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第7 挺身隊という用語の頻出と軍慰安婦動員

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【小目次】

第7 挺身隊という用語の頻出と軍慰安婦動員


1 1930年代以降、日本は戦争を遂行するために


  1930年代以降、日本は戦争を遂行するために韓国から「報国隊」や「学徒動員」「徴用」などの形で労働力を動員した。短期間の労働力奉仕は「報国隊」という名前で、長期間の動員は「挺身隊」という名前で動員され、1941年から1945年までの間に、様々な「挺身隊」が組織され、労働力動員がなされた。

  「挺身隊」と名付けられたものには、「内鮮一体挺身隊」「国語(日本語)普及挺身隊」「報道挺身隊」などがあった。「挺身隊」は男性又は混性で構成されていたが、女性のみで構成された場合に、「婦人農業挺身隊」「特別女子青年挺身隊」「女子救護挺身隊」のように「婦人」または「女子」がつけられていた。このように様々な「挺身隊」が組織され、頻繁に使用されていた。

2 様々な方法による民衆支配にもかかわらず、


  以上のように、日本政府や朝鮮総督府による様々な方法による民衆支配にもかかわらず、朝鮮民衆の間には、日本の行為に対する疑いや抵抗が幅広く存在した。

  そして、それは、人道に対する罪であることの明らかな軍慰安婦を広範囲にわたって連行するに及んで「処女供出」として当時の朝鮮民衆に根深い恐怖を引き起こしたのである。慰安婦の総数については、8万とも、朝鮮人だけで「推定17万~20万」とも書われているが、実数は明らかではない。日本軍は戦争犯罪の追及をおそれ、敗戦直後に重要な資料を焼却しており、現在残っているものも政府が資料を公開しないため実数を確定することは困難である。学者による推計によれば、慰安婦総数として8万~20万人というのは、「そ う多くない数」と評価されている(吉見義明『従軍慰安婦をめぐる60のウソと真実』30頁)。そして本件の動員が行われた戦争末期の朝鮮では、「処女 供出」という言葉が広く流布していた。1944年、総督府は一層ひどくなった労働者不足に対応するため、「女子遊休労働力の積極的活用」という名目で女性の動員を行うこととし、新規学卒者と満14歳以上の未婚者の全員動員体制を確立しようとした。このなかで、次のような事態も発生していた。

3 勤労報国隊の出動をも斉しく徴用なりとなし、


  「勤労報国隊の出動をも斉しく徴用なりとなし、一般労務募集に対しても忌避逃走し、或いは不正暴行の挙に出ずるものあるのみならず、未婚女子の徴用は必至にして、中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言巷間に伝わり、此等悪質なる流言と相侯って、労務事情は今後益々困難に赴くものと予想せらる」(吉見『従軍慰安婦』101頁、引用の内務大臣講義『朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正の件』)」

  14歳以上の未婚の女性はすべて動員されるだけでなく、慰安婦にされるという噂が相当に広がっていたことがわかる。4月から8月にかけて、朝鮮人男性に対する第一回の徴兵検査が行われ、8月には未婚の女性(満12歳以上40歳未満)を軍需工場で働かせるための女子挺身勤労令が出されたので、未婚の女性はすべて慰安婦にされるという噂がひろがる条件が十分にあった。この噂は、若い女性をパニックに陥れ、経済的に余裕のある家庭では、娘を女学校から退学させて田舎に隠したり、いそいで結婚させたりしていた。

  しかも実際に官と結託した軍が慰安婦を動員する際、他の労働力動員と同様に、「挺身隊」や「奉仕隊」という名前を付けた場合や「挺身隊」として労働力動員を名目にして騙して軍慰安婦にされた場合なども存在した。そのため、本件の朝鮮女子勤労挺身隊動員が行われた時には、すでに朝鮮国内においてこれらの噂が広範囲に広がっていたのである。


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