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結びにかえて

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日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告―

山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン






結びにかえて



 13人の日本人が有罪になった、バタビアBC級戦犯裁判のスマラン慰安所開設の公判記録は、事件を再現するに耐えられるだけの情報が公文書として残っていた。このスマラン慰安所事件の戦犯裁判の為に集められた情報から、ジャワの慰安所設置の許可は地元の兵站部から出され慰安所経営者は、一人一人の女性が売春する意志があるか確認、趣旨書に署名、定期検診、そして定期的に金銭の支払いがおこなわれているか確認しなければならなかったということがわかった。一方、ジャカルタの桜バー(桜倶楽部)に関する一連の資料は、軍の関与が非常に少なかったことを示している。しかし、定期的に軍警察または憲兵が点検にきたり、行政区長官が要請して開設したりといった状況は、他のケースと大変類似していたらしい。証拠となる公文書は充分見つかっていないが、ジャワにあった多くの慰安所は、公の許可は必要であったが個人が(私的に)経営していたようである。このような公的許可と私的経営のシステムは、基本的には日本の婦女子売買禁止国際条約への参加によって変容した公娼制度と同様であった。もちろん、こういった制度があろうが、日本や戦前のインドネシア(少なくともジャワ)のように、無許可や「不法」な売春業も多数存在していた。軍隊公娼制或いは慰安所の開設の許可は、ジャワの第16軍だけが特別おこなったというわけではない。海軍統括のボルネオ島ポンティアナックでは、軍当局が、地元のインドネシア人や中国人女性との関係の代替として、軍人、軍属、一般邦人用の
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慰安所を作ることを命じている。ハルマヘラにあった数件の慰安所や、モア島にあった慰安所は軍の部隊が直接管理していた。また、アンボン、カリジャティ、ティモールにあった慰安所は、軍指定や軍経営の慰安所であったが、他の多くの地域にあった「慰安所」が軍に関連があったか、またどのように関係があったかに関しては更なる調査が必要である。

 戦後に作成された戦争中の売春に関する資料の大多数は、ヨーロッパ人の女性の事が中心に記されている。理由としては、①資料が(戦後間もなく救援部隊)連合国のアンケートから起源を発し、アンケートは主にヨーロッパ人(含む印欧混血人)、つまり抑留所の中にいた人々を中心に配られたので、抑留所外の様子はあまり観察されていなかった。②他の資料はヨーロッパ人等の移民や他の行政手続きの関連で作成したためであった。更に、当時の状況から非ヨーロッパ人からの情報提供を軽減させる要因もいくつかあったと考えられる。捜査開始初期1945年から1947年はインドネシアの独立戦争期にあたり、オランダの統括下にない地域もあった。またオランダの統括下にあった地域でも、インドネシア人の目には、捜査をする人間は外国人侵入者代表とも映ったかもしれない。そのような理由からか捜査に対して、ほとんど協力者が得られなかったようであった。さらに、調査記述は戦争裁判に使われ、BC級戦犯裁判は連合国及び連合国民に害したものを犯罪と見做し、日本の支配を「受け入れた」インドネシア人や「無国の民」に対しての犯罪は抹消されていったのかも知れない76)。また多くのオランダ人は、独立戦争でオランダと戦っているインドネシア人をヨーロッパ人の加害者と考え、このことも第2次世界大戦中のインドネシア人犠牲者を捜査する意欲をくじいたのかもしれない。

 抑留所の外にいた女性を慰安婦として徴募することはあまり注意して見られていないようであったが、何点かの資料は見つかった。このような、資料は非ヨーロッパ人慰安婦に関する情報を提供する手助けになった。また、スマランからフロレスへ連行された事件は、ヨーロッパ人女性が少なくとも9人は関連したということもあって、抑留所の外にいた女性に関して、まとまった記録が残っている数少ない事例の1つであった。ここで最も重要なことは、非ヨーロッパ人の慰安婦の記録、非抑留者からの慰安婦が東部インドネシアへ連れられて行かれた記録、当時から語られることのなかった女性たちの声が記録として公文書に残っている可能性があるということである。他の多くの公文書には、ほんの短い記述に限られている。ある公文書は、強制、欺瞞、説得という手段で女性達を集めていったことを示しているが、ある公文書は、慰安所自体の説明や慰安所にいた女性達の事が書かれていた。海軍地域では、女性は主に現地で集められているが、ジャワやシンガポールといった地域では、集められた女性達は、必要に応じて移動させられていた。その例はスマランからフロレスへのケースでも、またプールヘイストの報告の中にあったカリジャティ飛行場からティモールへ移動させられたケースでも理解することができる。

民族、人種

 「日本人」女性という記述の中には、朝鮮人、中国人も含まれていることがある。着物を着たり日本人の恰好をしたインドネシア人の女性も、離れた場所から目撃されているような場合はこの「日本人」女性に含まれていることがある。ジャワ人、原住民、現地人、インドネシア人、朝鮮人、日本人、印欧混血人女性といった「人種あるいは民族」の資料記載をそのまま受け入れるか判断するには、1点の資料からは困難である。「ジャワ
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の女性」や明確に特定した人種・民族の詳細な記載は、信用度の高い情報と思われるが、原住民、インドネシア女性といった曖昧で一般的な記録は、出身地あるいは、民族・人種に関する記録としては信用価値が低いようである。残念なことに、今回検討した資料の中には、非ヨーロッパ人女性のいた慰安所の状況を細かく記録してある資料はほとんどなかったが、いくつもの断片的な情報は、さらなる調査を進めて行くことにより慰安所の件数、所在地だけでなく、女性の出身地、人種・民族、またどのように集めれれたかを知る手がかりになることがわかった。

レストラン、バー、慰安所

 戦後おこなわれた多くのヨーロッパ人へのインタビューから、レストランやバーの仕事は、売春と同一視する傾向があったことが明らかになった。これは、慰安所で働く女性を募集する時に、日本人や他の周旋屋がよく使った婉曲表現に由来するとも考えられる。このような婉曲表現が、その表現から同一視が生まれる状況は、当時の日本(内地)の、公娼と「芸者屋やレストランや茶屋で働いていた女性たち」との緊密な関係を考えれば当然の事と思われる。戦前の広州や台湾では、芸者、酌婦、売春婦は定期的に性病検査を受けさせられた。一方、日本(内地)では女給や酌婦が、売春の主流であった77)。また、規模や組織力がしっかりしていた慰安所は、旧ホテル内に位置し、多くはレストランに隣接していた。施設周辺は、日本軍人や一般邦人の娯楽場として使われていた。慰安婦の移動、特に一つの慰安所から他の慰安所へといった移動は一般的におこなわれていた。

時代区分

 1943年までの時期は、慰安婦に関する公文書の記録が非常に少ないが、その時期でも、インドネシア人やヨーロッパ人女性の募集は、地方ごとに小規模な慰安所用に行われていたという。1944年の初頭に起こったスマラン事件を始めとする中部ジャワ抑留所関連の事件は、高級将校によって終止符が打たれた経過からも、事件は、確かにジャワにいたオランダ人慰安婦の募集という点において、1つの転機になったということは、オランダ3公文書館の資料からもある程度理解できたが、その事が直接他の人種、民族の募集でも同様であったとは限らない。しかし、この時期の前後半年間に(インドネシアの周辺で)種々の変化が起こったことを付け加えておく。1943年後半にはマレー半島の慰安施設の規定の発行、同年12月には、ボルネオで正式な慰安所数軒を開設、そして翌年の1944年初頭には、ハルマヘラでも慰安所が開設されていった。時期的に近接しているこれら一連の事例が、それぞれ何らかの結びつきがあるのかは、今後さらに詳細な記述のある記録の発掘がない限り、結論をだすのは難しい。

 最後に、今回の調査で公文書それぞれに規則性また性格があることが理解できた。詳細が綴ってある資料は、ジャワBC級戦犯裁判に関連するものであった。しかし他の地域で訴因は慰安婦とは全く関係がなさそうな戦犯裁判関係の資料の中に、微少ではあるが慰安婦に関する記述があった。つまり、無関係に見える資料の中から慰安所の開設、慰安婦の募集、慰安所の運営等の記録の多くが発見されるということである。このことは、当調査報告に記述がないから、あるいはBC級裁判や公文書の分類が慰安婦に関することではないからといって、オランダ公文書館に資料が存在していないというわけではないことである。

 すでにスマラン慰安所事件の犠牲者ジーン・ラフ・オハーンの証言に見られるように、資料の記述が最近の証言の事実確認を手助けしていること
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があり、証言に加え、これらの公文書資料は豊富な情報源になる上、50年以上経った記憶の変化も同時に示唆してくれる。ヨーロッパ人また印欧混血人女性の関わっている慰安婦に関する情報や、慰安婦の徴募、日本人男性との他の性的関係の募集といった情報は、外国旅行者や高級官史の身元調査の書類の中にも少ないながら記録が残っている。他には、慰安所のあった場所、慰安婦の人数や出身、女性の移動や、地方別の女性募集の手管についての記録が、戦中、戦後の資料と共にオランダ公文書館に所蔵されている。非ヨーロッパ女性の慰安婦に関しては、こういった断片的で「些細な」記録の中に書かれている。こういった一つ一つの断片的記録は、それ自体では、あまり信憑性もないし、さして重要な資料ではないが、他の資・史料や証言と併せ、双方の情報の正確性を検討した上で歴史の再構築に役立てることは可能である。また、個々の情報を見るのではなく、包括的に検証し全体像を掴むために使用すると、第2次世界大戦中のインドネシアにおける慰安婦を知る上で大いに価値のある記録として生きてくると思われる。


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