死んだらお父さんに会えるから、一緒に、お父さんの所へ行こうね。」

と言うと、子どもたちは目を輝かせて、いじらしくもうなずいてくれました。

私はきれいな服も何もないので、そのままの格好で帳簿と現金をもって娘をおぶり、父と母は上の二人の子の手をひいて、私の家族が先に壕を出て行きました。

阿佐道の方に出てみると、艦砲射撃が激しいので、私達は伏せながら歩き続け、やっと忠魂碑前にたどりつきました。しかし、そこには私の家族の他に、校長先生とその奥さん、それに別の一家族いるだけで他にだれも見当たりません。死ににきたつもりのものが、人が少ないのと、まっ赤な火が近くを飛んで行くのとで不安を覚え、死ぬのがこわくなってきました。

ほんとに不思議なものです。「死」そのものは何もこわくないのです。けれども、自分たちだけ弾にあたって「死ぬ」という事と、みんな一緒に自ら手を下して「死ぬ」という事とは、言葉の上では同じ「死」を意味しても、気持ちの上では全く別のものでした。その気持ちはうまく言えません。

‥‥

私は校長先生に一緒に玉砕させてくれるようお願いしました。すると校長先生は快く引き受けてくれ、身支度を整えるよういいつけました。

「天皇陛下バンザイ」をみんなで唱え、「死ぬ気持ちを惜しまないでりっぱに死んでいきましょう。」

と言ってから、一人の年輩の女の先生が、だれかに当たるだろうとめくらめっぽうに手りゅう弾を投げつけました。その中の二コが一人の若い女の先生と女の子にあたり、先生は即死で、女の子は重傷を負いました。

私は校長先生に、

「先生はみんなが死ぬのを見届けてから死ぬようにして下さい。」

と頼んでから、みんながのどがかわいたというので、壕の前を流れている川へ洗面器や、やかんをもって水をくみに行きました。

‥‥

水をくんで壕に戻ると、重傷を負った女の子が、

「おばさん、苦しいよー、水、水‥‥」

と水を要求してきました。傷口からは息がもれて、非常に苦しそうです。その子とかかわっている最中、突然、校長先生が、奥さんの首を切り始めました。すると奥さんの方は切られながらも、

「お父さん、まだですよ。もう少しですよ」

と言っています。

そこら一帯は血がとびちり、帳簿などにも血がべっとりとくっつきました。

校長先生は奥さんの首を切り終えると、先程最後に死んでくれるようお願いしたにも拘らず、今度は自らの首を切ったため、「シューッ」と血の出る音と同時に倒れてしまいました。私達はびっくりして校長先生の名前を呼び続けましたが、もう何の反応もありません。私の着ている服は返り血をあびて、まっ赤に染まってしまいました。

未すいに終わった奥さんは私に、

「お父さんのそばに寝かせて手をくませて下さい」

だとか、

「もし私が死んだら、故郷(佐敷村)に連れて行って下さい」

だとか、後々の事を要求してきました。

最後には、重傷の女の子も息をひき取りました。


(5)宮城初枝『女子青年団』

座間味村字座間味の宮城初枝は、手記『血塗られた座間味島』の著者であり、『母の遺したもの』を著した宮城晴美の母である。宮城初枝が『沖縄県史第10巻』に寄せた手記『女子青年団』(乙9・755頁)には、『血塗られた座間味島』にあった原告梅澤による自決命令は記述されていない。

翌日もその翌日も空襲は烈しく、それに加えて艦砲射撃までが手伝ったため、島全体が揺れ動き、人々の不安を一層かきたてていきました。その頃から軍に手伝いできない老人子供の玉砕が呼びかけられ、青年団は軍の手伝いできない老人子供の玉砕が呼びかけられ、青年団は軍の手伝いのため山に入いり、私たち、友人三人と妹の五人は村長命令で重要書類を忠魂碑前に運ぶことになっていたため皆とは別の行動をとっていました。しかし、それも艦砲射撃の烈しさのあまり思うようにいかないため、一弾でも多くの弾薬を運び、軍に協力してから自決しようということで整備紐帯の壕へ向かいました。その頃、玉砕するはずだった老人子供が、沈黙のまま何処へともなく私達の目の前を通り過ぎて行ったのです。死を覚悟してはいたものの艦砲の烈しさに肝を冷やし死の恐怖と共に生への本能的な執着がよみがえったのでしょう。

二十六日、米軍の上陸が知らされ、その時から白兵戦が始まったようですが、圧倒的な敵に迎え撃つことはできず、後退のやむなきに到りました。そのため晩には部隊命令で軍民男女全員が斬り込み隊となって夜襲を慣行することになったのです。私達五人は斬り込み隊の生存者が集まることになっている稲荷山へ追撃してくる敵を迎え撃つための弾薬運びが命令されました。ちょうどその頃、部落民が各所で自決をはかり、私の家族を含めて惨事が繰り広げられていたことを私達には知るよしもありませんでした。

私達はあの重い弾薬をやっと目的地まで運び、斬り込み隊の生存者が来るのを待ちわびていましたがだれ一人として姿を見せるのはいません。急に不安と淋しさに襲われ、私達のとるべき道が口には出さずともそれぞれの胸のうちですでに決まっていました。自決です。弾薬箱を受け取って出発する間際に、軍曹から万一に備えての手榴弾を一個手渡されていたのでそれを使用することにしました。

焼け残りの椎の木の生い茂る深い谷間を死に場所とし、岩つつじの花束をつくって自決の準備をととのえ、『君が代』を合唱しながら各々家族や友人に別れを告げていよいよ決行となったのです。五人が肩を寄せ合って輪をつくり、中央につつじの花束をそなえ、私が手榴弾の安全装置を解きました。

ところが、一分たち、二分たっても、手榴弾に何の変化もないため、今度は別の一人が私のやり方がまずいということでそれをとり上げ強く叩きつけましたがそれでも破裂しません。皆が交替で思うままに叩きつけてもだめだと知ると、新たな不安と胸さわぎで、ただただ顔を見合わせるばかりです。その頃、米軍のスピーカーがわけのわからない言葉で何やらしゃべっているのが聞こえたため、一層不安になり、今度は裏海岸の絶壁をめがけて無我夢中で走っていきました。

(6)吉田春子『軍と共に』

座間味村字座間味の吉田春子の『軍と共に』(乙9・757頁)によると、米軍の艦砲射撃の中、三中隊の壕に入った吉田春子は、軍と行動を共にしていたが、上陸してきた米兵に隠れていた壕を見つけられ、多量の手榴弾が投げられ、しばらく撃ち合いが続いた

そこで水谷少尉が、

「もうしかたがないから玉砕しよう」と言い出しました。

私達女性は、しばらくすみの方にちぢこまって「きょうまでの命か」と思いつつ戦闘の様子を伺っていましたが兵隊さんたちが玉砕するというのを聞いて、

「私もお願いします。私も」と我れ先に、伏せている兵隊さんたちにおおいかぶさる格好でとびついていきました。ケガした長谷川少尉は、傷が痛みだしたらしく、早く死んで、楽になりたいといった様子です。それを、

「がまんして下さい。兵隊さんたちだけ死ぬような事をしないで、私達も一緒に死なせて下さい」と女の人たちは頼みました。

「これだけ大ぜいいては、手りゅう弾一個では全員死ねないな」とどうして死んだらいいか打ち合わせている所へ、米兵からガス弾が投げこまれてきたのです。急に白い煙がたちはじめたので、兵隊さんたちが、

「ガスだ、ガスだ」

と叫びました。すぐさま、むしろなどをもってガスをあおぎたてながら兵隊さんの毛布を大急ぎでかぶりましたが、急に目がみえなくなり始め、のどがかわき、息苦しくなってきました。その時兵隊さんたちは、

「今のうちだ、自決しよう」

とあわてましたが、どういう心変わりか、水谷少尉は今度は、

「自分が命令を下すまでは絶対に自決をしてはいけない」

といいました。水谷少尉は防毒マスクをかけていながらも非常に苦しそうでした。


(7)金城ナヘ『集団自決とそのあと』

渡嘉敷島での集団自決の当事者であり、目撃者であった渡嘉敷村阿波連の金城ナヘは、その供述録『集団自決とそのあと』(乙9・775頁)の中で、敵米軍の侵攻という特殊状況下における人間の心理と集団自決の実際を如実に物語っている。

大粒の雨が、私たちの行く手をさえぎっていましたが、今、目の前に浮いている山のような黒い軍艦から鬼畜の如き米兵が、とび出して来て、男は殺し、女は辱めると思うと、私は気も狂わんばかりに、渡嘉敷山へ、かけ登っていきました。 

私たちが着いた時は、すでに渡嘉敷の人もいて、雑木林の中は、人いきれで、異様な雰囲気でした。上空には飛行機が飛び交い、こんな大勢の人なので、それと察知したのか、迫撃砲が、次第次第に、こちらに近づいてくるように、こだまする爆発音が、大きくなってきていました。

村長の音どで天皇陛下万才を唱和し、最後に別れの歌だといって「君が代」をみんなで歌いました。自決はこの時始まったのです。 

防衛隊の配った手榴弾を、私は、見様見まねで、発火させました。しかし、いくら、うったりたたいたりしてもいっこうに発火しない。渡嘉敷のグループでは、盛んにどかんどかんやっていました。

迫撃砲は、すぐそこで爆発した。自決しようとしている人たちを殺していた。若い者が、私の手から手榴弾を奪いとって、パカパカ繰り返すのですが、私のときと同じです。

とうとう、この若者は手榴弾を分解して粉をとり出し、皆に分けてパクパク食べてしまいました。私も火薬は大勢の人を殺すから、猛毒に違いないと思って食べたのですが、それもだめでした。私のそばで、若い娘が「渡嘉敷の人はみな死んだし、阿波連だけ生き残るのかー、殺してー」とわめいていました。 

その時、私には「殺してー」という声には何か、そうだ、そうだと、早く私も殺してくれと呼びたくなるような共感の気持ちでした。

意地のある男のいる世帯は早く死んだようでした。私はこの時になって、はじめて出征していった夫の顔を思い出しました。夫が居たら、ひと思いに死ねたのにと、誰か殺してくれる人は居ないものかと左右に目をやった‥‥。


(8)まとめ

これらの手記の数々を読めば、慶良間列島で生じた集団自決を《軍命令による強制》によるものとしか捉えていない被告大江が全く原資料にあたっていないばかりか、その人間理解が、いかに浅薄なものであり、その歴史認識が、いかに事実から遠く、戦後の「残虐な日本軍」という《図式》をなぞるにものに過ぎなかったということがわかるであろう。   

被告大江は『沖縄ノート』の記述は、赤松隊長や原告梅澤を中傷するものではなく、戦後の日本の在りように対する批判である旨陳弁するが(そんなはずはないのであるが、そうだとしても)、およそ事実に基づかない図式的批判が的外れに終わることは必定であり、己の用意した「図式」を堂々めぐりするのは、けだし、当然であった。



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