• atwiki
  • 15年戦争資料 @wiki
  • 4-09 さきに日本政府は「日韓請求権・経済協力協定で補償問題はすべて解決ずみ」と考えているといったが、これにたいし韓国政府はどういっているのか…

15年戦争資料 @wiki

4-09 さきに日本政府は「日韓請求権・経済協力協定で補償問題はすべて解決ずみ」と考えているといったが、これにたいし韓国政府はどういっているのか…

最終更新:

pipopipo555jp

- view
メンバー限定 登録/ログイン


4-09 さきに日本政府は「日韓請求権・経済協力協定で補償問題はすべて解決ずみ」と考えているといったが、これにたいし韓国政府はどういっているのか…


  韓国の李相玉外相は「この問題は当時の請求権交渉では論議されなかった」だから「補償をすべきだ」という姿勢だ。当時とは一九六五年のことで、たしかにそこでこの問題は論議されていない。

  いっぽう昨年十二月六日東京地裁へ訴訟をおこした元従軍慰安婦ら原告団は「その協定でも"個人の請求権"は消滅していない。政府間の交渉はできないかもしれないが韓国国民個人は日本政府に補償を要求できる」と主張している。

  裁判の結果がどうなるかはわからないが、日本政府は「裁判に訴える権利という意味では"個人の請求権"はある」としつつ「日本政府の補償義務は同協定で消滅している」のだから訴えの棄却を求めていくもののようだ。はたしてそれでいいのか。韓国の市民団体はこの従軍慰安婦問題を国連人権委員会へ報告するところまできている。

  韓国離散家族会の李斗勲会長の「日本がすすんで過去の問題を解決しなければ、いくら国際貢献のためといっても自衛隊の海外派遣に対しわれわれの不安は消えない」という言葉を私たちは重く受けとめねばならないだろう。日本政府は逃げてはいけないのだ。われわれも「いまさら過去のことを」とか「戦後生まれの私たちに関係も責任もない」などといってはいけないのだ。日本という国はアジアの国にひどいことをしてきたのだから。

  従軍慰安婦問題だけではないが、従軍慰安婦問題はそれをもっとも象徴するものであった。ところがその従軍慰安婦の発想は、語ってきたように荒れた将兵、とくに略奪から暴行へ走る将兵を鎮静化させるためということだったが、一九四五年八月十五日無条件降伏となり米軍を主力とする占領軍が日本本土へ進駐してくるとなったとき、進駐してくる占領軍が日本軍のかつて中国大陸などでやったのと同じことを日本国内でやることをおそれた日本政府は、そっくりの制度というか施設をあわてて国内でもつくっていった。

  それは日本軍が侵略した土地でどんなことをやったかの逆あかしでもあったが、八月十五日午後、当時の大蔵省主計局長だった前尾繁三郎(後、衆院議長)、主税局長だった池田勇人(後、総理大臣)の二人がまず政府資金でもって占領軍相手の慰安所をつくることを話し合っている。

  同じことは当時の警察機関の総元締めである内務省でも考えられており両者が話し合ったすえ、内務省が売春業者を集め特殊団体をつくる、そこへ政府保証で日本勧業銀行(第一勧銀の前身)から三千三百万円を無担保で融資し進駐してくる占領軍専用の慰安所をつくり併行してその金で慰安婦を集めるということをしていった。

  当時の三千三百万円は今日の数千億円にあたる。その特殊団体の名称は「レクリエーション・アミューズメント・アソシエーション」(略称、RAA)とされ、八月十八日には内務省警保局長名で全国の警察部長から末端の署長までそこで働く慰安婦集めに協力せよとの指示が出された。関特演のとき朝鮮総督府が全朝鮮の警察機関に出した指示と同じだ。

  この結果、わずか十日そこそこで二万人の女性が集められたと報告されている。RAAをつくったのは売春業者だが、かつての従軍慰安婦集めのときと同じで商売道具だから彼らは自分たちが抱えている売春婦は出さない。

  集められたのは戦火で夫はじめ家族を失った未亡人、家を焼かれ住む所がなくなったうえ家族とも別れ別れになった女性、身よりのない戦争未亡人だったとこれも報告されている。

  そして八月二十八日占領軍の第一陣が神奈川県厚木に到着する日に開業とされたが、この日集められた売春婦の代表三百人を天皇陛下のいる宮城(皇居)前へ整列させ

 「時あり命(めい)下り予(かね)てのわれらが職域を通じ、戦後処理の国家的緊急施設の一端として進駐慰安の難事業を課せられる。命(めい)重く且(か)つ大なり、同志血盟して信念の命ずる処(ところ)に直従(ちょくじゅう)し"昭和のお吉"38)幾千かの人柱の上に、狂欄(きょうらん)を阻む防波堤を築き、民族の純血を百年の彼方に護持せんとす」

と内務省代表が訓示している。

  米軍の進駐が八月三十日にのびたので正式開業もその日までのばされたが、慰安婦のほうはその後の警察やRAAの努力で三万人にまでなっていった。これだけの慰安婦を差し出すから一般婦女子に手を出さないでくれということだった。

38) 昭和のお吉(しょうわのおきち)
ここでいう"お吉"とは、江戸後期、幕府の命令でアメりカ領事ハリスの妾にされ、「唐人お吉」として伝説化された人物のことである。占領軍から日本の治安を守ろために、政符公認の慰安婦は、お吉のごとく国の人柱となれ、という意味を、この言葉に込めたのである。しかし、手本とされたお吉自身は、ハリス帰国後、人々の潮笑をうけ、悲惨な晩年を送り、失意のなか自殺したと伝えられている。



コメント欄

名前:
コメント:

すべてのコメントを見る
目安箱バナー