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1-13 当時の日本人は従軍慰安婦の存在を知っていたのか…

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pipopipo555jp

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1-13 当時の日本人は従軍慰安婦の存在を知っていたのか…


  当時の日本人というのが兵隊にとられ戦場へもっていかれた者以外の日本内地にいた人たち、つまり一般国民のことだとすれば知らなかったといっていい。召集され戦地にいき従軍慰安婦を買った男たち、いいかえれば兵隊たちがそのことを口にしなかったからでもあったが、それよりなにより当時の日本軍は自らを皇軍と自称していた。皇軍とは天皇陛下を最高統率者とあおぐ天皇の軍隊ということだ。

  また、"満州事変"につづく"支那事変""大東亜戦争"を聖戦(せいせん)、天皇陛下の御稜威(みいつ)24)を広げるための戦争と教えこまれていたから、その聖戦に出陣する皇軍がそんな「戦場売春婦」をともなって戦場へおもむいていたなど考えもしなかった。まして軍が自ら管理する売春屋である慰安所なるものまでともなっていたなど思いもしなかった。

  知らないといえば一九三七年(S12)十二月十三日から始まった南京大虐殺のことも知らなかった。軍が絶対の軍事機密にし報道を禁止していたからだ。一部の外国通信社の特派員がそのことを記事にし本国へ送っていたが、検閲がきびしいなかそれを転載する日本の新聞もなかった。

  さらに日本軍とともに戦場におもむいた日本の新聞記者たちのなかにそれを目撃した者もいたがそのことを記事にしなかった。報道されたのは南京攻略を喜ぶ天皇の牟言葉25)と、それをうけ東京では宮城(きゆうじよう=今の皇居)前広場に市民が集まり「万歳万歳」を叫びまくったが、それを写真付きで大報道するものだけだった。

  南京大虐殺事件につづき華北地域で「焼きつくす殺しつくす奪いつくす」いわゆる「三光(さんこう)作戦26)」を日本軍は展開していたが、そのことも一行とて記事になったことはなかった。記事にされるのは皇軍がいかに勇猛果敢(ゆうもうかかん)に戦っているかのものだけだった。そんなことで皇軍の恥部である慰安所の「慰」の字も「従軍慰安婦」の「従」の字も従軍慰安婦の大半以上が朝鮮人女性でどのようにして彼女らが戦地へ連行されたかも報じられるということはなかった。

  もっというと戦後も長く従軍慰安婦のことが文字に書かれたこともなかった。




24) 御稜威(みいつ)
神、天皇などの尊厳な威光を指す"稜威(いつ)"の尊敬語。

25)中支那方面の陸軍部隊に賜わりたる御言葉
(一九三七年十二月十四日)
中支那方面ノ陸海軍諸部隊カ上海附近ノ作戦ニ引続キ勇猛果敢ナル追撃ヲ行ヒ速(スミヤカ)ニ首都南京ヲ陥(オトシイ)レタルコトハ深ク満足ニ思フ此旨(コノムネ)將兵二申伝ヘヨ

26) 三光作戦(さんこうさくせん)
中国人民等の強い抵抗にあい戦局が思うようにはかどらなかった日本軍が行なった破壊、殺戮作戦。

三光とは焼きつくす(焼光)、殺しつくす(殺光)、奪いつくす(槍光)こと。

このような残忍な行為を可能にしたのは、戦局の停滞という理由の他、明治以来の日本政府による中国、朝鮮人蔑視政策も影響している。




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