元朝鮮人女子勤労挺身隊員に対する損害賠償等請求控訴事件・控訴人準備書面(1)
ソース:http://www.geocities.jp/teisintainagoya/kouso/kousokeika/zyunbi1.pdf
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【小目次】
第2 朝鮮の植民地化の過程
1 日清、日露の戦争
日清、日露の戦争は日本の自衛戦争であったという議論がされることがあるしかし、事実に即して検討するとこのような側面よりも侵略的な側面が強いことがわかる。そして、清国、ロシアとの関係だけでなく、朝鮮の民衆との関係 に着目すれば、「自衛」が口実にすぎず、朝鮮という他国に対する「侵略」であったことが明らかとなる。
2 朝鮮の支配権争奪戦としての日清戦争
1875年、日本は軍艦を「調査船」として釜山に派遣し、武力で威嚇して 朝鮮の開国を迫った(江華島事件)。この結果、日本は朝鮮との間で「日朝修好条規」を締結したが、ここには領事裁判権(外国人が、現在住んでいる国の 裁判権に服さず、本国の法にもとづいて本国領事の裁判を受ける権利)を認め る規定が設けられただけでなく、関税自主権どころか一切関税をかけることを許さない規定すら入っていた。欧米との関係で自ら不平等条約の解消を外交の最大目的としていた日本が、自らの不平等条約を上回る不平等条約を押しつけたのである。
その後の、日清戦争でも、朝鮮の支配をめぐって清国と日本との間で朝鮮を 戦場として闘われた。世界の大方の予想とは異なり、日本が日清戦争に勝利し た結果、1895年4月、下関で「日清講和条約」が訴印された(甲B第5号証76頁)。その第1条は、「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因て右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全くこれを廃止すべし」と定め、①朝鮮の独立、②遼東半島台湾の割譲、③二億両の賠償金などを含む下関条約が締結された。ここでいう独立とは清国からの独立を意味した。講話交渉の過程で、清国は日本も朝鮮の独立を確認すべきことを要求していたが、日本はそれを拒否し、清国からの独立だけが条約中に規定された。日本との関係では、独立どころか日本は朝鮮において特別権益が認められるようになり、これが日韓併合につながっていった。
3 朝鮮の支配権をめぐる日露の戦争(日露戦争)
清国が後退した後、日本は露西亜との間で朝鮮の支配権をめぐって争った。1902年の日英同盟の締結によって、日本はその地位を確固としたが、日英同盟協約第1条において英国が清国に、日本が韓国に特別の利益を有することを相互に承認した(甲B第5号証88頁)。1903年、日露戦争に際して天皇が発した「露国に対する宣戦の詔勅」は、日露戦争が韓国をめぐる戦争であることを明確に認めていた(甲B第1号証89頁)。また、日露戦争が自衛戦争ではなく、韓国の獲得競争であったことは、1905年9月5日調印の 「日露講和条約」第2条に、日本の韓国支配が明記されたことからも明らかである(甲B第5号証92頁)。
これにより日本は韓国の保護国化を進め、1905年(明治38年)の「第二次日韓協約(乙巳保護条約)」で韓国を保護国とした(甲B第1号証119頁)。
4 朝鮮植民地戦争
「第二次日韓協約」で韓国の外交権を奪い保護国とした日本は、1907年には韓国軍隊を解散し、各部次官に日本人を配置して行政権を実質的に掌握 (1908年)し、司法権の委任(1909年)など、韓国直接支配の体制を着々と築き上げていった。
当時、韓国には、日本の軍隊として、戦時編制の陸軍二箇師団(3万6000名)、海軍二箇分遣隊が常駐し、郡庁所在地や各停車場には守備隊が配置されていたが、これに加えて、1624カ所15,000名を超える憲兵警察が配置されていた。それでも、併合条約調印の際には、軍隊をソウルに集結させ、各城門、王宮、統監・司令官・大臣などの邸宅を厳重に警戒・監視し、調印の日にはソウルの町を日本の憲兵が巡回し、朝鮮人は二人で話をしていても尋問を受けるという厳戒の中で「併合条約」が締結された。併合条約が日本による軍事的な包囲の中で締結されたということは忘れられてはいけない。
しかし、日清戦争や日露戦争の結果のみで植民地化を語るのは、戦争当時国、つまり、強国同士の関係でのみ語っているに過ぎない。朝鮮の民衆との関係でそれを語れば、日韓議定書から韓国併合に至るまで、一貫した日本の植民地化のための侵略戦争とこれに対する抵抗の歴史であった。
1907年から1911年にかけての抗日義兵闘争における交戦回数は合計2852回、参加義兵数合計14万1815人にのぼっている。また、1906年から1911年にかけての抗日義兵闘争における死者は、日本側136人に対し、義兵側1万7779人(推計)となっており(大江志乃夫『日露戦争と日本軍隊』394~395頁)、朝鮮の植民地化をめぐって闘われた植民地戦争の本質が何であったのかを物語っている。