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3-01 日本の敗戦後その従軍慰安婦たちはみな帰国できたのか…

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3-01 日本の敗戦後その従軍慰安婦たちはみな帰国できたのか…


  若干事例をのぞきほぼ全員が現地に棄てられた。もっとも悲惨だったのはビルマ戦線だったとされている。ビルマの北端から中国領雲南省まで侵出させられた歩兵第百四十八連隊の玉砕とともに玉砕していった従軍慰安婦のことは話したが、それにつづくインパールの敗戦、さらに大敗走となっていった段階ではこれも触れたことだが足手まといになると防空壕に入れ手榴弾(てりゅうだん)で殺害した話も伝わっている。敗戦となったときには南部ビルマに体ひとつで逃げてきた従軍慰安婦が群がつていた。軍がこれを「以後勝手にしろ」という形で棄てているなどその代表的事例だ。数は数百人だったというが正確な記録はここでもない。

  若干の事例とは、このとき幾人かの召集軍医35)が「いくらなんでもこれはひどい」と彼女らを篤志(とくし)看護婦、つまり自ら志願し戦傷病兵の看護にきた女性とし従軍看護婦のグループに入れ復員船にのせ日本に連れて帰っていることだ。数はせいぜい数十人だ。福岡県久留米市で内科小児科医院を戦後ひらかれていた小林元軍医少尉はその代表だが、三十八人を広島県呉市まで連れて帰ったと語っておられた。広島に戦後すぐできた朝鮮人連盟の人たちへ呉港で引き渡したとも語っていた。

35) 召集軍医(しょうしゅうぐんい)
大学病院、一般病院に勤務中もしくは開業医として一般国民の医療に従事しているところで召集され、戦場に赴かされた医者のこと。

  ボルネオ島にあった海軍の根拠地隊で司令をつとめていた辻橋文吉海軍大佐は一九四五年(S20)一月に敗戦を予測し、最後の病院船に頼みこみ可能なかぎりの従軍慰安婦をのせ日本内地へ送り返したが、敗戦時それでも六十人の朝鮮人従軍慰安婦と十人の日本人従軍慰安婦がいた。そこで「この女性は女子軍属である」と運合軍をいつわり全員すべて復員船にのせ帰国させている。

  そのとき「こんなになって恥ずかしくてもうくにには帰れない」という朝鮮人従軍慰安婦に「祖国は新しい国の誕生に一人でも同胞を待ちこがれているはずだ」といい軍に代わって詫(わ)びをいったというが、こうした事例はきわめて少数だ。

  くりかえすが大半は現地に置き去りという形で棄ててきた。

  マニラ市には一九四四年(S19)十月一日現在で朝鮮人従軍慰安婦三百数十人、フィリピン人従軍慰安婦四百数人、日本人従軍慰安婦六十数名がいたが、米軍のルソン島上陸を前にフィリピン人従軍慰安婦は全員を「以後勝手にせよ」と慰労金もあたえず放遂、朝鮮人日本人従軍慰安婦は食糧品や軍需物資と交換で南方第十二陸軍病院に篤志看護婦名儀でおしつけていた。その南方第十二陸軍病院もルソン島北部の山獄地帯でこの従軍慰安婦たちを見棄てていったという。人肉事件までおこった山獄地帯である。

  同じフィリピンのルソン島南部にいた第八十一旅団では三十数人の朝鮮人従軍慰安婦と数名の日本人従軍慰安婦へ「部隊はこれから命によりマニラ東部山獄地帯へ移動する。お前たちは後から部隊を追及せよ」といいすて全員を駐屯地に残したまま米軍上陸を前に逃げていっている。




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