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5-1 ミチナ (中国名「蜜支那」)-1

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「慰安婦」問題 調査報告・1999

雲南・ビルマ最前線におけ慰安婦たち一死者は語る



5-1 ミチナ (中国名「蜜支那」)-1



写真G カール・ヨネダの訊問を受けるキム。1944年8月3日

写真H ミチナ陥落後に慰安婦となった女性達。正確に20名存在していること、一番右端の手前に写っている女性が、よく見ると年配の日本女性と考えられる。腹に帯を巻いていることに注目。1944年8月14日

 ミチナへの侵攻が、5月17日から始まったときの全般的な戦局については、冒頭に述べたが、6月に入って以後ミチナは完全に孤立した。7月31日の夜、ついにミチナ守備隊は脱出を開始し、8月3日の夜までそれは続いた18)。第56師団から派遣されていた水上少将には、個人としてミチナを死守すべしとする命令が与えられていたため、水上少将は、全軍に撤退を命じ、命令書にサインをした後、イラワジ川の中洲ノンタロウ島の東岸で、8月1日に自決した。また、実質的な指揮権を掌握していた、元第18師団の丸山大佐は、8月3日の夜に対岸に脱出している19)。ミチナ守備隊が最後に撤退した8月3日の夕刻、午後3時45分に連合軍はミチナを完全に手中にしたことを部隊内の兵士に発表した。兵士は祝賀の発砲をしながら大拍手でこれを迎えたという20)。

 しかし、3日の夜にも、日本軍の第2大隊、第3大隊は渡河を続けていた。最後に残されたこれらの大隊の兵士の大部分は、渡る船がないため置き去りにされた。守備兵力、1,200名の中で、無事対岸に脱出したのは、800名に過ぎず、187名が連合軍の捕虜になった21)。

 以上のような状況において、捕虜となった日本軍の中に、大量の朝鮮人慰安婦がいたことはよく知られており、政府発表資料はじめ、様々な資料の中にその写真が引用されている。しかし、諸資料を比較対照させて検討するうちに、重大な誤りが存在することが判明した。8月3日に捕虜になった朝鮮人の女性で、米軍兵士のインタビューを受けている姿が写真に撮影されたキムという名の朝鮮人の女性は、実は慰安婦ではなかったのである。その後に捕虜となった20名の朝鮮人慰安婦と共に以下に改めてその写真を掲げ、ミチナ陥落の8月3日から訊問記録が作成される9月までの1ヶ月間を中心に、写真に写った人物たちの歴史的背景をも交えつつ論証を進める。

 この写真G22)が、今まで長い間、朝鮮人慰安婦の写真とされてきたのは、当事者達の記録故である。しかし、実は当事者であっても機密保持ゆえに必要な情報が知らされていなかったため、当時のいいかげんな風評に基いた記録が、当事者の記録であるが故に事実として誤解されてしまったと考える。まず、その証言を行った人物2人の記録を相互に突き合わせながら、他の公文書及び、尋問記録と対照させてみよう。

 まず最初に重大な記録を残しているのは、この写真の中で鉄兜をかぶって一番手前に写っている、OWIのカール・ヨネダ23)である。ヨネダは、1933年からアメリカ共産党員として日本語機関紙『労働新聞』の主筆をしていた人物である。『労働新聞』は、片山潜が、1914年にアメリカに亡命して以後、アメリカ共産党設立に加わった時から、片山を初代主筆として発行されていた。ヨネダは、真珠湾攻撃後一旦は日系アメリカ人の収容所に入れられたものの、「ファシスト撲滅こそ唯一の救いの道であるとの考えにやがて到達し、ついにアメリカに忠誠を誓い、日系の将来のために米軍に志願するという運動」24)を始めた。それが認められて、OWIの要員となったが、OWIは、Office ofWar Information(戦時情報局)の略語で、心理作戦のための宣伝ラジオ放送や、ビラの作成を任務としていた。そのヨネダの指導と指揮を行ったのが、ジョン・エマーソンであった。エマーソンは、1944年に延安を訪れ、「日本兵俘虜の再教育、日本人民解放連盟、八路軍その他の視察、宣伝文書の交換」などを行い、日本共産党の野坂参三とも会見している。エマーソンのもたらした野坂の情報は、戦後日本の占領軍による共産党政策に大きな影響を与えた。

 また、延安の日本兵の中には、八路軍への参加声明書を発表し、「斯うして正義に目覚め、真の敵を知った我々は今日茲に、大いなる歓喜と希望にあふれつつ八路軍に正式参加を発表する」と唱えたものさえあった25)。ヨネダは、こうしたエマーソンの延安での活動を模範としながら、レド米軍基地拘留所に収容されている30余名の日本兵の中から、「神経戦工作に好意をもち、提案その他の助力をなし得る五名の将兵を選ん」で、彼らの反応を確かめつつ、宣伝ビラの作成を行っていた。ミチナを脱出した丸山大佐に対して、慰安婦を置き去りにして逃げたのとの痛烈な批判をビラの上から浴びせたのも、ヨネダである。

 ヨネダの8月の日記から、写真のインタビューが行われた付近の記録を引用しよう26)。

 8月1-2日 「掃蕩戦だからミチナの完全占領は時間の問題だ」と一戦友が語る。それでも日本兵は強情に反撃してくる。敵の本部の塹壕に到達したとき、入り口で数名の病傷兵と、驚くなかれ二〇余名の朝鮮系慰安婦が中米兵士に取り囲まれている。「どうしたのか」と問うと、「俘虜を後送するためにMPと衛生兵を待っている。第一一四連隊長丸山房安大佐は、昨夜こっそりと壮健な部下をつれて逃げ出し、彼らや彼女らを置きっぱなしにした。日本の将校は臆病者だ」という。全くその通りだ。"General whoreaps glory while his 10,000 die."(一将功成りて万骨枯る)だ。

 この中で、大切なポイントとなるのは、丸山大佐が逃げ出した翌日に、「二〇余名」の慰安婦が、日本軍本部の塹壕付近で中国と米国の兵士に取り囲まれていたと、ヨネダが証言していること、しかもそれが、8月1日、もしくは2日とされていることである。そもそも、丸山大佐が脱出したのは、3日の夜である。するとその翌日は、4日のはずである。確かに、日本軍の脱出は、7月31日の夜から始まっており、水上少将も1日に脱出したとされているから、当時の米軍情報では、丸山大佐の脱出を31日か、1日に誤解していたと解釈する他はない。しかし、いずれにしてもこの日時と場所は、慰安婦の尋問記録にある、10日に対岸でというものとは全く一致しなくなってしまう。

 この個所に続くすぐ次の頁の同じ1日と2日の記録の中に、もう1ヶ所、慰安婦に関する以下の記述があり、それから判断するとヨネダの記録が20名の方に関しては、不確かなものであることは明らかである27)。まずは、最初の1名に関する記述を中心に、引用を続ける。

 本部に帰って、臨時拘留所に出かけると、多くの米軍兵隊が"涎を流す"ような顔をして鉄条網によりかかっている。衛生兵が慰安婦の足や手にできている水虫に薬の手当てをしているのを見ていたのだ。MPの許可を得て中に入るや、一人のGIが私に、「何の特権があるのか」と詰問調に問う。「私は訊問官だ。君が日本語を話すことができれば入れるよ」と答えると、彼は無言で退却。どの女も、宣伝放送は塹壕の中にいたので聞いたことはないという。病傷兵の中で、聴いたが足が動かないためどうすることもできなかったという者あり。手榴弾を与えられたが使わなかったとのこと。大した反応はなく、レド基地に送ったあと、ゆっくり訊問することにする。八月三日木曜日朝雨・午後晴天 朝起きて「ミチナは陥落したか」と戦友に聞くと、「まだだ。今掃蕩戦中だ」と答える。

 ここでのポイントは、8月3日起床する前日、つまり2日に、朝鮮人の女性に対して尋問を行ったと証言している点と、衛生兵が慰安婦の「足や手にできている水虫に薬の手当て」をしていたという点である。ヨネダは、5日朝、飛行機でレドに飛び、OWI本部に帰還した28)。その後レドで綴られたはずの、「八月六-三一日(OWIレド本部)」という日付の日記を残しているが、そこでは「八月三日、ミチナで捕まった朝鮮系慰安婦二一名に関すること」29)と記しており、自分自身が、最初に1日もしくは2日と記した記録とさえ、以後の記録は一致していないこととなる。最初の1人に関する記述も曖昧であるということができよう。

 しかし、とりあえず、ヨネダが21名の慰安婦が同時に8月3日に捕虜となったと認識している前提で、次を参照することとしよう。

 彼女たちは直ちにレド基地拘留所に空送され、皮膚病などの治療を受けた。そして訊問役は依地軍曹。彼は二週間にわたって彼女たちを一人づつ詳細に調べ、膨大な報告書を作って本部に提出し、「極秘」のスタンプがおされた。ところが、本部文官はおろか、基地司令部の将校まで「ちょっと読ませてくれ」と大評判になった。もしも印刷して発売したらベストセラーになり、依地は大金持ちになれるぞ、と冷やかす声があがった

 「極秘」のスタンプが押されたことだけは、この証言からも、また実際の公文書からも確認される。恐らくヨネダ自身は、この尋問記録を読むことが出来ない立場にいたのではなかったろうか。だからこそ、「ベストセラー」云々の話を持ち出し悔しい気持ちを代弁すると同時に、自分がたった1人の朝鮮人女性をごく軽く尋問したに過ぎないのにもかかわらず、偶然写真が撮られていたことを幸いとして、さも自分がその中の重要な1人であったかのように記述を作り上げたとはいえないであろうか。

 この不一致と謎に満ちたヨネダの証言を検証すべく、次にスティルウェルの情報担当将校として勤務していたチャン・ウォンロイ(Chan Won-Loy)という中国系アメリカ人の証言にあたってみよう。チャンは、写真Hの中で、左側の一列に4人並んだ、米軍兵士の一番手前に写っている人物である。チャンは戦後も長くアメリカ陸軍に勤務し、退役後に当時の関係者や公文書の記録を元に、『ビルマ- 語られざる物語』(日本語の書名は著者による直訳、原文は、"Bruma The UntoldStory")30)という本を執筆している。

 初めに、簡単なチャンの紹介をしよう。チャンの父は広東近くのSam Shui から19世紀末期にアメリカにわたった。1906年まで、サンフランシスコに住み、大地震をきっかけにそこを離れ、ノースベンドに引っ越し、結婚して雑貨店を開業した。チャン・ウォンロイは、そこで1914年に誕生している。4男2女の中で、少なくとも長男ではない。アメリカの小学校に行くが、父から広東語を家の中で話すようにいわれ、文化遺産としての千字文を強制され唱えながら店を手伝った。サンフランシスコの中学に行きつつ、夜間には中国語学校にも通った。その後再び故郷の、ノースベンドに帰り、高校を1931年に卒業して、1936年にスタンフォード大学に入学。クラスの中でただ1人の中国系アメリカ人だったという。経済学を学ぶ傍ら、予備役訓練課程をとり、1936年に陸軍野戦砲兵予備役となる。1937年の秋にスタンフォードの法律学校に入学。しかし兄が亡くなり、父の家業を手伝う。日中戦争が勃発、祖国中国救出のために貢献したいと考える。中国医療援助のためのアメリカビューローに志願。真珠湾攻撃後、第4軍の情報学校に入学し、1942年の初頭から日本情報専門家となるべく訓練を受ける。その頃から、チャーリーと呼ばれる。同年5月に組織が変わり、情報学校は軍事情報局語学学校(MillitaryIntelligence Service Language School : MISLS)になる。そこを同年11月に卒業。読み書きのみならず、一般的な情報科目についても学ぶ。以上の訓練の上に、捕虜の尋問や拘留を担当する職務を、スティルウェル総司令官の下で担当することとなった。

 チャンは、慰安婦が捕虜となった状況について以下のように記述している31)。

 キャロル・ライト少佐と私は、我々が向かっていることを参謀長に伝え、全部隊に対して、捕虜の収容は飛行場において行うべしとする通告を発する旨を伝えた。(中略)8月3日に捕らえられた捕虜の中で、最も関心と好奇心をかきたてたのは、キムと名乗った1人の若い朝鮮の女性であった。カチン族からなるモーリス部隊によって、彼女は1人の日本軍兵士と壕の中にいる所を捕らえられた。

 キムは、「慰安婦」であったが、たった1枚の膝上までの衣服しか身につけていないことでいかにもその役割をしていたように見えた32)。我々は、憲兵を配置して周りを固めさせたが、OWIのカール・ヨネダ准尉は、私に対し、簡単な質問をしてもいいか許可を求めてきた。我々は、正式の捕虜達への質問に忙殺されていたため許可を与えたが、カールが彼女に何と質問をし、彼女が何と答えたのかはついぞ一度も耳にしなかった。後になって、私は彼女にちょっとした定式通りの質問をしたが、彼女が価値ある情報を持っていないことはすぐに明らかとなった。次の日、我々はレドへと向かう飛行機に彼女を乗せ、捕虜と民間人の収容に責任を持つ英国当局に引き渡した。

 この証言の中で、大切なのは、8月3日にキムという朝鮮人の女性が1人だけ捕らえられたこと、彼女を慰安婦であるとチャンが認定した根拠は、膝上までの衣服だけしか身につけていなかったことにすぎないことである。これをヨネダの証言と突き合わせて見ると、ヨネダが、「MPの許可を得て中に入るや」、「どの女も、宣伝放送は塹壕の中にいたので聞いたことはない」と、あたかも大勢の女がいたかのように書いているのは、明らかな記憶違いか、捏造であったことがわかる。公文書の記録を見ても、キムが捕虜となったのは、8月3日で、他の20名の朝鮮人慰安婦が捕虜となったのは、実は10日なのである。

 ミチナには、63名の慰安婦がいたとされるが、20名の証言によると、7月31日に全員が対岸に脱出しており33)、この3日の時点で、キムと一緒に他の大勢の慰安婦もいたとは考えられない。また、キムが脱出しそこねた慰安婦である可能性も、脱出したとされる63名が、慰安婦だけから構成されていたと記載する尋問記録34)と、家族や従業員を含むとしている記録35)が2つ存在することから、数の点だけから判断するとありえないことではない。しかし、ヨネダが言うように8月3日の時点で他に多くの女性がいたというのは誤りである。8月3日に捕虜となった朝鮮人の女性は、キムという1人にしかすぎなかったのである。たった一人だけというこの事実が、公文書としての尋問記録と対比させると、大きな意味をもって我々に迫ってくるのである。

 このキムという女性が、本当に取り残されて脱出し損ねた慰安婦であったのかどうかを吟味するにあたって、決定的に重要なのは、8月3日にミチナで捕虜となった、「宮本キクエ」という日本名を名乗る朝鮮人女性看護婦の尋問記録が存在することである36)。この記録には、宮本が「ミチナ陥落時に『朝鮮人慰安婦』と共に捕虜となる」(原文 "in the company of "the KoreanComfort Girls" when Myitkyina fell")と記されているが、そもそも捕虜となった日付は、「8月3日付近」と記され、尋問が行われたのは、8月8日と記されている。8月3日に捕虜となった朝鮮人女性は、たった1人だけであり、宮本が捕虜となった日付が、8月3日であることから、この写真Gに写っている、「慰安婦」とされてきた女性は、実は宮本という日本名をもった朝鮮人看護婦であったことが判明する。尋問の内容は、それを更にはっきりと示してくれるものとなっているため、少し後に全文を紹介したい。

 なぜ今までこのような基本的な事実に関して大きな誤解があったのであろうか。ヨネダやチャンが、日本軍の中に慰安婦が存在しているという情報を聞いており、そために、最初に捕虜となったこの朝鮮人女性を慰安婦であると即断したこと、実際に捕虜を尋問した人物は別でしかも機密とされたためにその情報が伝わらなかったこと、この2つが要因であろう。実際ヨネダは当然としても、チャンもこの尋問記録を見ていないという証拠が著書から判明する。チャンは、ミチナ全体で何人の慰安婦がいたのかは不明であるが、少なくとも後で捕虜になった20人と最初の1人と合わせて21人はいたと書いているからである37)。ここから、慰安婦達が語った尋問記録にある63名という数をチャンが知らないのは明らかであり、尋問記録は少なくともチャンの著書執筆の時点では参照されていない。いずれにせよ、機密とされた公文書に確認することなく当事者の回想が執筆されたため、それは当事者の記憶故に重みを持ち、それが今に至るまで、資料の価値を歪めてきてしまったのである。

 この結論に立って、改めて写真Gの写真資料を吟味してみよう。そもそものキャプションには、「日本語通訳であるサンフランシスコのカール・ヨネダ准尉が、空港にある憲兵の営倉において、日本人の『慰安婦』に質問をする。傍らにマサチューセッツ・フランクリン出身のエドワード・セイントジョンⅡ世が、背後で警備にあたる。キムはミチナにおける看護補助として勤務した」38)と述べられていた。確かにここでも「慰安婦」という言葉は使われているが、その一方で「看護補助」(原文は、nurses aid)という言葉が使われており、素直にそれを解釈すればキムは、看護婦なのであり、恐らくそれはキム自身が、ヨネダに対して最初に回答した言葉を元にしているのであろう。ヨネダやチャンは、慰安婦が時には看護業務もこなすと知っていたがために、それをそのまま信用せずに、朝鮮人の女性であることから、「慰安婦」であると即断したのだと考えられる。実際写真を見ると、キムの着ている衣服は、看護婦の制服ではないだろうか。ワンピースで、丈が膝の上というのもうなずける。また、ヨネダが最初にキムを見つけたとき、足と手に水虫が出来ており、それを看護兵が治療していたと証言していることも、キムが看護業務に長期間従事してきた傍証となる。看護婦だからこそ、水虫になるのであり、慰安婦が水虫になるというのも奇妙ではなかろうか。

 また、ヨネダとキムとの間に、写っている日本人の兵士の存在が今まで無視されてきたが、これはヨネダの通訳ではない。そもそも、ヨネダの日本語能力は、戦争前に広島に留学していたことから見てほぼ完璧である。兵士の着ている衣服を見れば、それが明らかに日本軍兵士のものであることが分かる。もしも、ヨネダと共に、先に捕虜となっていた日本人元兵士が同行したとしても、ヨネダと同じ方向に座ったであろうし、制服も米軍のものに着替えていたに違いない。男性の兵士と並んで写っているということは、この営倉が非常用のものに過ぎず、写真に写っていない営倉内の空間に一緒に収容されていたのは、男性兵士であったであろうことが分かる。キムは、次の日に収容施設の整ったレドに送られていることから、恐らくこの8月3日を最後に、男性兵士と話をする機会は与えられなかったに違いない。もしかするとこの男性は、カチン族兵士に捕らえられたときに一緒にいた、兵士かもしれないし、さらにそれは、次に掲げる宮本(改めキム)の尋問記録の中に出てくる、「Tushida」という名の兵士とも同一人物であった可能性があるが、この点に関しては、明確な証拠は何もない。ともかく、宮本、改めキムの尋問記録の紹介を次に行うこととしよう。キムがみせかけだけの看護婦で、実は慰安婦であったのか、それとも本当の看護婦であったのかが以下の尋問記録によって更にはっきりする。

 尋問記録の冒頭に付けられた基礎データによると、宮本キクエ(キム)は捕虜になった当時の年齢が28歳、満州国にて出生し、6年間小学校に通った後、朝鮮の平壌で1年間看護学校に通い、1942年8月第2野戦病院に所属してビルマに到着、1944年の8月3日に捕虜になった。平壌には母親と姉妹が居り、結婚はしていない。尋問は、8月8日「戦闘司令部」で、「アクネ・ケンジロウ」によって行われた。以下、尋問記録のほぼ全文を訳出するが、括弧の付されているところは、原文でも宮本自身の言葉を示す引用符がつけられている。

捕獲時の状況(下線部原文):ミチナ陥落時に、「朝鮮人慰安婦」と共に捕虜となる。
評価:捕虜から得られた最も貴重な情報は、日本人による朝鮮人差別についてのものである。彼女は、連合軍の捕虜になったことを幸いと考えている。というのも、日本人の彼女に対する取り扱いよりも、ここでのそれのほうが良いと分かったからだ。彼女は病院勤務開始以来、軍事に関する興味深い情報を何度か聞いているため、大抵の兵士が知らないような情報も数多く提供してくれた。例えば、大東亜決戦機として知られている新型の戦闘機についてである。この飛行機は現在日本が有する最高の性能をもったものとして知られている。

情報と宣伝
ニュース:「新聞を読む時間も見つけてはいましたが、睡眠をとることも何とかしなくてはなりませんでした。」
リーフレット(ビラ):「私は、『出てきなさい。もう大勢のお仲間達が我々の所にいて、よい待遇を受けていますから』というビラを読んだことがあります。フーコン峡谷においては、55・56師団の壊滅を伝えるビラを読みました。菊兵団(18師団)の多くの兵士達が、ビラがとてもよく書けていて、それからすると、敵の捕虜になった我軍の兵士が書いているんだろうな、と口々に話しているのを聞いたことがあります。でも、そんなことにはあまり関心がありませんでした。誰が朝鮮を掌握しようと問題じゃないから。今まで朝鮮人はひどすぎる扱いを受けてきたので、どこか他所の国が朝鮮を掌握することになったとしたって、今より悪いなんてことにはならないと思います。朝鮮ではたくさんの反日運動が存在していて、私もその中の一グループといっしょにどこかに隠れてしまおうと思ったこともありました。しかし、母がその計画を知って、私が殺されたり刑務所に入れられるんじゃないかと、とても心配したので、この反日団体と行動を共にすることができませんでした。この団体は朝鮮の周りのどこかに潜んでいると私は信じています。」

戦闘状況
医療看護:軍医達は彼女を犬のように扱い、牛馬の如く酷使したと、この捕虜は主張する。「一緒にいた日本人の看護婦達は、安全のため後方に送られたというのに、軍医達は私に最後までここに踏み留まって兵士と一緒に死ねと命令しました。またそれまでにも、私がマラリアにかかってベッドに横たわっていたとき、他の女の子が軍医に薬と注射をお願いすると、軍医は私が仮病を使って仕事をなまけようとしていると言って、水を浴びせて私をたたき起こしました。私は悪寒と高熱にもかかわらず働かざるを得ませんでした。他の看護婦達が普通の看護婦の仕事をしているのに、私の方は汚れた衣服やガーゼを洗う汚い仕事をしなければなりませんでしたし、給与にも差別がありました。日本人の看護婦が150円貰っているのに、私は100円足らずでした。他の看護婦達が全部後方に送られたというのに私はもっとひどく働かなければならなかったのです。軍医でさえ眠る時間は確保されているというのに、私は仕事に追われて3日も働きどおしでした。もし、ちょっとでも休もうものなら、すぐ軍医にたたき起こされたでしょう。ある時私は気が変になりかけて、ここを抜け出して敵の捕虜になってやると言ったことがありました。軍医は勝手にしろと言うなり、もし敵がおまえを捕まえれば、敵はおまえを強姦して殺すだけだと言ったんです。捕まったとき私が怖がったのはそれも1つの理由でした。しかし実際は何も起きなかったどころか、非常によい待遇を受けてます。他の日本人は皆1年2度のボーナスが支給されましたけれど、しばらくの間、私にはそれがありませんでした。私が朝鮮人であるというだけの理由で差別したんです。」

「兵士達は私が朝鮮人であるからといって、よく私をからかいました。また、看護をしている最中に戦争の話を聞こうとすると、兵士達はとても怒ったものです。それは女が考えるようなものではないといって、私を追い払いました。聞いたことがないようなニュースがあると、私はよくそれが何なのか聞かせてくれとせがみましたが、いつもひどく叱られました。」

航空支援:(省略)

一般的考え
日本と朝鮮:「日本は持たざる国なので、もし敵のほうから最初に攻めてきたら、日本は手ひどい損害を被ったでしょう。だから日本は最初に満州に攻め入って、戦争を始めるのに必要な資源を押え、次に中国と戦って準備して、いよいよ準備が整うと、アメリカに攻撃を仕掛けたんだと思います。もし日本の方から戦いを欲しなかったら、戦争は避けられたと思います。もし日本が勝ったら、朝鮮や他の国はますますひどいこととなるでしょうね。日本人はそんな人間達ですから。もし日本が勝てば、日本人はそれを見せびらかすようにして、ますます思いあがると思います。私は日本なんか徹底的に負けてしまえばいいんだと思っていますわ。さっきもお話したように朝鮮を解放しようと、隙をうかがって偉大な人たちがどこかに隠れているんですから。今になってみて、私も一緒に仲間に入るんだったなって思っています。朝鮮人の警官は日本人の警官よりももっと始末に負えません。日本人と同じになったといって鼻に掛けるし、ひどいのになると日本への忠誠心を見せつけようとする方さえいる始末。人を大事に扱ったらいいのに、することはその逆です。日本人のためにしばらく働くと、人は皆な、同じような人間か、もっとひどいやからになってしまうみたいです。私は日本が負けるって分かっています。ミチナでだって最初は勝つといったのに、どんなことになったか見ればわかります。でも、戦争が長引けば長引くほど朝鮮人はもっときつい仕事をしなければならなくなりますね。朝鮮人は食料がちょっとしかもらえなくて、着るものもあんまりないし、食料作りにみんな駆り出されているんです。私の母もよく半狂乱になってしまう程、ひどい扱いに抗議したものです。でも、もしそれが他所の人にばれたら、おそらく刑務所送りだったと思います。先日、ここの捕虜収容所にいるTushidaママ(筆者注:Tuchidaの誤りか)中尉が、私に向かって、他の兵は全員ミチナから無事に脱出したのかって聞いてきたので、私は、もう皆な捕まってしまって、すぐここにやってきますよと答えてやったんです。彼は私が言ってやったことにとてもとても驚いていましたね。」

ドイツ:「日本はドイツの支援無しには、この戦争に勝てる見込みはないでしょう。もうドイツは、ヨーロッパ戦線で負ける一方ですから、こっちの方で日本が勝つ見込みはないと思います。」

米国・英国・中国:「アメリカ人は100%日本人よりもマシです。もしアメリカ人が捕虜になったら日本からこんなによい待遇は得られやしない。でも実を言うと、日本軍の捕虜になったアメリカ人やイギリス人の待遇の方が、中国人よりもマシになってます。中国兵が捕虜になったら殺されてしまいます。この目で見たことはありませんが、何度もそんな風にしてやるんだっていう話を耳にしたことがありました。この前、白人が病院に連れられてこられた時、軍医は出来る限り最高の待遇を与えていました。私も中国人は好きじゃない。非人間的で、遠慮がなくって、無作法だから。朝鮮人にとっては、そんな感じが普通だと思います。満州にいたときから、私は中国人が好きじゃなかった。」

待遇:「ここで受けている待遇は、今までのどんな待遇よりも上等です。とても自分が捕虜だなんて思えない。確かに捕虜だけれど、日本の奴等と一緒の時よりは、はるかにマシだと思います。」

日本への帰国: 「日本に帰ることは関心がありません。その代わりここで結婚して、ここに住み着きたいと思っています。でももし命令なら仕方なく帰るけれど、そうでないならいやです。」

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注《浅野論文》



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