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Ⅱ インドネシアの従軍慰安婦──歴史的実態──

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「慰安婦」問題 調査報告・1999

インドネシアにおける慰安婦調査報告



Ⅱ インドネシアの従軍慰安婦──歴史的実態──



 さて、以上がインドネシアにおいて従軍慰安婦問題がどのような経緯で社会問題となり、また犠牲者の女性たちとそれを支援する民間団体が、現在どのような形で補償問題と取り組んでいるかについての経緯である。

 次に、現実に元従軍慰安婦の女性たちが日本時代に被った体験について述べたい。インドネシアにおける軍慰安所、あるいは従軍慰安婦に関する戦争当時の文書は、筆者の知るかぎり同国内にはまったく残っていないため、その事実を把握する作業は極めて困難である。そもそもインドネシアにおける日本軍ならびに軍政当局の資料は、終戦時に多くが日本軍の手によって焼却されたといわれている。焼却を免れた一部の資料は、まもなく終戦処理のために上陸してきた連合軍によって接収され、その内容に応じて一部はイギリスに、また多くのものは旧宗主国のオランダへ送られた。従って、従軍慰安婦に関する記録が残っているとすれば、それはむしろイギリスないしオランダの文書館にである。

 インドネシア各地の俘虜収容所からオランダ人女性が連れだされて慰安婦にされた事実は、終戦直後に連合軍により戦争犯罪として問題にされ、それに関与した日本軍関係者がバタヴィアのBC級戦犯裁判で裁かれた。従ってその裁判関係の記録がオランダに残っている。ところがインドネシア人慰安婦のことは、バタヴィア軍事法廷ではまったく問題にされることはなく、不問にふせられていたため、文書になっているものは少ない。

 このように公文書が皆無に近いため、以下の記述は、関係者からの証言という形に頼らざるを得なかった。実は筆者が1980年から81年にかけて、ジャワの農村で日本軍政期の歴史に関する聞き取り調査を実施した時にも、元慰安婦たちに会って話を聞きたいと思い探したのであるが、その段階では本人も周囲の者も口が固く、1人も見つけることはできなかった。しかし、補償問題とのからみで多くの人が名乗り出ているいま、面接調査はかなりたやすくなった。

 とはいえ、彼女たちの多くは、これまでにもすでに多くの日本人の訪問を受け、そのたびに今度こそは補償が、と期待したがいつも裏切られてきたという現実があるため、かなり懐疑的になっている。しかも「すでに○○さんに話したのになぜ同じ日本人に対して何度も同じことをしゃべらなくてはならないのか」と不思議がる。日本人の考え方も一様ではなく、さまざまな組織や個人がそれぞれ異なる立場や思惑で調査しているという事情は理解しかねるようであった。そこで調査する側の意図をかなり詳細に尋ね、よほど納得がいかないと面会してくれない。補償問題に関する将来の良い展開を期待して喜んで証言してくれるという時期は去ったように思われる。

 そのような中から法律援護協会ジョクジャカルタ支部を通じて15名、兵補協会を通じて25名、計40名の元従軍慰安婦と称する女性(ただしうち4名は家族が代理に証言)と、慰安所を直接見聞した証人3名の証言を得ることができた。その内容に加えて、関係者がかつて新聞・雑誌・テレビ等を通じて語ったこと、彼らが手記にまとめたもの、これまでに日本人ならびにインドネシア人研究者や支援団体のメンバーが面接調査をした記録などを参考にし、判明したいくつかの点を以下にまとめたい。


1 慰安婦募集の過程


 インドネシアにおいても、当初従軍慰安婦は、もともと売春を生業としていた女性たちを中心に募集された。しかしそれでは十分賄うことができず、やがて一般の女性から募集された。人種的な近似性のゆえに、バンカ島のマルガレタ(ホ・スイ・リウ)さんのような中国系の女性が好まれたようであるが、絶対数が少ないので、圧倒的多数はプリブミの女性であった。ジョクジャカルタのマルディエムさんのように一部の慰安婦は都市部から選ばれたが、多くは村落社会から募集された。

 Ⅰでも述べたように、名乗り出ている女性たちの中には、日本人将校の現地妻だった者、強姦された者なども数多く含まれている。そこで面接に際しては、本来の意味の慰安婦、すなわち軍が管理する慰安所に一定期間置かれて、繰り返し性的な相手をさせられた者、という範疇にあてはまる女性だけを選別してもらうよう頼んだ。しかし、にもかかわらず、われわれの予想に反して、40名の中にはさまざまなタイプの女性が混ざっていた。中でも多いのは、どの部隊の者も利用できる公的な慰安所ではなく、特定の部隊が独自に女性を集めて自分たちだけが利用した私設の慰安所のようなところ(正式には慰安所という用語は使用していないが)で働かされた者である。多くの場合それは、軍の兵舎の建物や、軍が運営している特定の工場の内部などに女性を多数住まわせ、将兵が必要に応じて「活用」するという形であった。なぜか、西ジャワ地区での調査対象となった女性の中にこのタイプが多かった。

 当人たちはもちろんのこと、兵補協会や法律援護協会の関係者たちも、その種の私設慰安所と、軍管理の慰安所とは性格が異なるということに納得がいかないようであった。ここではとりあえず便宜上、前者を「準慰安婦」、後者を「慰安婦」というふうに区別し、そのおのおのについて叙述するが、他の個人的強姦や現地妻のケースについては特に触れない。

 慰安婦の場合、多くが居住地の区長や隣組の組長を通じて募集が行われたようである。「学校へ行かないか」とか「いい仕事があるが応募しないか」という形で誘いを受けたと述べている。単なる誘いであった場合もあれば、ノーといえないような強い雰囲気だったこともある。労務者の徴用も同じであるが、徴用令が施行されていた朝鮮や台湾とは違って、占領地では形式上は自由応募ということになっていた。とはいえそれでは、現実にはなかなか人数が集まらないので、村長や区長にノルマが課されるということが多かった。当時の権力関係からして、住民は村の役人や長老にはとても逆らえない状況であったため、そうなるとほぼ強制に近いこともなされたのではないかと思われる。

 日本軍の占領期には、総動員体制のもと、村落社会に対する介入や干渉が強化され、住民を強力に統制して、特定の目的に向けて動員するためのメカニズムが導入された。本来共同体の代表としての性格の強かった村落の長を、政府の役人のように変え、細やかに中央の命令を実行させていった。また、日本の組織を真似て隣組制度が導入され、これを通じて上意下達や相互監視を徹底させた。米の供出、労務供出などにおいても、目標が達成されなかった場合には最終的には、隣組に連帯責任が課され、組長に大きなプレッシャーがかかる。そのため組長は何とかして命令を遂行しようと努力し、そのしわ寄せが個々の住民にいくのであった。労務者の場合でも、慰安婦の場合でもとりわけ、より貧しい者、より弱い者に対して大きなプレッシャーがかかるのが常であった。

 中には、実際娘がどんな仕事をさせられるのか実態をうすうす感じていた親もいたようであるが、日本軍の命令に反抗することの恐ろしさや、食料難、生活苦の中で差し出された前金に心を動かされてしかたなく娘を手放したこともあるといわれる。

 「強制」とはいっても、実際日本軍将兵が銃を突きつけてというようなケースは、厳密な意味での従軍慰安婦募集の場合にはむしろ少なく、以上述べたような行政機構や村役場を通じての半強制が行われていたというのが一般的であろう。

 それに対して、「準慰安婦」の場合には、日本軍将兵が個人的に女性を「手込めにする」あるいは、上官の個人的な命令を受けて「女狩り」に行く、つまり、実際に軍人が直接手を出して連行したというケースが多かったようである。この場合は、村から町に働きに出ている女性が帰り道を襲われるというようなケース、あるいは、両親が仕事で出掛けていて1人で留守番をしている間にさらわれるというようなケースもみられる。

 いずれのタイプの場合も、連れていかれた時の少女たちの年齢は想像以上に低く、14-15歳というケースもかなりある。当初は筆者にも信じがたいことであったが、当時村落社会での結婚年齢はかなり若かったうえ、慰安婦の対象とされたのは「未婚の女性」であったことを考えると、そのような年齢になってしまうものと思われた。他に未亡人も恰好の対象とされた。ただし、「準慰安婦」の場合は、家庭状況を調べたうえでの連行ではないので、場合によっては夫のいる既婚者が連れていかれた場合もあるし、年齢もまちまちである。

 輸送状況の困難な時代であったので、もちろんジャワ島内で働かされた者が絶対的に多いが、カリマンタンなど遠くの島へ送られた者もいる。これは、出身地から切り離すことによって、逃亡の機会を防ぐという意味があったのかもしれない。現に、「なぜ逃亡しなかったのか」というような質問に対し、「逃げだしても匿ってくれるところがなかったから」というような回答が多かった。今回の聞き取り対象者の中で、自分が住んでいた島以外へ連れていかれた者は、わずか5名しかいない。


2 軍管理慰安所の状況


 慰安所の運営は多くが、日本人軍属や民間人に任されていたようである。元慰安婦の多くは、背後に日本人がいたことを知っており、その日本人の名もおおむね明確に記憶しているが、日常的に直接女性たちを管理したのは、インドネシア人男性であることが多かった。

 慰安所は将校用、一般兵士用、民間人用などに分かれていた。同じ市内に幾つかあり、ランクの高い慰安所には日本人女性や朝鮮人・台湾人女性がいたという。実は日本人の慰安婦も多数インドネシアに送られていた。基本的には、本来売春を職業としている者で、希望に基づいて募ったといわれているが、真偽のほどは分からない。彼女たちは終戦間際になると俄か看護婦となって陸軍病院へ移され、現に終戦時には看護婦として連合軍当局に報告された。従って、収容所や引き揚げ者名簿の中では看護婦という扱いになっている。

 慰安所は新たに新設された場合もあるが、なかには既存のホテル(ソロのフジ・ホテルなど)や、レストランを改造したもの(スカブミのスハルティンさんの場合など)もあった。いずれも、女性たちは個室を割り当てられ、そこを3交代制で、複数の仲間と共同利用した。

 慰安婦たちは当時は地域社会から白い目で見られ、日本軍の「犠牲者」として同情を受けることはほとんどなかった。従って日曜日などに外出許可が出ても、地域の人々との交流はまったくなかった。

 兵隊たちは、休暇が出るといっせいに慰安所にかけつけることが多かったので、しばしば団体で列を成してやってきた。そのため、慰安婦たちは、概ね、短時間に多くの客の相手をしなければならないことが多かった。中には一晩に数人から10人くらいを受け入れたと証言している者も多かった。

 兵隊たちは、慰安所の入口で「キップ」を買って「有料」で慰安所を利用するわけであり、慰安婦にも、客の数に応じて収入が入ることになっていた。しかし彼女たちの訴えによれば、多くの場合その報酬は未払いになっていたという。ただし、食事、衣装、化粧品などには事欠かなかった。周辺にいた証人たちの証言によれば、その生活は豊かで華やかでさえあったという。

 しかし問題は金銭的、あるいは物質的なことではなく、ほとんど自由を束縛されたうえ、1日に何人もの客を強制的に取らされ、からだが疲弊してしまったことである。多くの女性が健康を害している。ただし性病に対しては、日本側も非常に敏感になっており、必ずコンドームの使用が義務づけられていたうえ、毎週定期的に軍医や衛生兵による検査が行われた。しかしそれ以外の健康管理は十分に行われていなかったようである。しかもコンドームの使用を義務づけていたにもかかわらず、マルディエムさんのように妊娠する者もいた。そのような場合には強制的に堕胎を強いられたが、中絶は罪悪であると教えられてきたイスラム教徒の彼女たちにとって、それは精神的な重圧であった。


3 私設慰安所の場合


 それに対して、「準慰安婦」たちが入れられた、軍の兵舎内や工場内の私設慰安所の場合は、いろいろな意味で環境がもっと悪かったようである。「準慰安婦」の場合は、いわば、その部隊の将兵が女性を拉致してきて、そのままうむを言わさず自分たちの欲望の捌け口として使ったわけであるから、これらの女性の存在は軍司令部には秘密であったと思われる。そのため、慰安婦に一般に与えられていたような、健康管理のための措置もなされなかった。すなわち妊娠や性病を防ぐためのコンドームの使用もおそらく義務づけられてはいなかったであろうし、軍医や衛生兵による定期的な健康診断もなく、性病蔓延に対する衛生的な措置はなんらなされていなかった。

 また、彼女たちを利用する日本軍将兵は、正式の慰安所の場合のように「キップ」を買ったりはしていない。従って女性たちはもちろん何の報酬も受けていない。それどころか彼女たちのための正式な食料、衣料品の供給さえなかったようである。従って多くが、食事はありあわせで、時には1日1食であった、などと述べている。

 「準慰安婦」の場合、多くは遠方へ連れていかれることはなく、居住地の近くで活用されている。たとえ、遠くの部隊へ連れていきたいと考えても、公的な存在でなかったから、その輸送手段も確保することはできなかったのであろう。


4 終戦後


 日本軍が降伏した時、慰安婦たちはその場で自然解散という形になった。バリックパパンなど、すでに1945年8月15日以前に、連合軍の攻撃を受けてその地の日本軍が逃走したような地域では、慰安婦たちも命からがら逃走している(ジョクジャカルタ在住のスハルティさんのケース)。出身地の近くで働かされていた女性たちは、理論上、自力で故郷へ戻ることは、物理的には困難なことではなかった。しかし現実には、故郷には恥ずかしくて帰れなかったという者が多かった。現に、家に戻ってきても近所の人々が罵ったり、悪口をいう場合があったという。日本軍の犠牲者としての同情よりも、思いやりのない軽蔑の眼差しを向ける者が多かったのであろう。

 カリマンタンなど遠隔地で終戦を迎えた者は、すぐには帰郷できない場合も多かった。マルディエムさんのように、現地で結婚相手を見つけ、ずっと後になってからジャワへ戻る機会を得た者もいる。反対にバンカ島からパレンバンへ連れて行かれたマルガレタさんも、そのまま故郷には帰れず、パレンバンにとどまり、やがてその地で結婚した。

 かなり多くの女性がその後過去を隠して結婚しているが、中には健康を害して結婚できず、一生独身で暮らした者もいる。また結婚した女性の中で、子宝に恵まれた者は比較的少なく、慰安婦時代の日常が、いかに彼女たちの健康を蝕んでいたかがよくわかる。


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