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2-03 戦地で慰安婦たちは危険にさらされなかったのか…

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2-03 戦地で慰安婦たちは危険にさらされなかったのか…


  中国戦線の警備地区、防禦(ぼうぎょ)陣地でまわりを囲った所へ配属された慰安婦たちには直接的な戦闘による危険はなかったが、第一線のそれも日本軍が劣勢にたたされている地区へ配属された慰安婦たちは危険以上の危険にさらされた。

  たとえばビルマの北端から中国領雲南(うんなん)省の騰越(とうえつ)地区まで侵出した第五十八師団の歩兵第百四十八運隊(三千二十五人)に配属された約六十数名の従軍慰安婦だ。この騰越地区はインド東北部から中国へ軍需物資を運ぶ滇緬公路(てんめんこうろ)という道路が走っているところだったが、一九四四年(s19)突如米軍武装備をもった約5万の中国軍が米空軍の支援を受けつつこの部隊に襲いかかってきた。

  連隊はその地区の拉孟(らもう)、芒市(ぼうち)、龍陵(りゅうりょう)に分散していたが、つぎつぎに玉砕、たった一人の衛生兵伍長を残し全員が戦死した。ここで慰安婦たちも玉砕している。そのさい日本人従軍慰安婦が「あなたたちは逃げなさい」と朝鮮人従軍慰安婦を逃したという話も伝わっているが、ブーゲンビル島では日本軍の降伏後二人の骨と皮になった朝鮮人従軍慰安婦が米軍により救出されている。

  この従軍慰安婦はブーゲンビル島の東八百キロにあり、送りこまれた三万人の日本軍将兵のうち二万が餓死もしくは半餓死で死亡したガダルカナル島へ一九四二年配属されることになった。ブーゲンビル島沖で輸送船が撃沈され命からがら同島へ泳ぎ着いた十数名(十七人ともいう)の従軍慰安婦の生き残りだった。同島もガダルカナル島と同じ飢餓の島となったが奇跡的に生きのびた人だった。敗戦後に米軍の手でラバウルまで連れてこられたとき連合国軍との連結将校をしていた元軍医大尉が確認している。

  ビルマに話をもどすと騰越地区の玉砕、インパール作戦30)失敗以後日本軍はなだれをうって敗走するが、このとき足手まといになる従軍慰安婦を防空壕へ入れ手榴弾(てりゅうだん)をなげて殺した部隊もあったという。殺さないまでも全員を放置したので彼女らは体ひとつで戦場を逃げ回り、中には生まれてすぐの赤ン坊を背中にしばりつけたのもいたと二人の軍医が語っている。


30) インパール作戦(いんぱーるさくせん)
一九四四年三月~七月に行なわれた、ビルマ(現・ミャンマー)からインドヘの侵攻作戦。この戦いで日本軍は参加兵力、約十万のうち五万を失って大きく敗退した。




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