1-14 日本国内に慰安所はなかったのか 従軍慰安婦はいなかったのか…


  かつては売春公認時代だったから連隊単位で部隊の駐屯する所には民間売春業者が経営する遊廓の類があった。一九四四年(S19)秋以降のいよいよ米軍の沖縄来攻が予想される時期、ついで本土決戦を決意するにいたって大量の根こそぎ動員が始まったときから軍管理による慰安所が数は多くないがつくられていったと伝えられている。

  沖縄をふくめた南西諸島、とくに沖縄には正確な数は不明だが数百人単位の朝鮮人従軍慰安婦が送られたことは事実だ。奇跡的に沖縄戦で生き残ったそのうちの一人裵奉奇(ペポンギ)さんがその間の事情を伝えていた。

  一九四四年秋、二十九歳のとき生まれ故郷の韓国忠清南道から強制連行され、沖縄の日本軍特攻隊基地で将兵の相手をさせられそのまま故国に帰る機会を逸し、那覇(なは)市で生活保護をうけていたが昨年(一九九一)十月二十一日七十七歳でなくなられた方だ。彼女の証言は『赤瓦の家――朝鮮からきた従軍慰安婦』(川田文子・筑摩書房)『沖縄のハルモ
ニ』(山中哲夫・晩聲社)や『アリランのうたオキナワからの証言』(朴寿南・青木書店)などに記録されている。

  このほか本土決戦になったとき天皇・皇族はじめ軍や政府の中枢機関を長野県松代の巨大トンネルヘ移し、ここを"松代大本営"とする計画が一九四四年から進められ、万をこす朝鮮人男性が労務者として強制連行されてきたが、この松代にも慰安所がつくられていた。警備や監督のため集められた日本軍将兵が出入し慰安婦のすべては朝鮮人だった。その慰安所の建物は一部だけだが今も残っていてその保存運動が婦人団体を中心にすすめられている。

  さらに本土決戦の最終段階のとき東京を目指す米軍が大挙上陸してくると、想定された千葉県九十九里浜へ一九四五年から防禦(ぼうぎょ)陣地の構築が始まり数個師団の部隊が集中させられたが、ここにも三ヵ所つくられたとか、奈良県の天理市にあった柳本空軍基地にもあり同じく朝鮮人従軍慰安婦が集められていたなどの証言もある。



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