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九 パナイ号事件の「謀略」

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九 パナイ号事件の「謀略」

 南京事件報道が阻害された要因としてもっとも重要なことは、パナイ号事件の結果、外国人記者たちが南京戦取材を断念させられたことである。

 ティンパレー『戦争とはなにか-中国における日本軍の暴虐-』に収められた南京在住の外国人の手紙には、「不運なパナイ号や美孚煤公司(TheStandardOil)の汽船や他の船舶に乗って、陥落直前に南京をはなれた、わが国やほかの国の大使館員たちや実業家たちは、一週間以内には南京に帰れるものと信じていました」(洞富雄編前掲書、二六頁)と記されている。それは外国人記者も同じで、かれらは日本軍の南京城突入にさいして、一時的にパナイ号に避難したのであり、占領後の南京を取材する目的で「待機」していたのである。それが、取材道具・資料を失い、通信手段も破壌され、記者として手足を失ったも同然となった。

 米砲艦オアフ号に救助されたかれらは、パナイ号乗組員の生存者とともに、十二月十五日に南京を後にして上海に向かった。日本の掃海艇・駆逐艦に先導されたオアフ号は、イギリス砲艦レディーバ

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ード号とともに機雷や障害物をかわしながら長江を下り、十七日の午後に上海に到着した。

 このオアフ号、レディーバード号には、南京を引き揚げざるをえなくなったダーディン、ロイターのスミス、シカゴ・デイリーニューズのスティール、パラマウント映画のメンケン、共同通信のマクダニエルも乗っていた。五人は十五日、日本の駆逐艦「勢多」で南京の下関港を離れ、同号に乗船した。このとき、日本海軍側が、っぎのような申し出をしたことが、南京国際安全区のアメリカ人に紹介されている。

 「その日(十二月十五日-引用者)、海軍将校がパナイ号沈没の報告を携えてきて、同時に南京にいるアメリカ人金員を上海に送ると申し出た。しかし、安全区を管理する委員が、自分たちのためにこの恩恵を受けるのは気が進まないとみるや、将校の表情には失望がありありと浮かんだ。しかし、新聞記者二名が同行することになり、障害物になっている死体の上を通り、下関門を出て日本の駆逐艦につれていかれた。」(『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』38.3.16。この記事についてはのちに詳しく紹介する。)

 ティンパレー『戦争とはなにか』に収められた、南京在住の外国人から上海の友人に送られた手紙にも同様な内容が紹介されている。

 「彼(海軍の参謀将校―引用者)は、パナイ号が失われたことに深い遺憾の意を表明しましたが、彼もまた詳しいことを伝えることはできませんでした。海軍はアメリカ人居住者が上海に行きたいならば喜んで誰でも駆逐艦に乗せて送り届けようし、・・・・というのでした。&&私が、一、二名の新聞記者を除いてわれわれ全員が南京に留まりたいというと、彼はいささか失望したよう

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でした。」(洞富雄前掲書、三一頁)

 海軍将校が「失望」を表わした理由は、「安全と保護」を名目にして、このさい、南京のアメリカ人・外国人を「送遠」しようとしたもくろみが成功しなかったからなのであろう。結果的には、この南京残留組が外国人として唯一南京大虐殺を通して目撃した者となった。

 二人の新聞記者とあるが、十五日午後に下関埠頭を離れたのは、表1の四人の記者と一人のカメラマンであった。これらの五人が日本の軍艦「勢多」で南京を離れたというのは、日本海軍司令長官からアメリカ海軍アジア艦隊司令長官への報告による(『N・T』37・12・16)。ただし、ティンパレー前掲書のさきに引用した手紙には、マクダニエルだけは翌十六日に南京を発ったとある。五人の個々の行動がいまひとっわからないが、かりにマクダニェルだけが別であったとしても、十二月十六日以降南京には外国人記者・カメラマンは一人もいなくなったのである。

 こうして世界の目の届かなくなった南京の状況を、ニューヨーク・タイムズ上海支局のアベンド記者は『N・T』37・12・19で、つぎのように述べている。

 「南京にいた記者全員がパナイ号の生存者を運ぷ上海行きの船に乗りこんだあと、市内の情況は明らかにいっそう悪くなった。彼らが火曜日(アメリカ時間に直したものか。あるいは誤りか。中国では水曜日の十五日引用者)に南京を去ったので、あらゆる残虐行為は、火曜日夜、水曜日、と次第に報道されなくなった。軍紀の立て直しは木曜日に開始された。日本陸軍はいかなる外国人にも長期にわたって南京に入ってもらいたくなかったし、今後も許可は与えないだろう。」

 南京を占領した日本軍による虐殺・略奪・暴行は、十二月十三日からの数日間にもっとも大規模に

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行われ、その激しさは二週間にもわたった。そして虐殺・暴行は翌年の二月初旬までなくならなかった。この南京大虐殺の全貌を南京にとどまって取材し、世界に報遣できる外国人記者は残念ながらいなかったのである。

 もし、パナイ号事件が起こらなかったと仮定してみれば、同事件の「謀喀」的な役割が鮮明になる。パナイ号に待機していた記者.カメラマンは陥落後の南京に戻って取材を試みたであろうし、南京城に籠城していたダーディン、スティールらもまだしばらくはとどまっていたであろう。

 偶然とはいえ結果からいえば、パナイ号事件は南京の包囲戦・攻略戦を取材していた十余人の外国人記者.カメラマンの取材資料を「隠滅」させ、かつ、かれらを上海に「送還」させる役割を果たしたことになる。当時の国際政治の背景を考えると、その「謀略」的役割はいっそう明らかになろう。

 スタンフォード大学フーバー研究所に貴重な原資料を収集した公文書館がある。同所にランドール.C.ゴウルド(RandallC.Gould)の収集資料が保存されていた。かれは『ペキン・デイリー・ニューズ』(PekingDailyNews)の編集者を経て、日中戦争当時は、『上海イブニング・ポスト&マーキュリー』(ShanghaiEvening Post &Mercury)の編集者であった。そこにあった二つの資料に私は引きつけられた。それは「戦争(War)」というタイトルの三冊の英字新聞の写真切抜帳と、一九三七年九月から十二月四日までに発行された九冊の『画報・地方の敵意』(上海イブニング.ポスト&マーキュリー社発行)であった。

 これらをめくりながら、私は「南京虐殺だけではないな」と重苦しい気分に襲われた。そこには上海戦における数千人の難民の群への日本軍機の爆弾投下や広東をはじめ華中・華南の無防備都市の空

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襲など、日本軍による非戦闘員の大量殺戮を告発する写真が何枚となく掲載されていた。一九八五年の暮に訪中したさいに南京大学図書館の書庫で、『戦事画刊』という上海の外国人が同時期に発行したこれらと同内容の画報を見ることができた。

 残虐行為を伝えるさいに、報道写真の効果は大きい。外国人記者・カメラマンが撮影したこれらの写真は、中国はもちろん、世界の新聞・雑誌に掲載され、日本軍の蛮行は国際的非難を浴びた。そして、中国ばかりではなく欧米各地でも抗議運動がひきおこされた。こうした国際世論を背景に、一九三九年九月二十八日の国際連盟総会では、つぎのような非難決議が全会一致で採択された。>


 「日本航空機による&&かかる爆撃の結果として多数の子女を含む無辜の人民に与えられたる生命の損害に対し深甚なる弔意を表し、世界を通して恐怖と義慣との念を生ぜしめたるかかる行動に対しては何等弁明の余地なきことを宣言し、ここに右行動を厳粛に非難す。」(『日本外交年表並主要文書』下巻、三七〇頁)

 そして十月六日の国際連盟総会では、「支那に対する精神的援助の意を表し」「各個において支那に対する援助をなし得る程度を考慮すべきことを勧奨し」という「日華紛争に関する決議」を採択し(同前、三七二頁)、中国の抗戦を支持する立場を表明したのである。

 このような世界の動きを契機に、アメリカ・イギリスの対日政策もしだいに厳しい方向に変わっていった。こうした国際動向の変化を考えると、日本機の無防備都市空襲を世界に報遣した外国人ジャーナリストが果たした役割の大きさが確認できよう。それだけに、南京後略戦の取材に派遣された外国人記者・カメラマンを全員上海に「送還」させた、パナイ号撃沈の「謀略」的役割の重大さが、あ

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らためて痛感される。

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