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原告準備書面(2)全文2006年3月24日その1

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原告準備書面(2)全文2006年3月24日その1








原告準備書面(2)
平成18年3月24日
大阪地方裁判所第9民事部合議2係 御 中           

原告ら訴訟代理人

弁護士  松  本  藤  一
弁護士  德  永  信  一
弁護士  稲  田  朋  美
弁護士  高  池  勝  彦
弁護士  岩  原  義  則
弁護士  大  村  昌  史
弁護士  木  地  晴  子
弁護士  本  多  重  夫
弁護士 中  村  正  彦
弁護士 青 山 定 聖 弁護士 荒 木 田 修
弁護士 猪 野   愈      弁護士 氏 原 瑞 穂
弁護士 内 田   智      弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 勝 俣 幸 洋      弁護士 神 崎 敬 直
弁護士 木 村 眞 敏      弁護士 田 中 平 八
弁護士 田 中 禎 人      弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 田 辺 善 彦      弁護士 玉 置   健
弁護士 中 條 嘉 則      弁護士 中 島 繁 樹
弁護士 中 島 修 三      弁護士 二 村 豈 則
弁護士 馬 場 正 裕      弁護士 羽 原 真 二
弁護士 浜 田 正 夫      弁護士 原 洋   司
弁護士 藤 野 義 昭      弁護士 三ツ角 直 正
弁護士 牧 野 芳 樹      弁護士 森   統 一


第1 座間味島における集団自決の神話と実相


1 梅澤命令説の神話


(1)集団自決の概要

昭和20年3月20日、船舶の投錨地として慶良間諸島(座間味島、渡嘉敷島、阿嘉島)に目を付けた米軍は、いよいよ座間味島の空襲を開始し、3月24日大艦隊を慶良間海峡に進入させ、座間味島に対する艦砲射撃によって全島は鳴動した。米軍の上陸は時間の問題であった。 

座間味島における村民の集団自決は、米軍が座間味島に上陸した同月26日から3日間にわたって起こった。死者の数は172名に及ぶという(甲B1)。 

(2)本件書籍における梅澤命令説の記述

本件書籍一『太平洋戦争』(甲A1)は、この集団自決につき、
「座間味島の梅澤隊長は、老人・子どもは、村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため30名が命を失った」
とし、この悲劇が原告梅澤の命令によるものであるという《梅澤命令説》を記述している。

本件書籍三『沖縄ノート』(甲A3)は、
「慶良間列島にて行われた集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題はこの血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、‥‥。」(甲A3・ 69頁)
とし、《梅澤命令説》に基づく意見論評を行っている。

因みに、同書が引用している上地一史著『沖縄戦史』には、
「渡嘉敷上陸作戦とともにアメリカ軍が上陸した座間味島には梅澤少佐の率いる約一千が守備していたが、二十三日アメリカの空襲がはじまり、翌二十四日には艦砲射撃を受けた。上陸は時間の問題と思われたとき、梅沢少佐は、『戦闘能力のある者は男女を問わず戦列に加われ。老人子供は村の忠魂碑の前で自決せよ』と命令した。」(乙5・51頁)
と典型的な《梅澤命令説》を記述している。 

(3)梅澤命令説の根拠と内容

『沖縄県史第10巻』の解説文を執筆し、そこで《梅澤命令説》を記載した沖縄戦史料編集所主任専門員の大城将保は、『沖縄編集所紀要』に寄せた手記『座間味島集団自決に関する隊長手記』(甲B14・39頁)の解説文の中で《梅澤命令説》を検証している。これによれば、《梅澤命令説》には、二種類の原資料が考えられるという。最も早いものは、沖縄タイムス社発行の『鉄の暴風』(昭和25年)であるが、同書の記述では、「米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた」とあるのみで、具体的な命令内容はみられない。山川泰邦『秘録・沖縄戦史』(昭和33年)には、
「艦砲のあとは上陸だと、住民がおそれおののいているとき、梅沢少佐から突然、次のような命令が発せられた。『働き得るものは男女を問わず戦闘に参加し、老人子供は、全員村の忠魂碑前で自決せよ』」
とある。『沖縄県史第8巻』(昭和47年)では同書を参考にして命令内容が引用されている。『沖縄県史第10巻』では座間味島集団自決の解説文を執筆した大城将保が
「午後従十時ごろ、梅沢隊長から軍命がもたらされた。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し老人子供は村の忠魂碑前に集合玉砕すべし』というものだった」
などと記述したが、当該記述は、『沖縄戦秘録・悲劇の座間味島』(昭和43年)に収録されている宮城初枝の手記『血塗られた座間味島』を参考にして書いたものであった。そして『血塗られた座間味島』の梅澤命令説は座間味村当局が厚生省に提出した『座間味戦記』と題する文書の該当個所を引用したものであるという。山川泰邦著『秘録・沖縄戦史』の記述も、おそらく座間味村から提出された援護関係文書に拠ったものとされている(甲B14・37頁)。 

すなわち、沖縄タイムス社の『鉄の暴風』と座間味村の『座間味戦記』が梅澤命令説の原資料だというのである。

しかしながら、以下に詳述するように、《梅澤命令説》は、原資料の一つである『鉄の暴風』については、これを発行した沖縄タイムス社の牧志伸宏役員室長が「梅沢命令説などについては、調査不足があったようだ」(甲B10:昭和61年6月6日付神戸新聞)と認めているようにもともと根拠のない風説に基づくものであったところ、もう一つの原資料である座間味村の『座間味戦記』は厚生省に援護法の適用を求めるために〝やむを得ず〟捏造された《悲しい方便》であり、宮城初枝の手記『血塗られた座間味島』のそれは『座間味戦記』を引用した〝ウソ〟であった。そのことは、当時座間味村援護係だった宮平幸延の証言(甲B8)と宮城晴美著『母が遺したもの』(甲B6)等によって明らかになっている。 


2 つくられた自決命令


(1)原告梅澤の陳述書

座間味島の集団自決の真相について、原告梅澤の陳述書は、次のように叙述している(甲B1・2頁)。   

問題の日はその3月25日です。夜10時頃、戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が5名来訪して来ました。助役の宮里盛秀、収入役の宮平正次郎、校長の玉城政助、吏員の宮平恵達、女子青年団長の宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です。

その時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ません。
「いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。」

「老幼女子は、予ての決心の通り、軍の足手纏いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。」

「就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。」

その言葉を聞き、私は愕然としました。この島の人々は戦国落城にも似た心底であったのかと。その背景には、昭和19年11月3日、県知事以下各町村の幹部らが那覇の波の上宮に結集して県民決起大会が開かれ、男子は最後の1人まで戦い、老幼婦女子は軍に戦闘で迷惑をかけぬよう自決しようと決議したという経過があったのです(そのような経過があったことは、当時郵便局長であった石川重徳氏より、戦後昭和62年にお聞きしました。)。

私は5人に、毅然として答えました。 
「決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を堀り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。」
と。また、
「弾薬、爆薬は渡せない。」
と。
折しも、艦砲射撃が再開し、忠魂碑近くに落下したので、5人は帰って行きました。

翌3月26日から3日間にわたり、先ず助役の宮里盛秀さんが率先自決し、ついで村民が壕に集められ次々と悲惨な最後を遂げた由です。

これが真実であり、座間味島の集団自決が原告梅澤の自決命令によるものではなかったことは、以下のとおり、すでに明らかな事実として確定していると断定することができる。

(2)昭和60年7月30日付神戸新聞

昭和60年7月30日付神戸新聞(甲B9)は、「絶望の島民悲劇の決断」という大見出し、「日本軍の命令はなかった 関係者の証言」という小見出しの下、
「助役とともに自決の前夜梅沢少佐を訪れた宮城初枝さん(64)」
「軍とともに生き延びた上津幸子さん(63)」
「梅沢少佐の部下だった関根清さん(67)」
らの原告梅澤による自決命令はなかったとする証言を掲載し、
「これまで『駐留していた日本軍の命令によるもの』とされていた」座間味島民の集団自決は、「米軍上陸後、絶望のふちに立たされた島民たちが、追い詰められて集団自決の道を選んだものとわかった。」
と報道した。

掲載された宮城初枝の証言は、
「5人の中では、私がただ一人の生き残り。二十五日に、道すがら助役に会うと〝これから軍に、自決用の武器をもらいに行くから君も来なさい〟と誘われた。この時点で村人たちは、村幹部の命令によって忠魂碑の前に集まっていたが、梅沢少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と、武器提供を断った。」
というものであった。     

(3)大城将保主任専門員の見解

a) 大城将保主任専門員の親書(甲B25の1)

梅澤命令説が記載されている『沖縄県史 第10巻』所収『沖縄戦記録2』の『座間味村』の解説を執筆した大城将保主任専門員は、原告梅澤に宛てた親書のなかで、『沖縄県史 第10巻』の性格と修正の方法につき、次のとおり述べている。

ご承知のとおり、『沖縄県史』第10巻は、沖縄住民の戦争体験を直接体験者から聞き取って文章化した証言記録であります。

したがって、通史的な戦史や戦記とは異なり、一種の資料集であって、ここに記述されている事柄は沖縄県(沖縄史料編集所)の公式見解ではありません。内容についての最終的な責任は証言者および解説者にあります。

‥‥
当編集所では、毎年、『沖縄史料編集所紀要』を発行しており、県史とほぼ同範囲内(公共図書館、県機関、研究所、研究者など)に配布しております。したがって、もし、県史の記述に重要な事実誤認があり、そのため、関係者に多大なご迷惑をおかけするような場合などには、同書に論文や記事を掲載して県史の記述を修正し、研究者およびマスコミ、関係者等に周知徹底することが可能であります。

今回の貴殿のご要望についても、もし責任者(解決執筆者・大城)がその必要性を認めるのであれば、同書にレポートを発表するのが最も現実的で確実な解決方法だと思われます。 


b) 『沖縄史料編集所紀要』所収『座間味島集団自決に関する手記』

大城将保は、前記親書にあったとおり、昭和61年発行の『沖縄史料編集所紀要』に『座間味島集団自決に関する隊長手記』(甲B14・38頁)を発表し、その中で、昭和60年7月30日付神戸新聞(甲B9)が梅澤隊長命令説に疑問を呈したことを契機として、直接原告梅澤や宮城初枝に事実関係を確認する等して従来の《梅澤命令説》を検証し、8頁に及ぶ原告梅澤の手記『戦斗記録』(甲B14・39頁)を掲載した上、次のように記述して『沖縄県史 第10巻』の《梅澤命令説》の実質的修正を行った(甲B14・46頁)。
以上により座間味島の「軍命令による集団による集団自決」の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した「座間味戦記」および宮城初枝氏の「血塗られた座間味島の手記」が諸説の根源となって居ることがわかる。現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明している。
(※引用者註:被告側は、上記述は県史編纂者の記述ではなく梅澤氏の文章であると主張。)

c) 昭和61年6月6日付神戸新聞

昭和61年6月6日付発行の神戸新聞(甲B10)は、「『沖縄県史』訂正へ」「部隊長の『玉砕命令』なかった」の見出しを掲げ、「沖縄県座間味島(島尻郡座間味村)島民の集団自決について、『駐留していた日本軍幹部の命によって行われた』との通史が昨年夏、関係者の証言で覆されたが、沖縄県などが、通史の誤りを認め、県史の本格的な見直し作業を始めた」ことを報じ、大城将保主任専門員の
「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ。‥‥新沖縄県史の編集がこれから始まるが、この中で梅沢命令説については訂正することになるだろう。」
というコメントを掲載している。

(4)宮村幸延元援護係の証言

a)宮平幸延の親書

座間味村遺族会長であり、当時の援護係として『座間味戦記』を取りまとめた宮平幸延は、昭和62年3月28日『証言』と題する親書を原告梅澤に手渡した。親書の証言は以下のとおりである(甲B8)。

    証言  座間味村遺族会長 宮村幸延

昭和20年3月26日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行われた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむを得ず隊長命令として申請した、ためのものであります

右当時援護係 宮村幸延

梅澤裕殿    昭和62年3月28日


b) 昭和62年4月18日付神戸新聞

昭和62年4月18日付神戸新聞(甲B11)は、「命令者は助役だった」「遺族補償得るため『隊長命』に 42年ぶり関係者証言」の見出しを掲げ、「昭和28年から13年間、村役場の総務課長を務め、同村の自決者・戦没者遺族の補償業務に尽力したAさん(65)」の上記証言を紹介し、
「Aさんと厚生省との折衝でも『十四歳未満の自決者遺族については、適用は無理』との判断が下されたが、Aさんは当時の村長らと協議。自決は『部隊長命による』との申請を厚生省に再提出し、この結果、三十一年三月、十四歳未満の自決者遺族についても、法律制定時にさかのぼって補償が支給されるようになった」
と報じ、Aさんとされた宮村幸延の
「米軍上陸時に、住民で組織する民間防衛隊の若者たちが避難壕を回り、自決を呼びかけた事実はあるが、軍からの命令はなかった。戦後も窮状をきわめた村を救いたい一心で、歴史を〝拡大解釈〟することにした。戦後初めて口を開いたが、これまで私自身の中で大きな葛藤があった」
とその胸の内を吐露するコメントを掲載した。

c) 昭和62年4月23日東京新聞

昭和62年4月23日東京新聞(甲B12)も、「村助役が命令」「大戦通史 勇気ある訂正」「弟が証言 補償えやすくするため」の見出しの下、前記神戸新聞と同様の記事を掲載した。

(5)宮城晴美著『母の遺したもの』

a)「『約束』から10年」

梅澤命令説の最も確かな根拠とされていたのは、宮城初枝の手記『血塗られた座間味島』(乙6・39頁)であったが、宮城初枝は生前から原告梅澤の命令がなかった旨のコメントを新聞記事等に寄せていたが、その手記を託された長女・宮城晴美は、これを基にして『母の遺したもの』(平成12年12月6日発行)を著した(甲B5)。

そこには、梅澤命令説が虚偽であり、その虚偽を語ることになった経緯、梅澤命令説が独り歩きを始め、長く良心の呵責に苦しんでいたこと等が詳細に記載されているが同書の序文にあたる「『約束』から10年」には、その要諦が次のように書かれている。  

一〇年前、母は、「いずれ機会をみて発表してほしい」と、一冊のノートを私に託し、その半年後、六九年の生涯を閉じてしまいました。字数にして四百字詰め原稿用紙で約百枚、自らの戦争体験を日を追って具体的につづったものでした。
‥‥
とりわけ、本に収録された手記にあった、当時の座間味島駐留軍の最高指揮官、梅澤部隊長からもたらされたという、「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」の箇所の削除を指示する母の表情には、険しさが感じられました。「座間味の〝集団自決〟は梅澤裕部隊長の命令によるもの」という根拠の一つとされ、母の戦後の人生を翻弄した数行だったのです。

事実はそうではなかった。母は自分の〝証言〟がもとで、梅澤元隊長を社会的に葬ってしまったと悩み、戦後三五年経ったある日、梅澤氏に面会して「あなたが命令したのではありません」と〝告白〟しました。(以上、7~9頁)

b)「母の苦悩のはじまり」

宮城初枝は、援護法の適用のため、厚生省の役人の前で、座間味島の集団自決が原告梅澤の命令によるものであるかとの問いに対し「はい」と答えた。これによって集団自決の犠牲者も戦闘参加者として援護法の適用を受け、補償がなされる道が開かれたが、宮城初枝の苦悩はこのときからはじまった。《梅澤命令説》は厚生省に提出した『座間味戦記』に記載され、やがて独り歩きを始め、流布し定着していった。

貧しいながらも住民の生活が落ちつきだした一九五七(昭和三二)年、厚生省引揚援護局の職員が「戦闘参加(協力)者」調査のため座間味島を訪れたときのこと。母は島の長老から呼び出され、「梅澤戦隊長から自決の命令があったことを証言するように」と言われたそうである。

母が、梅澤戦隊長のもとへ出かけた五人(助役兼兵事主任・宮里盛秀、収入役・宮平正次郎、国民学校校長・玉城盛助、宮平恵達と母の5名)のうちの唯一の生き残りということで、その場に呼ばれたのである。母はいったん断った。しかし、住民が「玉砕」命令を隊長からの指示と信じていたこともあり、母は断れずに呼び出しに応じた。

「援護法」(正確には「戦傷病者戦没者遺族等援護法」)は、軍人・軍属を対象に一九五二(昭和二七)年施行された法律で、翌年には米軍支配下にあった「北緯二九度以南の南西諸島(奄美諸島と琉球諸島)に現存する者」にまで適用が拡大された。それによって、戦没者の遺族や負傷した人などに国から金が支払われることになるが、一般の民間人には適用されなかった。

ところが一九五九年から、旧国家総動員法に基づいて徴用された者、あるいはそれ以外に軍の要請で戦闘に協力して死亡、または負傷した「戦闘参加(協力)者」に、〝準軍属〟という新しい枠がもうけられて、結果的には二〇種のケースに適用されることになった。沖縄関係では、「集団自決」、スパイ嫌疑で日本軍に殺害された人、義勇隊参加、陣地構築、食糧供出、壕の提供、道案内、勤労奉仕などによる負傷者や、死亡者が含まれた。

つまり、一般住民の死者たちに対して、単に砲弾に当たって死んだり米軍に殺されたりした人には補償がなされないが、「日本軍との雇用関係」にあって亡くなったり、負傷した人には補償されるという法律である。したがって、この戦争で亡くなった非戦闘員の遺族が補償を受けるには、その死が、軍部と関わるものでなければならなかった。

その結論を得るまでの作業として、まず厚生省による沖縄での調査がはじまったのが一九五七(昭和三二)年三月末で、座間味村では、四月に実施された。役場の職員や島の長老らとともに国の役人の前に座った母は、自ら語ることはせず、投げかけられる質問の一つひとつに、「はい、いいえ」で答えた。そして、「住民は隊長命令で自決をしたと言っているが、そうか」という内容の問いに、母は「はい」と答えたという。

座間味村役所(一九七二年の復帰後、「役場」に改称)では、厚生省の調査を受けたあと、村長を先頭に「集団自決」の犠牲者にも「援護法」を適用させるよう、琉球政府社会局をとおして、厚生省に陳情運動を展開した。その時に提出した資料「座間味戦記」が私の手元にある…(2行省略)

主語は省略されているが、明らかに私の母の行動と思われる文章が数ヵ所に見られる。そしてこのなかに、「梅澤部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又老人、子供は全員村の忠魂碑の前に於て玉砕する様にとの事であった」というくだりが含まれている。

陳情の成果なのか、一九五九(昭和三四)年、戦闘参加者への「援護法」の適用とともに、慶良間諸島(座間味村、渡嘉敷村)の六歳未満を含む「集団自決」の負傷者や遺族に、「障害年金」「遺族給与金」が支給されるようになった。戦闘参加者に6歳未満を含めたのは、当初は「集団自決」だけで、他の戦争犠牲者には適用されなかったが、全県的な運動もあって、一九八一年以降は、壕の追い出しなどで犠牲になった六歳未満の子どもたちにも適用されている。(以上、250~253頁)        

‥‥ 一九六二(昭和三七)年、農家向けの月刊誌『家の光』で、「体験実話」の懸賞募集の記事を見つけた母は、さっそく、軍の弾薬運びや斬込みの道案内をした体験を書いて応募した。
‥‥
原稿をまとめるにあたり、「自決命令」についてどう記述するか、母はずいぶん悩んだ。落選すれば問題ないが、万一入選した場合は雑誌に掲載されることになっている。「集団自決」で障害を負った人や遺族にはすでに国から年金や給与金が支給されており、証言を覆すことはできなかった。

悩みに悩んでの執筆だったが、母の作品は入選し、翌年の『家の光』四月号に掲載された。そのなかには、「[三月二五日]夕刻、梅澤部隊長(少佐)から、住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人子どもは全員、今夜忠魂碑前において玉砕すべし、という命令があった」と記述されている。村役所から厚生省への陳情に使われた文書を引用したものだった。(以上、254~255頁)

母の体験が『家の光』に掲載されてからも、母のもとには遺族からの問い合わせや戦史の研究者がたまに訪れる程度で、それほど身辺が騒々しいということはなかった。しかし山川氏の本の発行から三ヵ月後の一九七〇年三月二六日、渡嘉敷島の元戦隊長・赤松嘉次氏が二八日に行われる渡嘉敷島の慰霊祭に参加するために沖縄を再訪したことで、事態は一変した。渡島を阻止する民主団体や労働組合の関係者が、那覇空港や泊港北岸に集結して抗議行動を展開したのである。「集団自決命令」の批判は、その後も赤松氏に集中した。そしていつしか「集団自決」が渡嘉敷の代名詞のように使われるのである。

この〝事件〟がきっかけになり、座間味島にも「集団自決」に関心を抱いたマスコミ関係者や研究者、旅行者がひんぱんに訪れるようになった。訪問者は最初に村役所を訪れるが、職員がすべての客を母に差し向けたことで、母は座間味島の戦争の〝語り部〟として客の対応に追われることになる‥‥ (以上、256~257頁)

c)「母の告白」

宮城晴美は、学生時代に『沖縄県史第10巻』(乙9)に収録された座間味島の集団自決の聞きとり調査を手伝ったことがあり、その際確認できなかった《梅澤命令説》を記録から削除した経験があったが、昭和52年3月26日宮城初枝から宮城初枝から「コトの成り行きの一部始終」を打ち明けられ、《梅澤命令説》が「援護法」適用のためにやむを得ず造られた虚偽だったことを知る。

私は学生時代(一九七二年頃)、『沖縄県史10巻』(沖縄県教育委員会)に収録する「県民の戦争体験」の聞き取りで、座間味村の「集団自決」を中心とした調査を手伝ったことがある。その際、「集団自決」で未遂に終わった人のほとんどが、「隊長から玉砕(自決)命令があった」と証言していたことを覚えている。そのことを話題にしたとき、母は「ほんとに、直接隊長からの命令を聞いたのか、どんな状況であったか、その人にもう一度確認してから書きなさい」と言い、私は、証言者それぞれに再確認した記憶がある。

その結果、「役場職員の伝令が来た」「忠魂碑前に集まれと言われたから」となり、「隊長命令」という明確な証言は聞けず、記録からも削除した。おそらく、母は私に事実関係に気づかせようとしたのかも知れない。(以上、258~259頁)

母が私に、「『悲劇の座間味島』で書いた『集団自決』の命令は、梅澤隊長ではなかった。でもどうしても隊長の命令だと書かなければならなかった」と語りだしたのは、一九七七(昭和五二)年三月二六日のことだった。
……
この日は、村主催の合同の慰霊祭があり、出版社に勤めていた私は、取材のため島へ里帰りしていた。

「集団自決」を、仕事として書くためにやってきた娘に、自分の発言がもとで「隊長命令」という〝ウソ〟を書かせてはいけないと思ったのか、あるいは、死者の弔いが「三三回忌」で終わってしまうことを意識してか、慰霊祭が終わった日の夜、母は私に、コトの成り行きの一部始終を一気に話しだした。梅澤戦隊長のもとに「玉砕」の弾薬をもらいに行ったが帰されたこと、戦後の「援護法」の適用をめぐって結果的に事実と違うことを証言したことなど。そして「梅澤さんが元気な間に、一度会ってお詫びしたい」とも言った。梅澤氏については、元兵隊たちから、健在であることを母は聞いていたのである。

しかし、「事実」を公表するには助役の宮里盛秀の名をあげなければならず、それをすれば助役の遺族に迷惑がかかってしまうと、母は苦しみを一人で背負っていた。(以上、260~261頁)

d)「梅澤元戦隊長との再会」

原告梅澤を悪者にしてしまったことで、苦しみを一人で背負ってきた宮城初枝は、1980年12月中旬、宮城晴美と2人、職場近くのホテルのロビーでついに原告梅澤と面会した。宮城晴美は、ホテル内の喫茶室に原告梅澤を案内し、しばらく話したあと宮城初枝を残して職場に戻った。以下は、宮城晴美が宮城初枝から聞かされた話である。

母が梅澤氏に、「どうしても話したいことがあります」と言うと、驚いたように「どういうことですか」と、返してきた。母は、三五年前の三月二五日の夜のできごとを順を追って詳しく話し、「夜、艦砲射撃のなかを役場職員ら五人で隊長の元へ伺いましたが、私はそのなかの一人です」と言うと、そのこと自体忘れていたようで、すぐには理解できない様子だった。母はもう一度、「住民を玉砕させるようお願いに行きましたが、梅澤隊長にそのまま帰されました。命令したのは梅澤さんではありません」と言うと、驚いたように目を大きく見開き、体をのりだしながら大声で「ほんとですか」と椅子を母の方に引き寄せてきた。母が「そうです」とはっきり答えると、彼は自分の両手で母の両手を強く握りしめ、周りの客の目もはばからず「ありがとう」「ありがとう」と涙声で言いつづけ、やがて嗚咽した。母は、はじめて「男泣き」という言葉の意味を知った。

梅澤氏は安堵したのかそれから饒舌になり、週刊誌で「集団自決」命令の当事者にされたあと職場におれなくなって仕事を転々としたことや、息子が父親に反抗し、家庭が崩壊したことなど、これまでいかにつらい思いをしたか、涙を流しながら切々と母に語った。

また母も、戦争で働き手やすべての財産を失った住民が貧しい生活を乗り越えるには、「援護法」を適用してもらうほかなかったことや、助役の家族を苦しめたくなかったことなど、当時の島の状況を詳しく話した。すると氏は、「島の人を助けるためでしたら、私が悪者になるのはかまいません。私の家族に真実が伝われば十分です」と言い、翌日、一緒に座間味島に渡って部下や住民の弔いをすることを約束して別れた。 二人は四時間余りも話し込んだ。(以上、262~263頁)


(6)まとめ

以上のとおり、『母の遺したもの』を一読すれば、被告らが未だに事実だと強弁している《梅澤命令説》が援護法の適用のための方便として〝やむを得ず〟造られた〝ウソ〟であることは明らかであろう。その信頼性は、沖縄史料編集所の大城将保主任専門員が、宮城初枝の生前何度かその話を聞いて原告梅澤の手記が事実であることを確認していること(甲B14・39頁)、援護法の適用のため《梅澤命令説》を『座間味戦記』にとりまとめた宮村幸延遺族会長の証言内容に合致していること(甲B8)、著者の宮城晴美自身が『沖縄県史第10巻』の編纂に関わった歴史家であること等揺らぎのないものである。 

因みに、宮城晴美は、平成17年8月27日那覇市で開催された「座間味島の『集団自決』を考えるつどい」においても、はっきりと「軍命はなかった」旨述べている(甲B13・平成17年8月28日付琉球新報)。


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