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「慰安婦」を「女子挺身隊」というは単純な勘違いか

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平成17年(ネ)第374号元朝鮮人女子勤労挺身隊員に対する損害賠償等請求控訴事件控準人 朴海 玉 外6名 被控訴人国外1名控訴人準備書面(1) 2006年3月8日名古屋高等裁判所民事第3部 御中控訴人ら訴訟代理人弁護士内河惠一外〈 目次 〉第1 本件は何を問うものか? ……………………………………………………‥2第2 朝鮮の植民地化の過程 ………………………………………………………・4第3 日本の戦争と植民地の拡大、総力戦の準備 ……………………………‥6第4 アジア大陸への侵略の兵端基地化および日本国内の食糧、労働力の供給地化………………………………………………………………………………………9第5 朝鮮人戦時労働力動員を可能にした背景……………………………‥10第6 朝鮮人戦時労働力動員の一般朝鮮人の受け止め方 ………………………15第7 挺身隊という用語の頻出と軍慰安婦動員……………………………‥16第8 朝鮮女子勤労挺身隊動員の特殊性……………………………………‥171
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第9 控訴人らの被害 ……………………………………………………………‥20第10 裁判官の「良心」と本件の証拠調べの必要性 ………………………‥21記 第1 本件は何を問うものか?1 本件の法的争点と判断の前提として不可欠な事実 (1)本件は、戦前、日本が、三菱重工と一体となって、植民地とした朝鮮から少女らを欺岡して日本に連れてきて、軍需工場で劣悪な環境と差別の下、自由を奪われた強制的な労働に従事させ、それにより身体や心に深い傷を負わせたにもかかわらず、当初の約束に反して貸金の支払いも受けられない状態で着の身着のままで朝鮮に帰し、戦後は、事実に関する調査、公表もしないまま、少女らを軍慰安婦との同一視被害に苦しむことを余儀なくさせた、その被害につき、苦しめられてきた被害者らが日本国政府と三菱重工を相手に損害賠償を請求している事件である。 (2)この簡単な要約からもわかるように、本件の加害事実は、戦前における当時の大日本帝国と三菱重工が行なった朝鮮人の戦時労働動員と戦後の同一視被害の 放置という二つの行為により、被害者が人生を奪われるような重大な被害を受けたということであり、この加害行為について日本政府および三菱重工に法的責任が問えるかということが本件訴訟の中心争点である。(3)この法的な責任の有無の判断の前提として、上記二つの加害行為について、故意・過失と違法性の有無が問題となる。そして、不法行為における違法性が加害行為の態様と被侵害利益の相関関係で決せられるという相関関係税(通説)からすれば、少なくとも違法性判断の前提として、戦前の行為については、被控訴人である当時の大日本帝国政府がいかなる計画の下に朝鮮人戦時労働動員をどのように計画し実行したのか、そのことに三菱重工を始めとする労働動員を受け入れた企業がどのような関与をしたのかが、被控訴人らのそれぞれの2
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故意・過失および違法性要件の判断にとって必要不可欠である。控訴人らが求めている植民地支配の実態と朝鮮人戦時労働動員に関する証拠調べが本件の審理に欠かせない理由である。2 被控訴人らの責任について(1)もとより、本件で問われているのは、一つは、戦時労働動員であり、そこに被害があった場合(本件では肉体的な被害、精神的な被害の両面が存在する)、当該加害行為を行った者に対する少なくとも民事上の責任追及と被害に対する 賠償が必要となる。不法行為における公平性の回復の要請によるものである。前者は加害行為の責任追及であり、戦争に対する責任(いわゆる戦争を引き起こしたという人道に対する罪ではなく、戦争中の違法行為に対する責任である)の問題である。(2)後者の被害者に対する賠償は、国家としてあるいは企業としての法的義務の負担の問題である。この問題についての義務を負うべき主体に限って言えば、現在の日本国は、国家として同一性を保ったまま、かつての大日本帝国の正負の全ての遺産を承継することになる。したがって、戦前の行為についても大日本帝国が負うべき責任について現在の日本国がその責任を負うこととなる。また、三菱との関係でも、戦前の三菱が実態として現在の三菱と同一性があると評価できれば被控訴人三菱が戦前の行為についても責任を負うことになる。組織や団体としての被控訴人らが法的な責任を承継するのは当然のことである。(3)同様に植民地支配によって被害があった場合に、その植民地被害の加害責任を当時の大日本帝国が負うべきであれば、日本政府がその責任を承継することとなる。本件における戦前の控訴人らの被害事実は、形式的には韓国併合によって植民地とされた結果、「皇国臣民」とされ、その植民地における支配機構を通じて、その権力を背景にして、島民化教育の成果として朝鮮女子挺身隊への参加を決意させられ、その撤回を不可能にさせられたことである。さらに経済的に3
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も参加を促す状況が存在した。その意味で、本件の朝鮮女子勤労挺身隊動員を 可能ならしめたのは、日本による当時の朝鮮植民地支配の実態と強く関連しているのである。以下、植民地化の過程、植民地支配と本件動員との関係および他の戦時労働力動 員と朝鮮女子勤労挺身隊動員との異同について論述する。第2 朝鮮の植民地化の過程1 日清、日露の戦争は日本の自衛戦争であったという議論がされることがあるしかし、事実に即して検討するとこのような側面よりも侵略的な側面が強いことがわかる。そして、清国、ロシアとの関係だけでなく、朝鮮の民衆との関係 に着目すれば、「自衛」が口実にすぎず、朝鮮という他国に対する「侵略」であったことが明らかとなる。 2 朝鮮の支配権争奪戦としての日清戦争 1875年、日本は軍艦を「調査船」として釜山に派遣し、武力で威嚇して 朝鮮の開国を迫った(江華島事件)。この結果、日本は朝鮮との間で「日朝修好条規」を締結したが、ここには領事裁判権(外国人が、現在住んでいる国の 裁判権に服さず、本国の法にもとづいて本国領事の裁判を受ける権利)を認め る規定が設けられただけでなく、関税自主権どころか一切関税をかけることを許さない規定すら入っていた。欧米との関係で自ら不平等条約の解消を外交の最大目的としていた日本が、自らの不平等条約を上回る不平等条約を押しつけたのである。その後の、日清戦争でも、朝鮮の支配をめぐって清国と日本との間で朝鮮を 戦場として闘われた。世界の大方の予想とは異なり、日本が日清戦争に勝利し た結果、1895年4月、下関で「日清講和条約」が訴印された(甲B第5号証76頁)。その第1条は、「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因て右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼4
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等は将来全くこれを廃止すべし」と定め、①朝鮮の独立、②遼東半島台湾の割譲、③二億両の賠償金などを含む下関条約が締結された。ここでいう独立とは清国からの独立を意味した。講話交渉の過程で、清国は日本も朝鮮の独立を確認すべきことを要求していたが、日本はそれを拒否し、清国からの独立だけが条約中に規定された。日本との関係では、独立どころか日本は朝鮮において特別権益が認められるようになり、これが日韓併合につながっていった。3 朝鮮の支配権をめぐる日露の戦争(日露戦争)清国が後退した後、日本は露西亜との間で朝鮮の支配権をめぐって争った。1902年の日英同盟の締結によって、日本はその地位を確固としたが、日英同盟協約第1条において英国が清国に、日本が韓国に特別の利益を有することを相互に承認した(甲B第5号証88頁)。1903年、日露戦争に際して天皇が発した「露国に対する宣戦の詔勅」は、日露戦争が韓国をめぐる戦争であることを明確に認めていた(甲B第1号証89頁)。また、日露戦争が自衛戦争ではなく、韓国の獲得競争であったことは、1905年9月5日調印の 「日露講和条約」第2条に、日本の韓国支配が明記されたことからも明らかである(甲B第5号証92頁)。 これにより日本は韓国の保護国化を進め、1905年(明治38年)の「第二次日韓協約(乙巳保護条約)」で韓国を保護国とした(甲B第1号証119頁)。 4 朝鮮植民地戦争 「第二次日韓協約」で韓国の外交権を奪い保護国とした日本は、1907年には韓国軍隊を解散し、各部次官に日本人を配置して行政権を実質的に掌握 (1908年)し、司法権の委任(1909年)など、韓国直接支配の体制を着々と築き上げていった。当時、韓国には、日本の軍隊として、戦時編制の陸軍二箇師団(3万6000名)、海軍二箇分遣隊が常駐し、郡庁所在地や各停車場には守備隊が配置さ5
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れていたが、これに加えて、1624カ所15,000名を超える憲兵警察が配置されていた。それでも、併合条約調印の際には、軍隊をソウルに集結させ、各城門、王宮、統監・司令官・大臣などの邸宅を厳重に警戒・監視し、調印の日にはソウルの町を日本の憲兵が巡回し、朝鮮人は二人で話をしていても尋問を受けるという厳戒の中で「併合条約」が締結された。併合条約が日本による軍事的な包囲の中で締結されたということは忘れられてはいけない。しかし、日清戦争や日露戦争の結果のみで植民地化を語るのは、戦争当時国、つまり、強国同士の関係でのみ語っているに過ぎない。朝鮮の民衆との関係でそれを語れば、日韓議定書から韓国併合に至るまで、一貫した日本の植民地化のための侵略戦争とこれに対する抵抗の歴史であった。1907年から1911年にかけての抗日義兵闘争における交戦回数は合計2852回、参加義兵数合計14万1815人にのぼっている。また、1906年から1911年にかけての抗日義兵闘争における死者は、日本側136人に対し、義兵側1万7779人(推計)となっており(大江志乃夫『日露戦争と日本軍隊』394~395頁)、朝鮮の植民地化をめぐって闘われた植民地戦争の本質が何であったのかを物語っている。第3 日本の戦争と植民地の拡大、総力戦の準備1 日本の植民地は、日本が行った戦争とともに拡大していった。日清戦争の結果、1895年の「下関条約」によって台湾の領有が認められ、日本で最初の植民地となった。つづいて、日露戦争の結果1905年に「ポーツマス条約」が結ばれ、日本はサハリン島南部の割譲と遼東半島の租借権、長春以南の鉄道利権の譲渡を受け、サハリン島に樺太庁をおき、遼東半島にはのちに関東庁、関東軍をおいた。そしてすでに見たように1910年に「韓国併合条約」を大韓帝国に結ばせ、朝鮮総督府を設置した。さらに第一次大戦により日本海軍が占領したドイツ領南洋群島(ミクロネシア)が、1920年日本6
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の委任統治領となり、22年には南洋庁が設置された。1930年代に入り、31年の満州事変を契機として、翌32年に日本が実権を握る傀儡国家「満州国」を建国した。以上のように、戦争の都度、日本の植民地は拡大し、その面積は日本本国の約4倍、総人口は本国の人口に匹敵するほどの規模になった。2 このように戦争によって獲得した植民地は、日本人が血で購ったものであるという論理で、日本の民衆は、植民地の獲得、膨張を支持した。対華21ヵ条要求に対する日中間の世論の状況について、石橋湛山は次のように記述している。「此間の日支両国の輿論は如何であったかと云うに、支那が国民を挙げて、大反対運動を行ったことは申すまでもない。彼等は実に之を以て支那破滅の大事件として痛憤し、其の愈よ成案となるや、国辱の極として深慨した。之に対して日本の輿論は、殆ど新聞という新聞、論客という論客が、日本の要求を正当とし、之に承諾を与えざる支那政府を誠意なしとして罵った。其実彼等の多くは、我要求の内容性質が如何なるものであったかと、正確に知っていたわけではない。唯だ多大の血と国幣とを費して独逸より奪える膠州湾を、支那は無条件で還付せよと主張する、日清日露戦役を経、非常の苦心を払いて経営し来れる南満地方の我特殊の位地を支那は認めぬ、実に暴慢無礼であると云うような、粗硬な感情論であった。」(石橋湛山「所謂対支二十一個条要求の歴史と 将来」東洋経済新報1923年4月21日付)このような日本の世論はメディアによって煽り立てられていった。国民の意識・精神を戦争へ向けて統合するために、活字・図像に音声・映像を加えたメディアが、その威力を発揮した。しかしメディアは真実を伝えるのではなく、軍部・政府の意のままに、国民をだます役割を果たし続けた。ラジオは、大本営発表を流し続け、戦意高揚の歌や曲を流し、新聞は日々の報道だけでなく、号外を配って国民を煽り、大活字の見出しや写真、音声を伴った動く映像で国民の意識を操作した。満州事変勃発直後の新聞各紙の見出しは、 7
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「奉軍満鉄線を爆破、日支両軍戦端を開く 我鉄道守備隊応戦す」「両軍衝突の原因? 支那軍満鉄線を爆破 わが守備隊を襲撃す」「燦として輝くわが軍の威容」「正義の前に支那軍殆ど壊滅」「悪鬼の如き支那暴兵!我軍出動遂に掃討」(江口圭一『十五年戦争の開幕』(昭和の歴史4)85頁以下)と、正義は我が軍、悪鬼は支那軍であるとの意識が植え付けられた。満州事変が関東軍の謀略であったことは今日では歴然としているが、当時の国民はこのようなメディアによる煽動によって事実を知らず、正義の戦争として侵略戦争を支持し煽り立てていったのである。 3 日本は満州事変で遼寧、吉林、黒竜江の東北三省を占領し、1932年3月国民党による統一国家建設の途上にある中国から分離して、傀儡国家「満州国」を設立した。中国における国民革命の進展によって、日露戦争以来の日本の満州における権益が動揺していることに対抗し、革命勢力を満州から排除するためであった。中国は国際連盟に提訴し、連盟が派遣したリットン調査団が、日本の自衛権の主張や満州の「独立」を認めず、満州を中国主権下の自治地域として国際管理下におくことを提唱した報告書を発表するや、軍国主義と排外主義を強めた日本社会では連盟脱退論がわき起こり、1933年3月、日本は国際連盟を脱退した。 4 第一次世界大戦によって、ヨーロッパ各国は、それまでの戦争が限定された戦場での軍隊同士の衝突であったという性格から、交戦国の国民がその総力 (経済力、軍事力)を挙げて戦うものへと性格を変貌させた。日本は、第一次大戦に参戦こそしたものの、総力戦体制をとるほど戦争に巻き込まれなかったが、軍部は第一次世界大戦に学び、きたるべき戦争は国家総力戦になると考えそのための研究と準備に着手していた。1918年には軍需工業動員法が公布され、軍需局が設置され、1927には内閣に資源局が設置され、軍需資源の調査と動員の準備が進められ、総力戦に向けての国民動員、思想統制と軍事教8
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育が試みられた。 第4 アジア大陸への侵略の兵站基地化および日本国内の食糧、労働力の供給地化1 日本の朝鮮政策では、当初は、日本の食糧問題解決のために朝鮮における産米増殖計画などの重農政策がとられた。これが、1931年の満州事変を契機に日本の大陸侵略との関係をにらみ合わせた農工併進政策へと変わった。 2 1938年9月の第1回各道産業部長会議における南総督の訓辞は、戦争がはじまれば対馬海峡の航行の安全は保障されない、そこで朝鮮に食糧と工業と軍事基地をつくるとし、朝鮮総督府発行の書物(朝鮮総督府情報課編『新しき朝鮮』1944年刊)では、「満州事変がその決意を促した一の契機とすれば、支那事変こそは兵站基地朝鮮の性格と使命を明確に決定した歴史的一頁であった」と中国侵略との関係で植民地朝鮮が兵站基地として位置づけられていったことを明確にしている。このような朝鮮の兵站基地化政策は、中国侵略戦争、太平洋戦争への拡大とともに強化され、朝鮮人の労働力はすべて戦力として、すべての物的資源は軍需物資として収奪するという方向で、文字どおり日本の「兵站基地」として全面的に戦争に動員され犠牲にされていったのである。3 近代の植民地は、先進国の工業化を支える役割を負わされており、植民地の経済構造は、工業原料や食糧の供給地として、あるいは工業の市場として再編されることが通常であった。 そのため、植民地で工業を発展させることは少なく、農産物や地下資源などの限られた一次産品を生産するためのモノカルチャー経済を形成するのが普通であった。もちろん、日本が植民地とした台湾や朝鮮でも、米や砂糖などの一次産品が商品化され、その多くが日本に移出された。しかし、同時に1930年代以降、重化学工業を含む工業化政策が積極的に推進され、戦時下には植民地工業が本国の工業を補完する役割を果たすようになった。このことを捉えて、9
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日本の植民地支配は特殊であり、欧米のような搾取を目的としたものでなく、同化政策に基づき、植民地であった台湾、朝鮮の近代化に役立ったという議論がされることがある。しかし、これは欧米と日本との植民化の歴史と資本主義発達の段階をわきまえない議論である。イギリスでは、18世紀後半に産業革命が起こり、それから1世紀おくれた19世紀末に帝国主義の時代を迎えた。つまり、欧米では、植民地化を迎えた段階ではすでに本国の工業は過剰状態にあり、あえて植民地に工業を興すメリットは少なかったのに対し、日本では資本主義化と帝国主義化が同時進行することになったため、新たに工場を建設するにあたって、原料・労働力・電力などの立地条件を考慮したうえで、本国と植民地が同等の選択肢となったからである(橋谷弘『植民地支配と戦争体制』(講座戦争と現代3 近代日本の戦争をどう見るか)174頁)。 4 戦時下の朝鮮は、日本からみると、食料(米)と労働力(人)との供出の対象であった。朝鮮総督府が1939年から実施される国家総動員態勢の中で課されたのは米と労働力の日本への動員確保であった。日本の軍事力を支えるには食料 (米)の確保と軍需品の清算に必要な石炭、鉱物資源、土木工事がなくては成り立たなかった。中国民衆の抵抗によって、日本国内から送りだされた兵士の死亡率が高くなり、労働力不足が深刻になっていった。一方、朝鮮は米と労働力に余裕があるとされた。当時、朝鮮は8割が農業人口であり、米を生産する農業地帯が抱える人口から労働力を「供出」しなければならないという関係にあった。特に米の生産、労働人口の集中していたのは朝鮮南部の慶尚南北道、全羅南北道であった。米の生産では南部地域で水田の44%を占め、農家戸数の42%、農業生産額の39%以上に達していた(1938年現在)。そのた め、米の供出も労働力の供出も朝鮮南部が主力を担うこととなったのである。第5 朝鮮人戦時労働力動員を可能にした背景10
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1 朝鮮農村部の生活状況―経済的収奪と貸金の民族差別、性差別―それでは、本件を含む朝鮮人戦時労働力動員を可能にしたのは何か。その第一に挙げられるのは、朝鮮農村部の窮乏と極めて困窮した生活である。1929年(昭和4年)、アメリカに起こった大恐慌は日本にも及び輸出が激減し、企業の倒産から農村へも恐慌は波及した。植民地にも波及し、朝鮮・台湾の米、満州大豆の大暴落、満鉄は創業以来の不振に陥った。 朝鮮ではこの恐慌による打撃に加えて、恐慌の損失を朝鮮人からの収奪によって埋め合わせようとした日本の資本家・地主のために民衆の困窮の度は一層大きくなった。1930年秋、農産物の価格は前年の約半分に下落したのに、小作料・租税・水利組合費は引き上げられ、化学肥料等の価格の高騰と併せて朝鮮農民の零落を促した。1913年当時、全農民の32・4%であった小作農は、1920年には39.8%に、1930年には46.55%に、1939年には52.44%に増大した。土地を失った農民は山に入って焼畑農業をする火田民や都市の 土幕民(スラム民)となったり、日本や中国関島、シベリア沿海州などに流出した(朴慶植『日本帝国主義の朝鮮支配 上』(青木書店)91~92頁)。 小作農民の生活は苦しく、朝鮮総督府もその生活について、「これらの農家の大部分は、年々歳々端境期に於いては、食料の不足を告げ、食を山野に求めて草根木皮を漁り、辛うじて一家の糊口を凌ぎつつあるもの亦少なくないのである」と指摘している(山田・古庄・樋口『朝鮮人戦時労働動員』(岩波書 店)134頁)。 工場の朝鮮人労働者に対しては民族差別と性差別が加えられ、平均賃金は、日本人男子、日本人女子、朝鮮人男子、朝鮮人女子の順で低くなり、朝鮮人男子の賃金は日本人男子の賃金の47%、朝鮮人女子の賃金は26%、日本人女子の賃金と比較しても52%にすぎなかった。11
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2 強権的な支配体制の確立朝鮮人戦時労働力動員を可能にしたその第2の要因は、植民地朝鮮における強権的な支配体制にある。植民地となった8年後の1918年に朝鮮全土に警察署99か所、巡査駐在所532か所設置されたものが、1919年には響察署251か所、巡査駐在所は2,354か所となった。警察官の数は、1932年に19,328人であったのが、1941年には23,269人にまで増員されている。この駐在所の所長の地位は面長より高く、面で一番権力を握っている存在であった。 それに加えて、戦時体制づくりに伴って、朝鮮における日本軍は逐次増強されていった。これまで6カ所におかれていた兵事部は徴兵制施行のための1943年兵役法の施行とともに各道道庁の13カ所に兵事区が置かれることになった。また、軍事警察機関の朝鮮憲兵隊は、憲兵司令部を京城におき、京城・大邱・光州・平壌・成興・羅南に憲兵隊管区が置かれた。このように朝鮮全土にわたって軍隊および憲兵の支配が行われていたのである。逆らおうにも逆らうことができない強権的な支配体制が敷かれていたのである。 3 皇民化政策このような力による支配に加えて、朝鮮人を自ら進んで日本に協力させるよう変えるための政策が、皇民化政策である。総力戦体制の下、植民地の人々を直接、間接に戦争に動員する体制が必要になると、植民地下の朝鮮人や台湾人に「帝国臣民」としての意識を抱かせるための「皇民化政策」の推進が切実な課題となった。朝鮮では、日中戦争とともに南次郎総督が「内鮮一体」を提唱し、全面的な戦時動員体制が構築された。1937年、「皇国臣民ノ誓詞」が制定され、 「私どもは大日本帝国の臣民であります、私どもは心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします。私どもは忍苦鍛錬して立派な強い国民となります」という三12
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箇条を随時斉唱するよう強制され、一つの面(村)に必ず一神社に置く計画が 遂行され、神社参拝が強制された。1940年には、「創氏改名」が実施され た。創氏は強制され、改名は任意とされたが、実際には改名も必須とされ半年 間で8割が日本名に変えられた。創氏改名は、天皇の赤子としての臣民は、天 皇を長とする家族の一員であり、天皇を中心とする家族に朝鮮人民を組み入れ るための措置として強制されたのである。これは、植民地支配の安定のために 被支配者の心を支配し、自発的服従を狙ったものである。(1)皇民化教育控訴人らは、一段と強化された皇民化政策、皇民化教育のまっただ中で小 学生時代を過ごした。皇民化教育は、次のように実施された。 韓国併合直後の1911年8月に公布された朝鮮教育令では、教育勅語に 基づく教育方針、日本語の普及を明記し、忠良なる皇国臣民の育成などを掲 げており、後の皇民化教育の骨格はこの時点から定められていた。1919年の3.1独立運動後に改正された朝鮮教育令では、普通学校に おいて、国史(つまり日本史)、地理を必修科目とし、高等普通学校におい て朝鮮語を随意科目とし、日本語教育を強化するという制度に改めた。そし て、1922年2月には、新教育令を公布し、師範学校、大学に至るまで日 本と同一の学校制度、教育制度を採用するに至った。1938年の朝鮮教育 令の改正により、当時の日本人に対する方針と同じ教育方針の下に、教授用 語も日本語とし、日本語教育の徹底を図るものとされた。日本語教育は、「皇国臣民タルノ自覚ヲ固クシ知徳ヲ啓発スルヲ以テ要旨トス」と位置づけ られた。この段階で、国体明徴、内鮮一体、忍苦鍛錬が教育の三大綱領とさ れた(甲B19号証)。 1941年に朝鮮教育令が改正され、小学校を国民学校とする国民学校規 定が公布された。続いて1943年3月の朝鮮教育令の改正により、国民学 13
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校、中等学校、高等・専門学校、師範学校等を体系化して「皇国の道に則る国民錬成」を一貫目標とし、軍事教練、労務動員を大幅に取り入れるなどして戦時体制を強化していった。このような皇民化教育が狙うものは、被支配者の心を支配し、自発的に服従させることである。この皇民化教育を幼い時から受け、自らの血肉とし、人格形成の最初において刷り込まれたのは控訴人らである。何故、戦争中の日本に幼い少女が親の反対を押し切って朝鮮女子動労挺身隊員に応募しようと考えたのか、そこには貧しさと向学心だけではない、皇民化教育の成果として挺身隊に応募することを通じて、天皇陛下のために国に忠誠を尽くすことの正義を疑いもなく受け入れていたという事実が大きく起因しているのである。いわば批判精神が生まれる前の幼子に対するマインド・コントロールが行われたのである。(2)国民総力朝鮮連盟の活動皇民化政策を推進するためには、皇民化教育を進めるだけでは十分ではなかった。1938年当時の朝鮮の小学校の就学率は、男女含めてわずかに33.2%に過ぎず、義務教育制ではない初等教育の皇民化教育だけでは全朝鮮人の皇民化は達成できなかった。そのため、1938年、「国民精神総動員朝鮮連盟」を発足させた。同連盟は、総督府の補助機関として位置づけられ、10戸を標準とする「愛国 班」を基礎として、世帯主を通じてほぼ全人口を掌握した。この「愛国班」が宮城遥拝、神社参拝、国旗掲揚などの未就学者を含む全朝鮮人の皇民化政策の推進を担ったのである。この「愛国班」は、物資の配給単位としても機能し、民衆の日常生活のすべてを統制した。同連盟は1940年、「国民総力朝鮮連盟」に改組された。この「国民総力朝鮮連盟」が戦時労働力動員の責任を負わせられた。朝鮮総督府が1942年に決定した「労務動員実施計画による朝鮮人労務者の内地移入斡旋要 14
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綱」には、「職業紹介所及府邑面は常に管内の労働事情の推移に留意精通し、 供出可能労務の所在、及供出時期の緩急を考慮し、警察官憲、朝鮮労務協会国民総力団体、その他関係機関と密接なる連絡を持し、労務補導員と協力の上割当労務者の選定を了するものとす」と定められていた。ここにいう「国民総力団体」が「国民総力朝鮮連盟」を指し、「労務補導員」は企業から派遣された。つまり、朝鮮人労働者を集めて選定し、企業の代理人に引き渡すまでの業務を朝鮮総督府側の職業紹介所や府・郡・島とその下部の邑・面が引き受けたのである。その内、労働事情の調査と労働者選定の任務を部落連盟に負わせ、選定が終わると、府・郡・島は労働着を隊に編成し、隊長を任命し、出勤以前に労働者に団体訓練を施すこととし、これが終わって企業の代理人に朝鮮人が引き渡されたのである(山田・古庄・樋口 『朝鮮人戦時労働力動員』94頁)。つまり、皇民化政策の徹底から戦時労働力動員まで朝鮮人の部落の有力者が実行させられたのである。このような村落の末端にまで及ぶ支配体制を通じて、植民地朝鮮人は支配されていたのである。第6 朝鮮人戦時労働力動員の一般朝鮮人の受け止め方 このような末端にまでわたる支配体制と強権的な警察支配、マインド・コントロール、経済的要因にもかかわらず、朝鮮人戦時労働動員は朝鮮民衆に幅広く受け入れられたのではない。むしろ、これを忌避するための様々な抵抗闘争が繰り広げられた。日本に朝鮮人労働者を送り出す徴用の際、出頭命令を発行したが、1944年新義州で行われた兵庫県川崎重工業特殊工場へ動員される際には、出頭命令にもかかわらず不出頭者が1/3弱にも上った。中には、徴用を拒否するために「供出されて死すよりこれを免れ父母、妻女と共に生活する方法を考えjて左手を切断したことを報告している例もある(山田、古庄、樋口『朝鮮人戦時労働動員』144頁)。また、慶尚北道慶山郡南山面では集団で相談し、朝鮮人面書記と面技手が指導者となって、小作人を中心に29名15
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が山にたてこもり、徴用忌避を行ったとの報告もされている。当時の朝鮮において民衆が日本政府による徴用に対して広範な抵抗を行っていたことがわかるのである。 第7 挺身隊という用語の頻出と軍慰安婦動員1 1930年代以降、日本は戦争を遂行するためこ韓国から「報国隊」や「学徒動員」「徴用」などの形で労働力を動員した。短期間の労働力奉仕は「報国隊」という名前で、長期間の動員は「挺身隊」という名前で動員され、1941年から1945年までの間に、様々な「挺身隊」が組織され、労働力動員がなされた。 「挺身隊」と名付けられたものには、「内鮮一体挺身隊」「国語(日本語)普及挺身隊」「報道挺身隊」などがあった。「挺身隊」は男性又は混性で構成されていたが、女性のみで構成された場合に、「婦人農業挺身隊」「特別女子青年挺身隊」「女子救護挺身隊」のように「婦人」または「女子」がつけられていた。このように様々な「挺身隊」が組織され、頻繁に使用されていた。2 以上のように、日本政府や朝鮮総督府による様々な方法による民衆支配にもかかわらず、朝鮮民衆の間には、日本の行為に対する疑いや抵抗が幅広く存在した。 そして、それは、人道に対する罪であることの明らかな軍慰安婦を広範囲にわたって連行するに及んで「処女供出」として当時の朝鮮民衆に根深い恐怖を引き起こしたのである。慰安婦の総数については、8万とも、朝鮮人だけで「推定17万~20万」とも書われているが、実数は明らかではない。日本軍は戦争犯罪の追及をおそれ、敗戦直後に重要な資料を焼却しており、現在残っているものも政府が資料を公開しないため実数を確定することは困難である。学者による推計によれば、慰安婦総数として8万~20万人というのは、「そ う多くない数」と評価されている(吉見義明『従軍慰安婦をめぐる60のウソ16
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と真実』30頁)。そして本件の動員が行われた戦争末期の朝鮮では、「処女 供出」という言葉が広く流布していた。1944年、総督府は一層ひどくなった労働者不足に対応するため、「女子遊休労働力の積極的活用」という名目で女性の動員を行うこととし、新規学卒者と満14歳以上の未婚者の全員動員体制を確立しようとした。このなかで、次のような事態も発生していた。3 「勤労報国隊の出動をも斉しく徴用なりとなし、一般労務募集に対しても忌避逃走し、或いは不正暴行の挙に出ずるものあるのみならず、未婚女子の徴用は必至にして、中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言巷間に伝わり、此等悪質なる流言と相侯って、労務事情は今後益々困難に赴くものと予想せらる」(吉見『従軍慰安婦』101頁、引用の内務大臣講義『朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正の件』)」 14歳以上の未婚の女性はすべて動員されるだけでなく、慰安婦にされるという噂が相当に広がっていたことがわかる。4月から8月にかけて、朝鮮人男性に対する第一回の徴兵検査が行われ、8月には未婚の女性(満12歳以上40歳未満)を軍需工場で働かせるための女子挺身勤労令が出されたので、未婚の女性はすべて慰安婦にされるという噂がひろがる条件が十分にあった。この噂は、若い女性をパニックに陥れ、経済的に余裕のある家庭では、娘を女学校から退学させて田舎に隠したり、いそいで結婚させたりしていた。しかも実際に官と結託した軍が慰安婦を動員する際、他の労働力動員と同様に、「挺身隊」や「奉仕隊」という名前を付けた場合や「挺身隊」として労働力動員を名目にして騙して軍慰安婦にされた場合なども存在した。そのため、本件の朝鮮女子勤労挺身隊動員が行われた時には、すでに朝鮮国内においてこれらの噂が広範囲に広がっていたのである。第8 朝鮮女子勤労挺身隊動員の特殊性、1 本件の朝鮮女子勤労挺身隊動員と他の朝鮮人戦時労働力動員とはどのような17
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共通点があり、どこに違いがあるのだろうか。最大の違いは、控訴人ら朝鮮女子勤労挺身隊員が幼い少女であり、学校における皇民化教育の結果、自らを日本国家と一体化させることによって積極的に志願したことにある。1910年の韓国併合以降、朝鮮は日本の植民地とされた。しかし、実際には朝鮮と日本は歴史、書籍、文化、社会構成などが違い、皇民化政策によっても一般の朝鮮人は朝鮮語を使い、朝鮮文化を保持していた。朝鮮人として戦時労働動員された大部分の人々も同様に朝鮮語で暮らし、食事、住宅、衣服も朝鮮式の伝統を守っていた。朝鮮人戦時労働動員者を集めて郡長などが動員について訓示、説明をするときも朝鮮語で行うか通訳をつけなければならない状況であった(山田・古庄・樋口『朝鮮人戦時労働動員』273頁)。 このような戦時労働動員された朝鮮人にとって、日本への戦時労働動員は 「自主的」「自発的」なものではなく、朝鮮の農村の経済的窮迫状況と戦時労働動員に向けての行政的圧力、皇民化政策による心理的圧力などにより、中には暴力的な強制によって、行われてきたものである。前述の戦時労働力動員に対する抵抗闘争の広がりが、一般民衆がどのように戦時労働力動員を受け止めていたかを表している。これと比較して、控訴人ら朝鮮女子勤労挺身隊員は、学校を通じた「募集」に応じたもので、自ら積極的に志願したものもいる。しかし、そのことは、本件朝鮮女子勤労挺身隊の動員が自主的、自発的なものであったことを意味しない。控訴人らが語っているように、控訴人ら朝鮮女子勤労挺身隊員たちは、朝鮮における皇民化教育を受け、人格の形成期において日本に尽くすことこそ何より重要だと教えられ、それを文字通り信じていたものである。しかも、彼女達の親が日本へ行くことを知った際には、いずれも死に行くことだと言って 強く止めているのである。しかし、一旦、応募した控訴人らに撤回は認められず、親を刑務所に入れると脅され、日本に来たのである。ここには、皇民化教18
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育によってマインド・コントロールされた姿と植民地支配の下での強権的支配が作用している。2 しかも、動員過程での欺罔や、動員後の劣悪な労働条件、動員先での監禁状態、労働後の貸金未払いなどは他の朝鮮人戦時労働力動員と共通性を持っているのである。 つまり、表面上現れる本件の自発的応募は、皇民化教育によって洗脳された結果によるものであり、その年齢を考え併せれば、到底、真の意味での「自発的」でも「自主的」でもなかった。むしろ、人格自体に強く働きかけを受け、他民族である日本や日本人を強く信じ込まされ、自らの民族や国家を侵略され植民地とした日本政府の行為を正当な正義にかなったものと確信させられ、それに疑いをもたず協力させられたという点で、権力的な強制や暴力よりも一層深刻な働きかけであったということができ、そのことが今日まで続く、控訴人ら朝鮮女子勤労挺身隊員の精神的な苦痛につながっているのである。結局、他の朝鮮人戦時労働動員と本件の朝鮮女子勤労挺身隊動員は同様、日本政府と企業によって植民地権力を背景にして、民族差別を利用した労働動員であったのである。 3 戦後の被害の原因 以上のとおり、本件の朝鮮女子勤労挺身隊動員は民族差別に基づいた動員である点で他の朝鮮人戦時労働動員と共通性を持つ。しかし、それにとどまらず控訴人らが日本に行けば学校に行ける、高い賃金ももらえるという点に強い憧れを抱いたように、当時の朝鮮において女性が置かれていた地位や賃金の劣悪さなど、民族差別のみでは語り尽くすことのできない性差別も一方にあった。しかも、軍慰安婦動員が軍と朝鮮総督府の関与の下大量に実施されたために生じた民衆の中の恐怖が、広範に使用された「挺身隊」という用語や「処女供 出」という言葉がもたらすイメージも相侯って、戦後には裏返しのように、控訴人ら日本から返ってきた女性に対する冷たい眼として作用したのである。 19
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本件で戦後の朝鮮女子勤労挺身隊員たちが辿った悲惨な人生の被害を同一視被害と呼んでいるが、「誤認されたこと」や「混同されたこと」が被害だと主張しているのではない。むしろ、その結果、強いられた家族との関係の破壊や過去の体験を語れず、人目を忍ぶように生きなければならなかった戦後の悲惨な人生が、その悲惨さにおいて軍慰安婦とされた被害者と共通する被害であると主張しているのである。第9 控訴人らの被害 本件で控訴人らが訴えている被害とその本質は以下の点にある。1 行為自体の残酷さまず挙げられるのが、幼い少女に対する欺罔と強制による動員、劣悪な環境の下での労働、その結果として労働災害等の身体的被害も発生したということである。さらに、自由が奪われ、賃金の未払い、直接、民族差別を受けるような体験もあった。これは、小学校を卒業したばかりの少女らにとってそれ自体極めて残酷な体験であった。 2 被害の深刻さしかも、既に述べたように控訴人らの人格形成期における皇民化教育により本来、他民族である日本と日本人に自己を同一化したことによるアイデンティティの喪失がある。控訴人らが今日も歌う歌が子どもの頃に教えられた日本の軍歌であるというのは、戦後、植民地から独立した韓国社会において、どれほどの悲劇であることか。それに加えて、性差別による偏見と悲惨な人生の被害などいずれも極めて深刻な被害なのでのである。3 本件裁判で控訴人は何を目指しているか?このような被害を受けた控訴人らが訴訟を提起した目的について語った言葉は、これほどの深刻な被害を受けた被害者として信じがたいほどの許しと将来への希望に満ちている。控訴人らが訴訟を提起した目的は、真実を明らかにし20
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謝罪と補償を得ることで、自らのあり得たであろう人生を再獲得すること、そのことを通じて日本国家と日本人への信頼を取り戻し、真の友好を築くことにあるというのである。この控訴人らの言葉と法的な理屈に隠れて事実に向き合おうとしない国や企業の態度とは好対照をなしている。第10 裁判官の「良心」と本件の証拠調べの必要性1 日本国民の戦後責任(1)一般に戦争責任や戦後責任として議論される問題は、日本人全体としてのそれであり、道義的・政治的責任の問題である。本件は法的な責任の有無を問うものであり、その責任の性格が異なることと、責任主体についても日本国家と企業という組織体が対象であり、この議論と直結するものではない。しかし、法的責任の有無は道義的・政治的責任の有無と無関係ではなく、むしろ、それを前提にしており、法的責任の有無の判断にあたっても、道義的・政治的責任の有無が影響することになるため、この点について触れる。戦時中の行為について、当時、加事行為に直接関与した人間がその関与の程度に応じて責任を問われるのはいわば直接の罪責として当然である。それに対して、戦時中に存在せず加害行為に直接関与していない戦後生まれの日本人が戦前の行為について、「私たちは何も知らない。直接、関与もしていない行為になぜ責任を問われるのか?」という問いを発することは一見正当であるかのように思える。しかし、戦後生まれの日本国民といえども日本国家の国民たることを止めない限り、日本国家の法的保護の下に存在していることは間違いがなく、また、日本国民として有形無形の財産を承継して日本国民として現に存在している以上、負の財産を承継するのは当然である。道義的・政治的責任が被害国民との関係で、被害の訴えに対する応答可能性(レスポンシビリティ)の問題であるということから考えれば、日本国民であるという立場にある戦後生まれの日本21
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国民もこの意味での責任を免れない。まして、本来、組織として責任を負うべき日本国家が責任を果たさない状態を継続している時、他国民が問う「日本は何の責任も果たさない」という問いは、主権者たる日本国民にも向けられているのである。これはまさに戦後責任の問題である。 本件の控訴人らが問いかけているのは、代理人や支援する会の会員、裁判官も含めた日本国民に対して「あなた方は、日本という国が加害行為に対して何の責任もとらないことを認めるのですか?」という問いであり、私たちはそれぞれの立場からそれに向き合い、応えることが道義的に求められているのである。それが日本国民一般の道義的・政治的責任である。2 憲法上の「良心」規定と裁判官の責務 (1)日本国憲法が「良心」について規定しているのは、憲法19条の国民に対する「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という規定と憲法76条の裁判官に対する「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」(76条3項)という規定のみである。 規定上明らかなように、憲法19条は、国家による国民の個々人の「良心」への不干渉を定めている。一方、日本国憲法は、裁判官には国民に対するのとは異なり、「良心」に従うことを義務付けているのである。司法権を行使する裁判官として、憲法76条が何故、「良心」に従うことを義務づけているのかが留意されなければならない。それでは、日本国憲法が国民に保障する「良心の自由」とは何を意味し、裁判官に従うことを要求している「良心」とは何を意味するのであろうか。 (2)裁判官は「良心」に従うべき憲法上の義務が存在する。そして、日本国憲法が敢えて裁判官に良心に従う義務を課した意味は何か。よく知られているように、日本国憲法76条の「良心」について、憲法学では、「主観的良心」説と「客観的良心」説とが対立している。しかし、この両22
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説の結論はそれほど大きな隔たりをもっているものではない。「主観的良心説 も、良心に基づいて裁判官が法律を無視してよいとは言わず、客観的良心説も<およそ裁判官は皆すべての裁判官に共通した善悪の基準を共有する>と説くわけでもない」(西原博史『良心の自由 増補版』(成文堂)412頁)それでは、日本国憲法が裁判官に「良心」に従って裁判を行うべき義務を負わせている意味についてはどう考えるべきか。西原教授は、次のようにこの意味を説明している。 「裁判官が法の一義的な解釈によって回避できないと考える判決が自らの良心 に反する場合には、どうなるのか。ただ、この問いは、日本国憲法を前提とし た場合に、実際上はあまり意味をなさない。違憲立法審査権が裁判官に認めら れていれば、…中略…、道徳的な考慮を憲法解釈に反映させ、自らの良心に反 する法律を違憲と判決する可能性がある。さらに、法律全体を違憲としないま でも、できることは少なくない。宮沢が、『悪法』を前にした裁判官にできる ことを述べている。『どこまでも法実証主義的立場に立ちながら、与えられた 法―悪法―を解釈するにあたって、法の解釈というものに必然的に課される限 界の範囲内において、その社会で一般に承認された道徳則ともいうべきものを 最大限に作用させ、それによって、その具体的な事件において、法の悪法性を 少しでも減らそうと努める』。ここで『道徳則』云々の部分は、良心的である ことを義務づけられた裁判官が正当性を否認する法律の適用を回避する方策を 探る上で、『自らの良心の命じる所』と言い換えられる。良心に反する不正な 判決を回避するための法的フィギュアは、種々用意されている。日本国憲法が、裁判官に良心に従う義務を課すのも、法解釈を通じた幅広い法創造的機能に着 目してのことと考えられる。裁判官が安易に『職業倫理』の陰に隠れ、他の機 関に対する過度の敬譲に服するなら、違憲立法審査権を保障することを通じて 憲法が裁判官に期待した憲法保障の機能は、無に帰していく。それを防ぐため に、憲法は、裁判官に対して良心に従う義務を ― 具体的な法的効果を特に 23
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想定しないまま ― 規定し、高度に公的な職業の遂行をあえて個人の人格性と結びつけた。それにより、裁判官の活動に関しても、実定法が悪かったことで判決に対する個人の人格的責任を逃れる道が切断される」(西原前掲書414~415頁)(3)まさに日本国憲法が裁判官に「良心」に従う義務を規定した理由は、憲法保 障を担う立場にある裁判官が自らの個人的な人格の中核たる「良心」に従うことによって、悪法に対して、人格を賭して対峙することによって、自らに与えられた権限を行使して、憲法を保障しようとした点にあるのである。本件のような日本国憲法自体の根本規範に違反するような違憲の国家行為が問われている時こそ、裁判官は自らの「良心」にかけて憲法保障を果たすことが国家機関として日本国憲法が裁判官に求める義務なのである。 3 日本政府の応答責任、裁判官の応答責任(1)本準備書面の冒頭で本件で問われている責任について法的責任であると整理し、それに必要な限度で日本国民としての道義的・政治的責任について簡潔に触れた。ここでは日本政府の「責任」及び裁判官の「責任」について検討する。(2)日本国民が戦争責任や戦後責任を他国民から問われる時、そこに生じる責任 は、呼びかけられた時には呼びかけた人に応答しなければならないという「責め」が含まれることになる。ここでは、責任を問う者、責任を問われる者、責任を問われる歴史的事件の三つが少なくとも必要である。そして、責任を問う者は責任を問われる者との関係で互いに外部にある必要がある。責任を問う者が自らに加えられた侵犯行為が、植民地差別や人種差別、民族差別、性差別、戦争という人間の諸集団の区別の確立のために遂行されたとき、責任を問われた者は、個人として特定の歴史的事件に直接関わらなかったとしても、植民地差別や人種差別、民族差別は個人の心理の問題ではなく制度的な客観的な事態だから、相手方から責任を問われている以上、当該諸集団に属する者として、その「責め」を自ら遺棄したり、「問いかけ」から逃避することはできないこ24
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ととなる。 (3)責任を果たすことは、呼びかけに応えることであるが、直ちに自らの有罪を認めることでも謝罪すべき立場にあることを意味するわけではない。むしろ、自らの無罪を主張することによって呼びかけに応えるという責任の果たし方もあるのである。自ら特定の歴史的事件について無罪を確信するとき、責任を問われた際、応答義務としての「責任」は、呼びかけた人々を説得するために呼びかけた人々に語りかけ、説明する作業が含まれなければならない。本件の朝鮮女子勤労挺身隊は、戦前、日本政府が企業とともに日本国内において不足する労働力を補うため、植民地機構及び学校を通じて募集、連行し、民族差別に基づく劣悪な労働条件の下に過酷な労働に従事させ、自由を奪われる環境の中での労働を強いたものである。この朝鮮女子勤労挺身隊は、日本政府と企業によって作られた制度であり、それを通じて戦後日本国民でなくなった控訴人ら朝鮮の少女を被審者として搾取し、虐待したものである。朝鮮女子勤労挺身隊員の選択において、日本人女性よりも低い年齢の少女が選ばれたこと、待遇(寮から自由に外出できないことや賃金が支払われないこと)面及び工場での対応などにおいて民族差別があったこと、戦後、勤労挺身隊員に対して何の手当もされず放置され続けたことなどにつき、日本国民は、この問題の責任を問う韓国人である控訴人らの前で応答する義務を負う。そして、それ以上に、日本政府は、自らが組織として同一性を持っている大日本帝国が戦前にしたこの朝鮮女子勤労挺身隊による被害について、応答する責任を負うものである。 しかるに、日本政府は、本件でも法的主張の穴に閉じこもり、事実の認否すら拒み、原告らの問いかけに正面から応答をしようとせず、逃げ続けている。まさに、この態度こそ、日本政府が道義的責任を放擲していることを如実に表す何よりの証左である。そして、裁判所についても、本件で問題となっている事実について向き合い、判断するという本来国家機関としてもっている責務だ25
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けでなく、日本国家を構成する国家機関として有する応答責任を回避し続けていると言わなければならない。原審判決などはその典型例である。裁判所のこのような対応について、「戦争中の日本政府によって搾取虐待された中国や韓国・朝鮮からの強制労働者の補償に関する訴訟が、敗戦後になって国民対非国民の区別に基づいて、日本国家の司法機関である裁判所によって却下されていることは銘記しておく必要があります。つまり、国民差別、民族差別は、戦争中の侵犯行為だけでなく、その侵犯行為の裁判や補償においても、継続的に機能し続けてきているのです」(酒井直樹『日本史と国民的責任』「帝国と国民 国家」(青木書店)158頁)と裁判所の対応自体が新たな差別として継続的に機能していることが批判されているのである。(4)被控訴人日本国は、本件は法的責任の有無を問う場であるから、道義的責任である応答責任の問題は無関係だというかもしれない。しかし、すでに控訴理由書に詳細に論じたとおり、日本国家が道義的国家たるべきことを日本国憲法は要請しているのである。日本国憲法の根本規範たるポツダム宣言の前提となるカイロ宣言中には、「第一次世界大戦の開始以後に日本国が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本国からはく奪すること、並びに満州、台湾及び膨湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還すること」、「日本国は、また、暴力及び強慾により日本国が略取した他のすべての地域から駆逐される」、「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする」という、帝国日本の侵略戦争と植民地支配を不法なものとし、原状の回復を要求した文書があり、ポツダム宣言は、「カイロ宣言の条項は、履行せらるべく」(8項)とカイロ宣言を受け、その履行を求めていた。このようなカイロ宣言を受けたポツダム宣言に基礎づけられて成立した日本国憲法は、とくに前文及び9条において、わが国が次のような内容の道義性を備えた国家とならなければならないことを明示している。すなわち、憲法前文は、「政府の 26
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行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」するとともに、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」し、さらに、「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはなら」ず、普遍的な政治道徳に従うことが責務である、と規定した。これは、前記のカイロ宣言、ポツダム宣言に照らすとなおさら、わが国が過去の侵略戦争と植民地支配に対する反省を表明したものであることが明らかである。このような認識に立って、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する」基本姿勢をもって安全と生存を図るとした上で、9条において、戦争の放棄と戦力の不保持を公権力に命じた。憲法は、このようにして、平和的道義国家の指針を定めたのである(甲E第2号証(「戦後補 償」の国家責任―立法不作為を中心に―、小林意見書7頁)。この「道義的国家たるべき義務」は、国家の行動原則であることを本質とするものである。しかも、それは、憲法価値の抜本的な転換を内容とするわが国公権力に宛てられた重要な指針である。したがって、立法、行政及び司法を含むわが国公権力がいずれも従わなければならない国家の行動原則なのである。5)このような道義的国家たるべき義務を行動原則とすることを憲法によって義務づけられている日本国家が、少なくとも応答責任を果たさず、逃げることは許されない。それは、裁判官も国家機関の一員として同様である。そればかりか、裁判官は憲法において「良心」に従うことが義務づけられているのであるから、真正面から呼びかけに応えることなく、逃げることは新たな侵略行為であるだけでなく、これらの憲法上の義務にも違反することとなるのである。 本件のように日本国政府や日本を代表する企業が日本国憲法自体が要請する責任に背を向けている時こそ、裁判官は自らの「良心」にかけて自らに与えられた法解釈の権限を行使して正義の実現を目指さなければならない。それこそが、日本国憲法が裁判官に求める義務なのである。27
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4 本件における証拠調べの必要性わが国では、戦前、日本がどのようにして朝鮮を植民地としたのか、どんな植民地支配がなされたのか、本件のような戦時労働力動員が何故、どのようにして実施されたのか、そこに国家や企業がどのように関与したのか、これらのことにつき日本政府は明確に教えようともせず、殆どの国民が知ることもない。何故、日本に数多くの在日韓国人、朝鮮人が存在するのか、それが戦前の日本政府の行為によるものだということを知ろうとせず、表面的な韓流ブームとヒステリックな北朝鮮バッシングに明け暮れている。本件訴訟ですでに主張してきたように、日本は、戦前の植民地支配だけでなく、戦後、韓国と北朝鮮の分断国家が生まれるのにも大きく関わっている。そして、戦後、一貫して韓国の軍事独裁政権を支え、韓国の人権侵害に加担し続けてきたのである。高齢の控訴人らが「自らの生命のあるうちの解決を」と訴えている本件について、少なくとも植民地支配の実態とその中で実施された朝鮮女子勤労挺身隊の動員、他の戦時労働動員などがどのようになされ、そこに日本国家と企業がどのような関与をしたのかを知ることなしに、法的な評価を行うことはできない。裁判所としては、法的な判断の前提として十分な証拠調べが必要である。そのために、控訴人が申請する証人全員の採用が不可欠である。そして、まず、本準備書面でその概略を述べてきた植民地支配と朝鮮人戦時労働動員の実態を知るために山田昭次証人の採用が必要である。以上28

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