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4 騰越(中国名「騰衝」)

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「慰安婦」問題 調査報告・1999

雲南・ビルマ最前線におけ慰安婦たち一死者は語る



4 騰越(中国名「騰衝」)



 騰越は、明代に築かれた中国の城壁都市である。最初に作られた援蒋ルートであるラングーンから昆明に抜けるビルマルートの北方、騰越平野の中央に位置しており、人口は4万人で怒江地区の「政戦略上の要衝」11)であった。城壁はほぼ正方形で、1辺が約1キロで、城壁の高さは約5メートル、外側は石、内側は積土によって構築されていた。雲南から攻め込んできた中国軍との決戦場が、龍陵に決まってからは、守備兵が抽出され、戦力は減少する一方であった。孤立した戦いが展開されるが、まず騰越城の周囲の山々に築かれた砲台陣地が6月下旬から攻撃され、7月4日からは騰越城の中央門に対する砲撃と航空機による爆撃が開始された。以下図3が騰越付近の戦闘経過概見図、図4が騰越城内市街戦の展開図で、いずれも戦史叢書からの引用である。

図3 騰越城付近戦闘経過概見図。『イラワジ会戦』294頁より引用。

図4 騰越城内市街戦展開図。『イラワジ会戦』302頁より引用。

写真D 騰越城内の城壁の角に、散乱する死体(1944年9月15日)


 この騰越の戦闘で死亡した、慰安婦らしき女性の写真が、米国のナショナルアーカイブにあった。思わず目を背けたくなる写真ではあるが、冥福を祈りつつあえて掲げさせていただく。ところで、米軍の写真部隊が撮影した写真の中には「日本人の死体」「朝鮮人の死体」という分類に付された一群のおびただしい死体の写真が存在している。戦場の心理を反映しており、とても正視に堪えないものが多い。著者もそうしたアルバムの閲覧中に、途中で吐き気を催し、モノが喉に通らなくなった。これは、そうした写真のごく一部を抽出したにすぎない。

 写真D12)のなかで、何よりも注目に値するのは、上部左から中央にかけての土壁と、中央部から右側にかけての白壁、および白壁に残る弾痕である。騰越城の玉砕は、図4に示されている通り、城壁の四隅の中で北東の角が最終陣地となって行われたこと、この写真の日付が、玉砕の翌日の15日である事を考え合わせると、恐らくこの写真は、その北東の角の最終陣営辺りを写したものであろう。また左側の壁の材料が漆くいのないものであることから、カメラマンは角の北側の城壁の前に立って、東の城壁(漆くいのない壁)にカメラを向けて写したのではないかと考えられる。画面右側の漆くいのある壁は、城壁に沿って建てられた家屋のものではなかろうか。

 写真の中央部やや左に、横臥している2つの遺体があるが、その左側の方は、爆風もしくは火炎放射器の火炎によって、衣服がめくれ上がり胸部が露出している。その様子から明らかに女性のものであることがわかる。めくれた衣服と左腕によって顔はほとんど見えないが、ほんのわずか鼻からあごにかけての部分がすこしだけ覗いているようにも見える。腹部から大腿部にかけて、火傷による黒焦げの跡が痛々しく残っている。この写真のキャプションには、「日本軍兵士及び女性の死体」との説明が付けられているが、「女性」という部分は、タイプではなくペンで書き加えられている。

写真E 死体の埋葬をする3人の中国兵と女性の死体(1944年9月15日)

 写真E13)は、一見してすぐに騰越の城壁内部のものではないことが分かるであろう。それにもかかわらず、キャプションには、騰越のものと記されていることから、周辺のどこかということになる。写真の中の、木立の様子、遠くに見える山の稜線、画面全体から受ける雰囲気から考えて、ここは傾斜した場所であることが分かる。図3の地図と見比べると、この写真は騰越城の南にそびえる来鳳山の周辺で、日本軍が砲台陣地を構築した、桜、松、梅の陣地か白塔高地ではないかと考えられる。写真の左上に覗いている山頂が、来鳳山ということになる。

 中国軍兵士が鼻を覆っていることから考えると、死体の腐乱は相当に激しく進んでいるようである。死体の上に沢山の点のようなものが写っているのは、ハエであろう。手前の中国軍兵士はトビ口をもっており、これで引っかけて遺体を集めてきたとも考えられるが、日本軍が玉砕する前にそこに遺棄したものとも考えることができるし、地下壕に爆弾が落ちて生き埋めになったというのも可能性としては考えられる。しかし、バラバラになった遺体が露出していることや、写真のキャプションの中で、「不審に思って立ちすくむ中国兵士」とあること、またハエが一面に密集している状態を考えると、日本軍が立ち去った時から、そのままそこに遺棄されていたと考えるのが自然であろう。

 米軍の写真部隊が付けたキャプションには、撮影の日付は1944年9月15日で「埋葬を行おうとする中国兵が、騰越で殺された女性を前に不審に思ってたたずんでいる所」(原文の注を参照、英文スペル判読の難しい所あり)と、「大部分の女性は日本軍基地にいた朝鮮の女性達である」という説明が付けられている。

 来鳳山への攻撃の開始は6月27日で、戦闘の激化した総攻撃は7月10日、23日と26日に行われた。最後の総攻撃の際、城壁との連絡を絶たれそうになったので、守備隊は27日夕方に脱出し、以後その来鳳山陣地は放棄され、北に位置する騰越を取り囲む城壁戦、そして城壁が突破されてからは市街戦へと戦いの焦点は移った。恐らく写真の遺体は、来鳳山陣地脱出の際に遺棄され、1ヶ月半あまり放置された後、騰越城が最終的に陥落してから撮影されたものと考えられる。

 以上、騰越の2枚の写真を見ながら分かるのは、それにしても何故このような最前線に慰安婦達を伴っていったのかということである。自由意志による契約を建前とし、運営と管理の責任は業者や慰安婦の方にあるという論理を現代の一部の論者が保持しようとしたとしても、雲南方面からの来襲が予想される最前線に慰安婦達をともない、戦闘行為にまで巻き込んでしまっているのでは、民間人への必要情報の提供、保護避難の確保に対する軍の責任は当然問われなければならない。しかし、こうした責任追及は、そもそもが無意味なことかもしれない。なぜなら、こうした状況を見れば、慰安婦はもはや単なる民間人などではなく、最前線の最も過酷な戦闘部隊の一部として完全に組み込まれてしまっていたことが明らかであるからである。あるいは玉砕の可能性が高いからこそ、逆に慰安婦の存在が必要であったとの推測さえ可能である。

 民間の業者もしくは慰安婦が勝手に危険なところにやってきたというような論法を、あるいは誰かが唱えるかもしれない。しかし、必ず起こるとは言えないが十分な危険性を故意に隠蔽した責任は、少なくとも免れないであろう。また慰安婦を拉孟に連れていった女衒自身も、慰安婦達が「実質的には部隊付き」になっていたこと、それでいながら、慰安婦達を手榴弾で殺害されたことに対して、「悔しい思いをしている」と述べていることは先に引用した通りである。

 当時雲南方面の防衛にあたっていた第56師団では、反攻開始の日付と場所を暗号電報の解読によって、反攻5日前に察知し、さらに絶対優勢の敵を怒江上流から下流にわたる広正面で迎撃するために、敵を怒江沿岸から内陸部に引き込んで戦う「内線作戦」を前提に、籠城のための築城を進めていた14)。こうした防衛作戦をとる以上、もし慰安婦が民間人であるというのなら、当然いち早く後方へ避難させるべきであったろう。慰安婦達をそのまま留め置いたということ自体に、もし慰安婦が民間人であるという形式をとるとすれば、重大な軍の責任が問われるであろう。百歩ゆずって、兵站や傷病看護、兵士の士気維持の必要等の「諸事情」によって、後方への民間人の搬送を慰安婦優先で行うわけにはいかなかったとの言い訳を仮に受け入れるにせよ、騰越城の南に位置するただの陣地に過ぎない場所にまで、慰安婦達を伴って行ったという点に関しては、いかなる正当化も行うことはできないであろう。戦史に残される勇猛な戦闘の背後に、軍規の弛緩はここまで進んでいたと言う外はあるまい。情報も与えられず最前線に留め置かれる慰安婦達の立場は圧倒的に脆弱であり、慰安婦達の自由意志という形の論理は、最前線に留め置かれた慰安婦達と軍の関係を律する原理となり得ない。戦闘部隊の一部としてはめ込まれた、文字どおり「奴隷」的な状態という以外にはないのではなかろうか。

写真F 騰越の守備兵玉砕後、中国軍の捕虜となった18名の慰安婦達。台湾人3人、朝鮮人2人、残りは日本人

 騰越城陥落の際、多くの慰安婦達が犠牲になる中で、救出され中国軍の捕虜となった慰安婦達がいた。その写真を上に掲げる。

  この写真F15)は、元々2枚撮影されていたものを、筆者が左右に貼り合わせて一枚にしたものである。これは、中華民国第198師団第592団団長陶達綱によって保存され、その著書に掲載されたものである。その撮影されたときの状況が、陶達綱によって以下のように記されている。

 友軍の53軍各部隊も勇敢に騰越城内に突入し、25日午後、騰越城内の日本軍は完全に消滅した。我が軍に捕獲された武器は、野砲・山砲・速射砲・軽重機関銃・歩兵銃・騎兵銃などおびただしい数に上った。捕虜の中には3人の女性がいた。年齢は20歳余りで、髪は短く刈り込んでおり、もはや人としての形を成していないほど、すさまじいばかりの惨澹たる形相16)であった。彼女達は飢えと緊張のためひどく疲労していおり、日本語交じりの台湾語をはなした。これは日本軍の中にいた、「営妓」であって、日本軍の獣性をあます所なく示すものである。話しかけてもその答えが分かるものが誰もいなかったので、私の目の前に3分弱ほど留め置いたが、すぐに後方へ送ることとした。彼女たちは我が軍が洞窟の中から見つけ出してきたものである。何と惨めで可憐なことであろう。彼女たちは日本軍によって脅迫され営妓になった台湾同胞の女性達であり、実に日本軍の行いは憎むべきもので、その悪辣さを物語るものであろう。

 撮影されたのは、25日の午後であると、陶達綱は書いている。しかし、騰越の玉砕が14日であることから、それは誤りであろう。台湾で出された中華民国の記録『中華民国重要史料初編-対日抗戦時期第二編作戦経過』に収録されている、9月14日の戦闘報告の中でも、「軍官3員、士兵52名、営妓18名」17)を捕虜にしたとあって、写真に付けられているキャプション、「台湾人3人、朝鮮人2人、残りは日本人、合計18名の営妓」の説明とぴったり一致していることから、25日の午後というのは、実は15日の誤りである。14日に捕虜になった慰安婦の中から、台湾人の3人が特別に、団長の前に引き出され、翌日15日に面会となったものと考えられる。

 騰越城内での市街戦の中で、どのような状況で捕虜となったのかは、残念ながら管見の限り不明である。城内北東の最終陣地の角付近と思われるが、先に掲げた壁の脇に横たわる遺体と考え合わせると、最終突撃以前の段階で投降したのかもしれない。いずれにせよ、18名の生存者がいたことは幸いであった。彼女たちは、後方に送られたとのみ記されているが、その後の足取りは不明である。

注《浅野論文》



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