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第3 日本の戦争と植民地の拡大、総力戦の準備

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【小目次】


第3 日本の戦争と植民地の拡大、総力戦の準備


1 日本の植民地は、日本が行った戦争とともに拡大していった。


  日本の植民地は、日本が行った戦争とともに拡大していった。日清戦争の結果、1895年の「下関条約」によって台湾の領有が認められ、日本で最初の植民地となった。つづいて、日露戦争の結果1905年に「ポーツマス条約」が結ばれ、日本はサハリン島南部の割譲と遼東半島の租借権、長春以南の鉄道利権の譲渡を受け、サハリン島に樺太庁をおき、遼東半島にはのちに関東庁、関東軍をおいた。そしてすでに見たように1910年に「韓国併合条約」を大韓帝国に結ばせ、朝鮮総督府を設置した。さらに第一次大戦により日本海軍が占領したドイツ領南洋群島(ミクロネシア)が、1920年日本の委任統治領となり、22年には南洋庁が設置された。1930年代に入り、31年の満州事変を契機として、翌32年に日本が実権を握る傀儡国家「満州国」を建国した。

  以上のように、戦争の都度、日本の植民地は拡大し、その面積は日本本国の約4倍、総人口は本国の人口に匹敵するほどの規模になった。


2 このように戦争によって獲得した植民地は、


  このように戦争によって獲得した植民地は、日本人が血で購ったものであるという論理で、日本の民衆は、植民地の獲得、膨張を支持した。対華21ヵ条要求に対する日中間の世論の状況について、石橋湛山は次のように記述している。「此間の日支両国の輿論は如何であったかと云うに、支那が国民を挙げて、大反対運動を行ったことは申すまでもない。彼等は実に之を以て支那破滅の大事件として痛憤し、其の愈よ成案となるや、国辱の極として深慨した。之に対して日本の輿論は、殆ど新聞という新聞、論客という論客が、日本の要求を正当とし、之に承諾を与えざる支那政府を誠意なしとして罵った。其実彼等の多くは、我要求の内容性質が如何なるものであったかと、正確に知っていたわけではない。唯だ多大の血と国幣とを費して独逸より奪える膠州湾を、支那は無条件で還付せよと主張する、日清日露戦役を経、非常の苦心を払いて経営し来れる南満地方の我特殊の位地を支那は認めぬ、実に暴慢無礼であると云うような、粗硬な感情論であった。」(石橋湛山「所謂対支二十一個条要求の歴史と 将来」東洋経済新報1923年4月21日付)

  このような日本の世論はメディアによって煽り立てられていった。

  国民の意識・精神を戦争へ向けて統合するために、活字・図像に音声・映像を加えたメディアが、その威力を発揮した。しかしメディアは真実を伝えるのではなく、軍部・政府の意のままに、国民をだます役割を果たし続けた。ラジオは、大本営発表を流し続け、戦意高揚の歌や曲を流し、新聞は日々の報道だけでなく、号外を配って国民を煽り、大活字の見出しや写真、音声を伴った動く映像で国民の意識を操作した。満州事変勃発直後の新聞各紙の見出しは、 「奉軍満鉄線を爆破、日支両軍戦端を開く 我鉄道守備隊応戦す」「両軍衝突の原因? 支那軍満鉄線を爆破 わが守備隊を襲撃す」「燦として輝くわが軍の威容」「正義の前に支那軍殆ど壊滅」「悪鬼の如き支那暴兵!我軍出動遂に掃討」(江口圭一『十五年戦争の開幕』(昭和の歴史4)85頁以下)と、正義は我が軍、悪鬼は支那軍であるとの意識が植え付けられた。満州事変が関東軍の謀略であったことは今日では歴然としているが、当時の国民はこのようなメディアによる煽動によって事実を知らず、正義の戦争として侵略戦争を支持し煽り立てていったのである。


3 日本は満州事変で遼寧、吉林、黒竜江の東北三省を占領し、


  日本は満州事変で遼寧、吉林、黒竜江の東北三省を占領し、1932年3月国民党による統一国家建設の途上にある中国から分離して、傀儡国家「満州国」を設立した。

  中国における国民革命の進展によって、日露戦争以来の日本の満州における権益が動揺していることに対抗し、革命勢力を満州から排除するためであった。中国は国際連盟に提訴し、連盟が派遣したリットン調査団が、日本の自衛権の主張や満州の「独立」を認めず、満州を中国主権下の自治地域として国際管理下におくことを提唱した報告書を発表するや、軍国主義と排外主義を強めた日本社会では連盟脱退論がわき起こり、1933年3月、日本は国際連盟を脱退した。


4 第一次世界大戦によって、ヨーロッパ各国は、


  第一次世界大戦によって、ヨーロッパ各国は、それまでの戦争が限定された戦場での軍隊同士の衝突であったという性格から、交戦国の国民がその総力 (経済力、軍事力)を挙げて戦うものへと性格を変貌させた。日本は、第一次大戦に参戦こそしたものの、総力戦体制をとるほど戦争に巻き込まれなかったが、軍部は第一次世界大戦に学び、きたるべき戦争は国家総力戦になると考えそのための研究と準備に着手していた。1918年には軍需工業動員法が公布され、軍需局が設置され、1927には内閣に資源局が設置され、軍需資源の調査と動員の準備が進められ、総力戦に向けての国民動員、思想統制と軍事教育が試みられた。



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