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第5 朝鮮人戦時労働力動員を可能にした背景

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【小目次】

第5 朝鮮人戦時労働力動員を可能にした背景


1 朝鮮農村部の生活状況 ―経済的収奪と貸金の民族差別、性差別―


  それでは、本件を含む朝鮮人戦時労働力動員を可能にしたのは何か。その第一に挙げられるのは、朝鮮農村部の窮乏と極めて困窮した生活である。

  1929年(昭和4年)、アメリカに起こった大恐慌は日本にも及び輸出が激減し、企業の倒産から農村へも恐慌は波及した。植民地にも波及し、朝鮮・台湾の米、満州大豆の大暴落、満鉄は創業以来の不振に陥った。

  朝鮮ではこの恐慌による打撃に加えて、恐慌の損失を朝鮮人からの収奪によって埋め合わせようとした日本の資本家・地主のために民衆の困窮の度は一層大きくなった。1930年秋、農産物の価格は前年の約半分に下落したのに、小作料・租税・水利組合費は引き上げられ、化学肥料等の価格の高騰と併せて朝鮮農民の零落を促した。

  1913年当時、全農民の32・4%であった小作農は、1920年には39.8%に、1930年には46.55%に、1939年には52.44%に増大した。土地を失った農民は山に入って焼畑農業をする火田民や都市の 土幕民(スラム民)となったり、日本や中国関島、シベリア沿海州などに流出した(朴慶植『日本帝国主義の朝鮮支配 上』(青木書店)91~92頁)。

  小作農民の生活は苦しく、朝鮮総督府もその生活について、「これらの農家の大部分は、年々歳々端境期に於いては、食料の不足を告げ、食を山野に求めて草根木皮を漁り、辛うじて一家の糊口を凌ぎつつあるもの亦少なくないのである」と指摘している(山田・古庄・樋口『朝鮮人戦時労働動員』(岩波書 店)134頁)。

  工場の朝鮮人労働者に対しては民族差別と性差別が加えられ、平均賃金は、日本人男子、日本人女子、朝鮮人男子、朝鮮人女子の順で低くなり、朝鮮人男子の賃金は日本人男子の賃金の47%、朝鮮人女子の賃金は26%、日本人女子の賃金と比較しても52%にすぎなかった。


2 強権的な支配体制の確立


  朝鮮人戦時労働力動員を可能にしたその第2の要因は、植民地朝鮮における強権的な支配体制にある。

  植民地となった8年後の1918年に朝鮮全土に警察署99か所、巡査駐在所532か所設置されたものが、1919年には響察署251か所、巡査駐在所は2,354か所となった。警察官の数は、1932年に19,328人であったのが、1941年には23,269人にまで増員されている。この駐在所の所長の地位は面長より高く、面で一番権力を握っている存在であった。

  それに加えて、戦時体制づくりに伴って、朝鮮における日本軍は逐次増強されていった。これまで6カ所におかれていた兵事部は徴兵制施行のための1943年兵役法の施行とともに各道道庁の13カ所に兵事区が置かれることになった。また、軍事警察機関の朝鮮憲兵隊は、憲兵司令部を京城におき、京城・大邱・光州・平壌・成興・羅南に憲兵隊管区が置かれた。

  このように朝鮮全土にわたって軍隊および憲兵の支配が行われていたのである。逆らおうにも逆らうことができない強権的な支配体制が敷かれていたのである。

3 皇民化政策


  このような力による支配に加えて、朝鮮人を自ら進んで日本に協力させるよう変えるための政策が、皇民化政策である。

  総力戦体制の下、植民地の人々を直接、間接に戦争に動員する体制が必要になると、植民地下の朝鮮人や台湾人に「帝国臣民」としての意識を抱かせるための「皇民化政策」の推進が切実な課題となった。

  朝鮮では、日中戦争とともに南次郎総督が「内鮮一体」を提唱し、全面的な戦時動員体制が構築された。1937年、「皇国臣民ノ誓詞」が制定され、 「私どもは大日本帝国の臣民であります、私どもは心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします。私どもは忍苦鍛錬して立派な強い国民となります」という三箇条を随時斉唱するよう強制され、一つの面(村)に必ず一神社に置く計画が 遂行され、神社参拝が強制された。1940年には、「創氏改名」が実施され た。創氏は強制され、改名は任意とされたが、実際には改名も必須とされ半年 間で8割が日本名に変えられた。創氏改名は、天皇の赤子としての臣民は、天 皇を長とする家族の一員であり、天皇を中心とする家族に朝鮮人民を組み入れ るための措置として強制されたのである。これは、植民地支配の安定のために 被支配者の心を支配し、自発的服従を狙ったものである。

(1)皇民化教育


  控訴人らは、一段と強化された皇民化政策、皇民化教育のまっただ中で小 学生時代を過ごした。

  皇民化教育は、次のように実施された。

  韓国併合直後の1911年8月に公布された朝鮮教育令では、教育勅語に 基づく教育方針、日本語の普及を明記し、忠良なる皇国臣民の育成などを掲 げており、後の皇民化教育の骨格はこの時点から定められていた。

  1919年の3.1独立運動後に改正された朝鮮教育令では、普通学校に おいて、国史(つまり日本史)、地理を必修科目とし、高等普通学校におい て朝鮮語を随意科目とし、日本語教育を強化するという制度に改めた。そし て、1922年2月には、新教育令を公布し、師範学校、大学に至るまで日 本と同一の学校制度、教育制度を採用するに至った。1938年の朝鮮教育 令の改正により、当時の日本人に対する方針と同じ教育方針の下に、教授用 語も日本語とし、日本語教育の徹底を図るものとされた。日本語教育は、「皇国臣民タルノ自覚ヲ固クシ知徳ヲ啓発スルヲ以テ要旨トス」と位置づけ られた。この段階で、国体明徴、内鮮一体、忍苦鍛錬が教育の三大綱領とさ れた(甲B19号証)。

  1941年に朝鮮教育令が改正され、小学校を国民学校とする国民学校規 定が公布された。続いて1943年3月の朝鮮教育令の改正により、国民学校、中等学校、高等・専門学校、師範学校等を体系化して「皇国の道に則る国民錬成」を一貫目標とし、軍事教練、労務動員を大幅に取り入れるなどして戦時体制を強化していった。

  このような皇民化教育が狙うものは、被支配者の心を支配し、自発的に服従させることである。この皇民化教育を幼い時から受け、自らの血肉とし、人格形成の最初において刷り込まれたのは控訴人らである。何故、戦争中の日本に幼い少女が親の反対を押し切って朝鮮女子動労挺身隊員に応募しようと考えたのか、そこには貧しさと向学心だけではない、皇民化教育の成果として挺身隊に応募することを通じて、天皇陛下のために国に忠誠を尽くすことの正義を疑いもなく受け入れていたという事実が大きく起因しているのである。いわば批判精神が生まれる前の幼子に対するマインド・コントロールが行われたのである。

(2)国民総力朝鮮連盟の活動


  皇民化政策を推進するためには、皇民化教育を進めるだけでは十分ではなかった。1938年当時の朝鮮の小学校の就学率は、男女含めてわずかに33.2%に過ぎず、義務教育制ではない初等教育の皇民化教育だけでは全朝鮮人の皇民化は達成できなかった。

  そのため、1938年、「国民精神総動員朝鮮連盟」を発足させた。同連盟は、総督府の補助機関として位置づけられ、10戸を標準とする「愛国 班」を基礎として、世帯主を通じてほぼ全人口を掌握した。この「愛国班」が宮城遥拝、神社参拝、国旗掲揚などの未就学者を含む全朝鮮人の皇民化政策の推進を担ったのである。この「愛国班」は、物資の配給単位としても機能し、民衆の日常生活のすべてを統制した。

  同連盟は1940年、「国民総力朝鮮連盟」に改組された。この「国民総力朝鮮連盟」が戦時労働力動員の責任を負わせられた。朝鮮総督府が1942年に決定した「労務動員実施計画による朝鮮人労務者の内地移入斡旋要 綱」には、「職業紹介所及府邑面は常に管内の労働事情の推移に留意精通し、 供出可能労務の所在、及供出時期の緩急を考慮し、警察官憲、朝鮮労務協会国民総力団体、その他関係機関と密接なる連絡を持し、労務補導員と協力の上割当労務者の選定を了するものとす」と定められていた。ここにいう「国民総力団体」が「国民総力朝鮮連盟」を指し、「労務補導員」は企業から派遣された。つまり、朝鮮人労働者を集めて選定し、企業の代理人に引き渡すまでの業務を朝鮮総督府側の職業紹介所や府・郡・島とその下部の邑・面が引き受けたのである。その内、労働事情の調査と労働者選定の任務を部落連盟に負わせ、選定が終わると、府・郡・島は労働着を隊に編成し、隊長を任命し、出勤以前に労働者に団体訓練を施すこととし、これが終わって企業の代理人に朝鮮人が引き渡されたのである(山田・古庄・樋口 『朝鮮人戦時労働力動員』94頁)。つまり、皇民化政策の徹底から戦時労働力動員まで朝鮮人の部落の有力者が実行させられたのである。このような村落の末端にまで及ぶ支配体制を通じて、植民地朝鮮人は支配されていたのである。



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