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空襲そして艦砲射撃

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中公新書256
名嘉正八郎・谷川健一編
沖縄の証言(上)
庶民が語る戦争体験
中央公論社刊
昭和46年7月25日初版
昭和57年2月1日5版


空襲そして艦砲射撃

北谷村吉原(ちゃたんそんよしはら)
喜友名朝昭(きゆなともあき)
中学一年生十六歳

 昭和十九年の四月に私は開南中学に入学して、その年の十月十日の大空襲があるまで、那覇港近くの垣花(かきのはな)に下宿していました。

 その空襲の日は、私はどうしたわけか那覇にはいませんでした。八、九日ごろ、家に帰っていました。そしてその日、朝の一番の汽車で那覇に向かうときに、ぢょうどいまのキャンプ.クワ工の桑江(くわえ)駅ですな、そこを過ぎたところで、十・十空襲の爆弾が、読谷(よみたん)飛行場に落ちたんです。その飛行機は太平洋からの艦載機だったんでしょうが、那覇をやる組と、読谷飛行場をやる組と、小禄(おろく)飛行場をやる組は、ぜんぜん別々だったと思うんです。

 それまでは、学校も順調ですよ。その日に、那覇商業、一高女、二中などの学校はぜんぶ焼けましてね。うちの学校は焼け残って、あとで陸軍病院になったんです。

 話は前後しますが、それでも汽車はごうごう進みますから、われわれは汽車が北谷の駅にとまったとき、あれは空襲だと騒いだんです。すると車掌は、いいやあれは演習だ、あんな空襲はない、というもんだから、そうかと思い、また汽車は進んで、大山(おおやま)の駅に向かって進行しているとき、途中で日本兵にとがめられたんですね。

 日本兵は汽車をとめて、君らは空襲というものを知らんのかと、ぜんぶ散れと、大山の駅の手前で汽車もわれわれもとめられてですね、午前中釘付げになりましてね。陸上の唯一の大きな輸送はこの汽車しかないですからね、軍としては、この汽車が爆破されるとこまると思って、機関銃や機関砲を持ってきて、敵の飛行機が来たら撃とうと準備していましたがね。しかしアメリカさんは、それを汽車だとは思わなかったんじゃないですか、あんまり小さくて、近寄っても来ませんでしたよ。

 そしてわれわれは、そこで隊を組めといわれて、乗客を各部落ごとに集めて、おじいさんおぱあさんや子供や掃人の方たちを、引率して途中まで送って行ったんです。そしてそこから、それぞれ歩いて、私が家についたのは午後二時ごろでした。県道の樹の下を歩くときは、ゆっくり歩いてもなんでもなかったんですが、樹のまぼらなところをゆっくり歩いたら、なにぽやぼやしているのかと、兵隊がどなるんですよ。

 あくる日に、私が学校に行こうとしたら、警察のほうから、学校には行かなくてもいいという通知があって、家にいましたが、それから四日目でしたかな、私は学校まで歩いて行ったんです。そのとき那覇はまだ燃えていました。那覇の桟橋近くの砂糖会社の砂糖は、一週間ぐらい燃えていましたよ。

 学校に行ったら、先生方がそのうち招集するからといって、それからは一週間に一、二回ぐらい小禄の飛行場にもっこかつぎに、あるいは垣花の丘のガジャンビラ〔地名〕というところですね、あそこの高射砲陣地の建設に、なんどか行きました。その仕事は、陣地構築して土台を作り、擂鉢(すりばち)みたいなかっこうにして、弾を運ぶ連絡の通路を作ったり、ですね。

 そのころの学生の生活はたいへんでした。通学の汽車はもっぽら軍用にされてですね、私は毎朝六里半の道を歩いて、学校に通いました。旧北谷村の字上勢頭(かみせいど)から、識名(しきな)のイニンディ〔地名〕の、馬場(そこが私の学校の仮の場所でしたから)、そこまで、歩いて行ったんです。出発は朝四時ごろから、かばんをさげて、弁当を持って、地下足袋は教練のときははかないとおこられますから、だいじにしてポケットに入れてはかないで、アダンで作ったわらじをはいて、歩いて行きました。わらじは一日に二足か三足は使いましたね、すり切れてしまいますからね。帰り道は、泊(とまり)の天久(あめく)に向かう坂まで来て、そこで待っておって、軍の輸送トラックにぶらさがるんです。そのへんの坂になるとトラックは遅いので走れぼ追いつくぐらいですから、勝手にぶらさがって乗るんですよ。また、おりるときも、坂に来たとき飛びおりるんです。あのころは、団体登校ですからね。私の家がいちぱん遠かったですから、さきに起きてつぎつぎ起こして、五時ごろには五、六人いっしょに出かけました。またあのころは、中学生には米と石油の特配がありました。

 それからあとで、同級生の二百名の中から四十八名は、通信教育を受けました。私もその一人でした。手旗信号は小学校のときすでに覚えていましたから、モールス信号ですね。その教育は二十年の一月から受けて、即席できびしかったですね。もうそのころからは、学校はノータッチですよね。われわれは山(やま)部隊に配属されるということで、山部隊の将校に教育されたんです。それはもう尻をたたく棒を持ってのスパルタ教育でしたね。たとえぽ一週間目からは、中尉がベルを持って、ひとりびとり訓練を受げるんですが、何番、はい、と立つと、ピピーピー、ピーピーピピ、たにかと聞かれて、わかりませんというと、すぐ棒がとんでくるんですよ。その訓練のとき軍曹は棒を持って回っているんですからね。。

 そしてわれわれは、山部隊に配属されるという予定だったものの、どういうわけか、嘉手納までの学生は家に帰されたわけですよ。三月の十五日に。安里(あさと)の一高女あたりから嘉手納までの出身者ですね、首里(しゅり)に一人いるし、宜野湾(ぎのわん)の嘉数(かかず)に一人、宇地泊(うじどまり)に一人、石平(いしんだ)に一人、嘉手納と砂辺(すなべ)に各一人と、私で七名ですね。本線はそれだけで、枝葉のところに何名かいるわけですが、連絡の方法はきめてありました。AはBに、BはCに、CはDにと、きめて帰されたわけなんです。そのために、私は山原(やんばる)に逃げることができずにですね、自分の部落の壕に残って、捕虜になったわけですよ。

 ところが軍の連絡はすぐだめになりました。連絡係のちょうど中間の人が、艦砲の直撃弾を受けて死んでしまって、その人を飛び越えた相手がだれだかは知らないもんだから、連絡ができないわけですよ。それで連絡はとだえてしまったんです。そしてあとまで生き残ったのは、私ともう一人の学生だけでした。

 私が捕虜になるまで残った壕は、上勢頭の私の家の所有にたっていた山にあった、兵隊が掘った壕でした。

 三月二十三日の上陸前の大空襲の日は、私は自分の家の壕にいました。二十五日に山の壕に家族といっしょに移ったんです。そのときの家族は、両親と長男の私と妹と弟二人でした。二十六日に、住民は山原に避難するようにという通達があって、父も母もその決心をしていました。しかし私は、連絡係という意識がありますから、山原に逃げてはならないと思っていました。うちの母は、私も行くものと思っていたんですね、いざ家族が発とうとするとき、いや自分は行けないんだと、短剣も軍から渡っているし逃げるわけにはいかないんだと、私はいいはったんですよ。すると母は、それじゃ私たちもおまえを出征させてからでないと発てないといいだしたわげですよね。結局、私一人を残して逃げ出すことがしのびなかったわけでしょう、たぶん。おまえを出征させてから山原に逃げようと、いやそうしたらまにあわないと、自分一人残っていてもだいじょうぶだからと、私はいったんですが、父も母もきかなかったんですよ。

 そうこうしているうちに、母の親元のおじさんたちが、この壕は横穴で頑丈だからいっしょに入れさせてくれと、頼みにきたもんだから、いっしょになったんです。おじさんたぢは、おじいさんおぽあさんもいっしょでしたから、すぐに山原に行くのはたいへんだと、やはり私が出征してから、馬車を出して行こうと、そういうふうに相談はきまったんです。

 だから私は、はりきって、いつ出征の連絡があるかあるかと待っていたんです。私がぶらぶらしているとき、ちょうど約一キロ離れたコザの山内(やまうち)という部落に日本軍がいて、そこの大きな五つ星の鉄血勤皇隊が、私に使役を頼むということだったんです。もう上陸はまちがいないから、山内と上勢頭のあいだにある石橋をこわさなけれぼならないと、それで私も一つ星の鉄血勤皇隊になってその手伝いをしたんです。

 二十八日に、私は二中の一年生といっしょに、敵機が嘉手納・読谷あたりを空襲しているのを、山のてっべんにすわって見ていたんですよね。すると二人を見つけたのか、四、五機ぐらいずつの編隊を組んだ敵機が三十機ぐらいつぎつぎに低空して、私たぢの方へ機銃掃射を約十分ぐらいしたんです。そのとき、私のかぶっていた戦闘帽の上の方を弾が貫通したんですよ。そして二人がちちこまっているとき、敵の飛行機が一機落ちたんです。日本軍の高射砲の弾があたったんでしょうな。私たちは敵の飛行機が落ちるのを見たもんだから、二中生は自分の壕に逃げて、私はまた落ちた飛行機の方へ走って行ったんですよね。行ってみたら、飛行機はグラマンで、ぽんぼん燃えていたんですよ。燃えているそぱまで行ってみたら、血の垂れている跡があるもんだから、私はその血を追って行ってみたんです。そしたら他人(ひと)の屋敷のかたすみに、包帯の切れっぱしとヨードチンキのびんが捨てられてあったんです。そのへんを私はなにも武器は持っていないのに夢中でさがしてみたんですが、人影らしいものは見あたらないんですよね。それで私は近くのキビ畑に石を投げてみたり、もういちど屋敷の中をさがしてみたりしたんですが、物音一つしないんですよね。それから私は燃えているグラマンのところへもどってみました。飛行機は機関銃弾か燃料タンクかなにかときどき小さく爆発しよるんですよね。

 私は約二十分間そのままその燃えるのを眺めて、やっと燃えるのがおさまったもんだから、後ろ側からならもうだいじょうぶだろうと思って、よじ登ってゆっくりゆっくり降りて、操縦席のところをのぞいてみたら、髪の焦げたようなにおいがするんですよ。人間が焼け死んでいるなあと思ったんですが、毛布が焦げていたんですよね。その毛布をどけてそこいらをさがしてみたら、伐採用の平べったいなたがあったんですよ。青竜刀みたいなそのなたを見つけて、私はああ上等があったと思い、それを腰にぶらさげてね、得意になってぶらぶらしていたんです。そのときに、日本兵に発見されたんですよ。でも、もう少しで、私は銃殺されるところでした。

 日本兵は六名でしたが、ちゃんと着剣して構えて、わずか五、六間(けん)さきまで近寄ってきていたんです。私、がひょっくり見たら、日本兵が抜刀して、きらきらさせて、私に向かってねらいを定めているもんだから、私はあわてて帽子を振ったんですよ。

 それから私は日本兵にいろいろと質間されました。それで私は松田という少尉に見たとおりのことを報告したんです。少尉は感心したようにうなずいてから、じゃ命令する、グラマソの翼にある機関銃を取れ、というんですよ。上空では敵機が旋回しているし、兵隊たちは隠れるし、道具はないし、飛行機は爆発するかもわからないのに・・…。でも私ははりきっていましたから命令に従って、つるはしを借りてきて、飛行機の翼をこわして、機関銃を四門取り出して、そして兵隊たちも手伝ってみんたで部隊に運んだんです。

 それからあとで、集まってきた人たちも手伝って、機関銃の弾を出したんですが、出しても出してもじゃんじゃん出てくるんですね。それは馬車の荷台一ばいありましたよ。部隊ではよくやったとほめられましてね、一階級特進だといっていました。私は鉄血勤皇隊の一つ星でしたから、二つ星になったわけでした。それから部隊長は、君に明日頼みたいことがある、用件は明日発表する、といっていました。

 あくる日は、壕からぜんぜん出られないぐらいの空襲でしたね。そして二十九日の晩ですね、兵隊も入れて四十名、まっくらやみですからだれがだれやらわからたいんです。ただ番号だげで呼んで、私たちは地雷を持たされてですね、いまの第一ゲート付近、北谷小学校の近くに埋めに行ったんです。みんな地雷を背負って、頭から木の葉をかぶって行きかけたんです。つるはしやシヤベルを持って、一列に並んで、縄を引いて、一定の間隔をおいてですね。私は道案内もかねていたので、一番でした。ときどき照明弾が上がると、みんな伏せてですね。それから目的地にみんないっしよに穴を掘って、まず一番から、二番三番と、ひとりずつ埋めてから、一番よし、と帰ってくると、二番よし三番よし、とつぎつぎに踏まないように注意されていました。その作業は明け方の四時ごろまでかかりましたね。

 それから後は、昼は一歩も壕から出ませんでした。夜は、食糧さがしに出たりしていました。私は青竜刀みたいななたを持っていましたから、使ってみたい気持があって、それでよくキピ畑にキピを切りに出かけました。

 三十一日でしたね、昼、米軍のちょうど昼食時間の十二時ごろですよ。アメリカはおもしろいことに、戦争であっても昼食時間はきまっていて戦いませんよ。艦砲もやむし、空襲もないし、もうそのころから私たぢはそのことが勘でわかっていましたから、その一時間ぼかりを私は利用しようと思ったんです。いまのうちに鶏でもつぷしてこようと思って、私は自分の家に走って行ったら、鶏小屋は爆風でやられてめちゃくちゃになっていて、鶏は屋敷のまわりに逃げていました。その鶏をつかまえるのに時間がたってしまって、鶏を三羽つかまえて持って帰るときは、もう砲弾の中ですよ。その途中で、弾が私の前に飛んできたんですよ。あの弾がもし破裂しておれぱ、私はまちがいなく死んでいて、いまこんな話もできないわけですが、運がよかったんですね。ちょうど三メートルぐらい離れたところに、直径四セソチ長さ二十五センチぐらいの砲弾がパッと落ちてきたんですよ。そこはイモ畑の中でしたが、とつ普ん耳がつぶれて聞こえなくなったみたいに、熱い風がふわツと来ただけで、私は思わず伏せて、そして起きてみたら弾が目の前に落ちていたんですよ。

 それから私は、びっくりして鶏を放り投げたまま逃げて、百メートルぐらい離れたところまで逃げてから、くぽみのところで、あの弾がいつ爆発するかなあ、と待っていたんです。おかしいなあ、時限なのかなあ、と長いこと待っていても爆発しないもんですから、鶏がおしくなって、這(は)って行って鶏を取って壕に帰ったんです。

 壕には、もう日本兵はいませんでした。うちの家族とおじさんの家族だけでした。四月一日はずっと昼中は壕の中にいたんですが、昼休みのとき、私だけは高い木に登って、海の様子を見ているんです。ああいっぽいアメリカの軍艦が来ているなあ、小さい舟が浜辺の方へ往き帰りしているなあ、と思って見ていました。しかしそれが上陸だとは思っていませんでした。三十一日は上陸するところをじゃんじゃん艦砲射撃していましたが、一日は上陸するところより奥地の方を、午前中と午後に分けて、セスナ(債察機ですな)あれで上空から指令して攻撃しているようでした。

 それから私は、もういちど、まだ鶏が家に四、五羽残っているのを取ってこようと思ってですね、夜になってから出かけたら、途中でですね、まっくらい中に、何か大きな黒いものがあるんですよ。たしかそこには家はなかったんだがなあ、なんだろう、と私はイモ畑の中に立ちどまって眺めていました。いったんは離れて反対側からしゃがんで眺めて、それでもなにかわからないので、這って近寄ってみたとき、パッと明るくなって、それは戦車だったんですよ。そしたら急に、ライトが動いて、機関銃の音が聞こえたんですよ。私はあおむけに寝てじっとしていたんですが、英語みたいな声が聞こえたもんだから、すぐ崖の下にころげ落ちて、夢中で逃げて、這って他人(ひと)の屋敷をくぐりぬけて、やっと自分の壕に帰ったわけです。私は両親やみんなに、へんだったと、どうもアメリカが上陸Lているらしいと、話したんです。みんなびっくりして、じゃどうするかと、家族会議したわけですよ。明日、朝にでも確かめてみてから、山原に逃げようときめたんです。それでも私は内心一人残るつもりでした。

 そして翌朝、七時ごろに、おじさんの子供が便所に行きたいというもんですから、おばさんが壕の前の便所につれて行こうとしたら、すでに壕の近くにアメリカー〔アメリカ兵のこと〕がいたんですね、おぼさんはびっくりして引き返してきていました。

 おじさんはハワイにいた人で、英語が話せましたから、こうなったらどうしようもないといって、おじさんが出て行って、アメリカーと話をしてきて、私に説明していました。民間人なら、壕から出てきなさい、出ればどうもしないし食糧も与える、もし出なけれぱ壕を爆破するんだと、そういっているから出たほうがよいということでした。私は武装した服装でしたから、みんなにすすめられて、上着を脱ぎ捨てて、丹前に着替えてですな、そしておじさんのあとにつづいてみんな出て行ったんです。

 みんた出てみたら、アメリカーたちは笑っていました。私の頭はくりくり坊主だったもんだから、アメリカーはおもしろがってなでたりたたいたりして、いたずらするんですね。私は驚きな、がらも、このクソタレと思っていましたね。私のアメリカ兵にたいする最初の印象といったら、ほんとに化け物みたいな奴らだと思いましたよ。ポケットもばかでかいし、鉄かぶともぶかっこうだし、だれが上官だかもわからないし、そして黒人にはほんとにびっくりしましたね。それでも私は、チャンスがあったら彼らの機関銃を奪ってやろうと考えていました。

 アメリカ兵がいうには、ここは危険だからみんな浜辺につれて行くと、おじが通訳してくれて、みんなトラツクに乗せられました。父と私だげは、別のトラックに乗るようにいわれました。そこから約1キロメートルの上陸地点に向かって進み、着いたところは砂辺の収容所でした。そこは周囲に杭が打たれバラ線で囲まれていました。そぱには医務室代りのテントが二つありました。

 私と父はそこに入れられて、どうなることかと、また家族のことを心配していたら、しぼらくして家族づれの人たちがはいって来ました。私と父がはいる前に、すでに二人の捕虜が砂の上にしゃがんでいました。一人はおばあさんで、もう一人は兵隊らしい男で、その人は裸になっていて下は半ズボンをつけて、バンドはしていませんでしたね。それから最初に私の父が呼ぱれて、アメリカ兵からいろいろと尋問を受けたそうですが、父はとぽけて、日本語はぜんぜんわからんふりしたそうです。そこで二世はしゃくにさわったらしく、私を呼んで、父の言葉を通訳しろといっていましたが、私がわざとちんぷんかんぷんに答えると、おまえまでぱかかとどなっていました。父は帰され、こんどは私にいろいろと質問しました。

 おまえは兵隊だったんだろうと、いや学生だったと、じゃどこの学生だったかと、私はいちおうほんとうのことを説明しました。そしたら、くわしい沖縄の地図を出して見せて、おまえの学校の生徒には山部隊の通信隊に配属されたものがいるはずだが、知らないかと、聞かれて私はびっくりしましてね。いやぜんぜん知らないと、私はなにも知らないと答えました。その日の尋問は三時問もかかりましたよ。二世は見た感じは日本人で、沖縄語は知らないようでした。尋問のあいだに、すかすようにCレーションという携帯用の罐詰(かんづめ)の食糧を与えられましたね。

 いったんは帰されて、家族も喜んでいたんですが、私はまた呼ぼれたんです。行ってみたら、別の将校がまた尋問するんですよ。浦添(うらそえ)の高地ですね、そこの地図をさして、ここには石(いし)部隊の何々部隊がいるはずだが、君は知らないか、となんども質問をあびせました。私はうそをついて、十月十日以後は、学校には行かずにずっと家にいたからなにも知らないと、しらを切ったんです。そしたら、トラックに乗せられて、ズケラン〔瑞慶覧〕に行ってですね、そこから双眼鏡でみせ、ちょうどそのとき嘉数の高地を攻撃しているんですね、あの高地には石部隊が何百名いて、あそこには機関砲と機関銃が何門あるはずだが、実際にはどうなのか、見たことはないかと、また質問をくり返すんですよ。私はいや見たことはない、なにもわからないと答えたもんだから、アメリカーもあきらめたんでしょうね、それだけで帰されました。

 戦況を見せられ、質問が終わって帰ったときは、収容所には新しい捕虜が二、三十名にふえていました。それからは、怪我人がGMCで運ぼれてきたりして、私はその世話をする手伝いをしました。しかしたいへんだったのは、食事で、米軍は配給はしないし、みんなほとんど食糧を持って来ていませんでしたからね。だから私は二世に頼んで、ちょうどそのころはキャベツとニンジンの時期ですよね、みんなひもじくしているから、畑から野菜を取りに行きたいがいいかと、それじゃいっしょに行こうやと、いうことになって、四、五名で若い女の人もいっしょになって野菜を坂りに行ったんです。その日は、鍋(なぺ)もないし、みんな生で食べましたよ。そこは砂浜の上ですから、じかに寝るので、明け方は寒くてですね。

 三日目になると、捕虜は四、五百名にふえてきました。そこでまた二世に頼んで許可を受けて、みんなで手分けして部落の壕から鍋やら米やらをさがしだしてきて、ご飯をたいて、みんなににぎり飯を配給して暮らしましたね。そこには一週間いましたが、つぎつぎと死人がたくさん出て、二、三百体を、私たちは埋める作業もしたんです。戦車につけたプルドーザーで細長く穴をあけてですね、私たちが死体を運んで並べると、すぐブルドーザーで土をかぶせていましたね。

 それから一週間したら移動ということになって、砂辺から島袋(しまぶくろ)までみんな歩かされましたよ。そのときはもう三干名ぐらいになっていました。

 島袋に来てからは、なんといっても食糧不足が間題でした。とにかく、食糧をさがしに行かないと餓死するというわけで、私は日本軍の壕に食糧があるのを知っていましたから、そこへ行って米や罐詰などを取ってきたんです。割当てられて収容された家には、足をのばしてすわる余地もないぐらい、六畳に何十名も入れられていましたから、食糧はいくらでも必要だったわげです。私は運よく馬を見つげたもんだから、日本軍の壕から味噌のたるを二十個ぐらい運んだんですよ。その馬は、あとでMPが欲しがって煙草四ボールと強制的に交換させられました。ところがおもしろいことに、その馬はアメリカ兵が近寄ると、あぼれていましたね。それから三日目に、男はみんな広場に集まれという命令が出て、一万人ぐらいの中から四十名ぐらい働きざかりの男たちが選び出されて、私も父もその中に入れられ、特別収容所に入れられました。

 特別収容所も同じ島袋の民家でしたが、囲いがされていて、普通より大きな一軒家で、そこの母屋(むーやー)とアサギ〔離れ〕と馬小屋を使っていました。MPがいつも監視して、いちいち朝夕点呼していましたね。しかしそこでは、食糧の不自由はなく、まただれかはどこからか三味線をさがし出してきて、ひいたりして、沖縄歌を歌っている人もいました。私などまだ少年でしたから、夜など二、三名で屋根にのぼって遊んでいましたよ。ただ仕事だけは、まったくいやな仕事でした。朝は六時に起床して、七時半にトラックに乗せられ、いまの第一ゲート近くに行って、そこでアメリカ兵の死体を洗ったりする仕事でしたよ。頭がないのを、これと合うかなあと、合わせてみたり、ちぎれた手を爪をみて左右合わせてみたり、それから洗って、認識番号をつけたり、布で包んだり、広場に穴を掘って埋めたりしていました。そしてそこに、一体ずつ十字架を立て、十字架を整然と並べた墓地を作ったりしました。それから、米軍のテントの周辺のみぞさらいをしたり、また日本軍の兵器・砲弾を集めて、海上トラックにのせて、海に沈めに行ったりしました。

 そういう作業をずっとつづけて、六月の末に避難民が島袋から移動させられるとき、四、五日先にキャンプ作りとして、私たちは宜野座村(ぎのざ)の福山(ふくやま)に送られました。最初の十日間は、毎日、山の中に木を切りにやらされましたね。ところがわれわれは、もうアメリカ兵のためには働きたくない気持でしたからね、どうせその材木はアメリカ兵が使うのだと思って、また怠けようと思えばいくらでも怠けられたので、山にはいったら、監視の目をのがれて山の下の方で寝てばかりいましたよ。アメリカ兵は、日本の敗残兵をこわがって二、三名かたまって山の上の方にいましたから、われわれは昼食時間のときだけ木を一本持って行って、また午後も一本だけ持って引きあげましたよ。ところが、あとでその材木はわれわれのためのものだとわかって、もっと働いておけばよかったと思いました。われわれが切り出した材木で、病院とか孤児院とか、配給所や学校や養老院といった施設を建てたんです。あとの個人個人の家は、みんな自力で作ったんです。そのころになると、MPはきびしくなくなって、昼は一回か二回監視に来るだけでした。夜は絶対に外出禁止になっていました。こっちももうなれたもので、夜、だれかが島尻(しまじり)〔沖縄本島南部の総称〕に食糧揚げに行こうかという話になると、よし行こうと私たちはたびたび出かけました。あるとき島尻の壕の中に、米俵やら日本刀を見つけ出して、私は七振りの日本刀を米俵の中に突っこんで、手榴弾八十発ぐらいもいっしょに運んできました。いざとなったら、日本軍のもり返しのために、それらの武器を役だてるつもりでしたよ。

 そうこうするうちに、八月十五日がきて、負けたことがはっきりしたわけですが、やんちゃのさかりでしたから、夜になると日本刀をさげて手榴弾を二、三発持って、山の中に遊びに行きましたよ。山の中では、日本の敗残兵ニ人とも会いました。その人たちのために、私は一ヵ月ぐらい毎晩食糧運びをしましたよ。それがいつのまにか、日本兵は山の中の約束の場所に来なくなっていました……。


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