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2 慰安所の統制

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日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告―

山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン






2 慰安所の統制


図1 インドネシア全図

 慰安婦制度に関する現在の議論は、それぞれの軍司令部による異なった軍政での相違点に関しては充分に考察されていない。1942年3月8日オランダが日本に無条件降伏をした後、インドネシアは3つの軍政区域に分けられた──①陸軍第16軍(治)が管理するジャワ、②陸軍第25軍(富)のスマトラとマレー半島ただし第25軍は当初シンガポールに司令官本部があり後の1943年5月独立してスマトラのブキティンギに司令官本部を移動、③海軍南西方面艦隊がその他外海の島を管轄した。一般に、当時東南アジアは日本の生命線と呼ばれ、日本の南進の主たる目的は石油やゴムといった資源の確保のためと言われている。とりわけ第25軍と海軍の勢力圏では、資源の確保が最大の目標であったが、ジャワは物的資源に加え人的資源の宝庫とも目され、人的資源を「獲得」するため、第16軍は人々を日本に協力するよう納得させるため、民心把握を基本統治方針の1つに掲げ、人間関係には比較的注意を払っていた。これら3つの地域において、侵略の目的と慰安所設置規則や制度との間に何らかの関係があるかどうかは、まだはっきりしていないが、異なる軍政の間に微妙な違いがあったことは明らかになった。

 1938年3月4日付け陸軍省兵務局兵務課起案(陸支密第745号)の「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」によると、「将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於テ統制シ...其実施ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋ヲ密ニシ...」とそれぞれの軍に慰安所の設置及び管理の責任を示している21)。慰安所或いは慰安婦に関する規則の文書は、スマトラから分離した後(実施は1943年5月)のマレー半島の馬来軍政監部軍政規定集第3号で1943年11月11日付けで部内一般に通達している。この「慰安施設及旅館営業取締規定」には映画館、バー、レストラン、ホテル、慰安所といった慰安施設に関する税金の徴収を含む細々とした経営管理から、芸妓、酌婦の雇用契約規則にいたる点まで網羅してある22)。このことは軍再編成の前後に何らかの問題があったとも考えられるが、基本的考えは再編成前の軍政から引継がれたものと考えられる、故に分離したといえどもスマトラの第25軍も同様の考えをもっていたとも考えられる。しかし、現在までの調査からスマトラの第25軍は文書化された規則は出していないようである。ジャワ第16軍の慰安所設定や管理に関する規則も、文章として発表されていないようではあるが、慣習
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的に、設置また営業に関しては種々の条件を満たしていれば(詳細は後述)兵站将校から許可を受け慰安所設定が可能になっていたようである。慰安所に関する規定が充分周知あるいは文書化されていなかった上、民間抑留所の管理管轄が軍政監部に移管される混乱の中、憲兵隊の通常の任務であるはずの抑留者を慰安所で使用するような違反行為に対する制止があまりなされなかったようではあるが、このようなことは、第25軍のスマトラの憲兵隊では行われていたようである。ジャワでは、個人の利害や治安の機能という理由で現地の憲兵隊が地位の乱用を行った小さな事例もあった。このことは、後述するスマランからフロレス島への連行事件にも見られる。海軍の勢力地域では、海軍特別警察隊[特警隊]や憲兵隊が、慰安所の設置や慰安婦になる女性の募集に、直接的に関与していたようである。これは、他地域と著しく異なる点である。東部インドネシアの地域は、他のインドネシア地域と異なり実際の戦場になっていたため、長い期間複数の部隊が駐屯していた。そのため慰安所の設置また慰安婦の徴募には、いろいろな方法がとられたようである。

 オランダ公文書館所蔵の慰安婦に関する資料は日本軍政下の3地域によって質も量も異なっていた。この事は、オランダが作成した公文書の性格に鑑み、各地域のヨーロッパ人の人口の違いにも関係しているが、上記したように慰安婦制度あるいは慰安所設置に関して地域ごとに異なっていたということにも理由があったように思われる。このようなことから、慰安婦に関しての調査は今後地域毎に精査していく必要があると思われる。



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