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3 拉孟近郊の松山陣地

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「慰安婦」問題 調査報告・1999

雲南・ビルマ最前線におけ慰安婦たち一死者は語る



3 拉孟近郊の松山陣地



 まず、写真Aをご覧頂きたい。これは、既によく紹介されている写真であるが、「松山」という場所で、1944年9月3日に撮影されたものである。松山とは、日本側で拉孟(中国語の表記は、「臘猛」)と呼び習わした街の近郊にある山の名で、日本側が強靭な陣地を構築して最後まで立てこもった場所である。

写真A 1944年9月3日松山にて アメリカ写真部隊撮影

 この写真のキャプションには、「ビルマロード上の松山という地点の村で、中国第8軍の兵士によって捕虜にされた4人の日本女性」3)と記されている。一見して目に付くのは、汚れた着衣、1人の妊娠したお腹、左脇に笑顔で屈んでいる男性、その横に転がっている捕獲されたとみられる銃、などであろう。松山陣地と拉孟市街、ビルマルートとの関係については、図2を参照されたい。


図2防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書 イラワジ会戦-ビルマ防衛の破綻』朝雲新聞社、1969年、284頁より引用。

 この写真史料に映像として刻まれている松山の慰安婦については、2つの対応資料を米国と台湾で見つけることができた。最初に紹介したいのは、ワシントンのナショナルアーカイブに保存されている「ラウンドアップ」というビルマにいた米軍兵士の間で読まれていた新聞である4)。「ラウンドアップ」の同年11月の記事によると、松山で捕虜となった慰安婦は、朝鮮人が4人で日本人が1人とされており、写真に出てくる慰安婦4人と同じである。また合計で5人という数字は、中国側でビルマ遠征軍司令長官から蒋介石に送られた9月7日の記録5)に、「敵婦五名」を「俘虜」にしたとあることからも裏付けられる。

 「ラウンドアップ」のタイトルは、「日本の慰安婦」(原文:"JAP COMFORT GIRLS")で、ウォルター・ランドルという記者によって執筆された。ビルマと雲南の国境地帯を北から南に流れている怒江(別名:サルウィン河)前線から寄せられたものと但し書きがついている。また、ランドル記者が慰安婦にインタビューをした際に通訳を務めたのは、「満州から脱出してきた日本語を話す中国人学生」で、恐らく写真の左端に笑顔で写っている青年がそれだと考えられる。

 写真から一見してわかるのは、過酷な環境に長期間置かれてきたことである。写真に写っている汚れた着衣は、船がシンガポールに寄港した際に買った綿製の洋服であったという。2年間にかくも汚れてしまったわけだが、特に6月7日から3ヶ月間に及んだ孤立無援の戦いの中で、着の身着のままの状態が長く続いたのであろう。それは衣服のみならず、髪の毛の様子からも窺われる。7月中旬に第1貯水槽が破壊されると、水道施設の機能は停止し、守備兵は夜間に水袋を背負って川まで降りて給水を続けたという6)。水が欠乏していたのである。

 インタビューをもとにまとめられたこの記事によると、慰安婦達の年齢は、24歳から27歳で、捕虜となるまでの経緯は以下のようであった。

 1942年の4月初め、日本の官憲が朝鮮の平壌近くの村に来た。彼らは、ポスターを貼ったり大会を開くなどして、シンガポールの後方基地勤務で基地内の世話をしたり病院の手伝いをする挺身隊(原文では、"WAC" organizations )の募集を始めた。4人はどうしてもお金が必要だったのでそれに応じたという。ある女の子は、父親が農民で、ひざを怪我してしまったので、応募の際に貰った1,500円(米ドルで12ドル:原文)で、治療代を工面したという。そのような形で集められた18人の女の子の集団は、同年6月にいよいよ朝鮮から南へと出港することとなった。道すがら彼女たちは、日本の大勝利と南方で新しく生まれようとしている共栄圏についての話をたくさん聞かされた。しかし、船が約束のシンガポールに立ち寄っただけで、そのまま通過してしまってからは心配な気持ちが広がり始めた。ビルマのラングーンから北へと向かう列車に積み込まれたときには、もはや逃れられないと運命を悟ったという。

 行き先が、シンガポールのはずであったのに、ビルマの北の果て、最前線に実際は送られたことに対して、彼女たちには何の説明もなかったことが分かる。況や、そこがどのような場所で、いかに危険な場所であるかに対しても、何の説明も行われなかったのは明確であろう。

 一団が、怒江最前線にある松山陣地に到着すると、4人はある1人の年上の日本人女性によって監督されることとなった。この日本人女性は35歳で、それまで職業として売春を行ってきた人物である。彼女も松山の包囲掃討作戦の最中に同じように捕虜となった。この女性の写真と考えられるのが、写真Bであり、写真Aと同じ場所で同じ9月3日に撮影されたものである7)。写真から丁度35歳ぐらいの日本人女性であることが分かるであろう。松山で捕虜になった日本人女性は9月7日にもさらに1人いたことが、写真C8)からもわかるが、写真Bの日本人女性と4人の朝鮮人慰安婦の写真が、松山で9月3日に時間と場所を同じくして撮影されていること、先に紹介したように、9月7日付の中国軍記録でも5人の「敵婦」が捕虜となったとされていること、以上の2つから考えて、この監督をしていた35歳でプロの売春婦上がりの日本人女性というのは、この写真Bの女性に間違いはなかろう。すると、写真Cの女性のことが気になるが、『ラウンドアップ』の当該記事の冒頭では、合計で10人の日本と朝鮮の女性が捕虜になったと記されていることから、写真Cの女性を含め、9月3日以後徐々に、慰安婦の数が増えて、『ラウンドアップ』のいう10人に達したものと考えられる。

写真B1944年9月3日、松山にてアメリカ写真部隊撮影

写真C 1944年9月7日、松山にてアメリカ写真部隊撮影

 更に記事は続く。松山には全部で24人の女の子がいて、「慰安」以外にも兵士の衣服の洗濯や料理、洞窟の清掃などの義務があったという。しかし給料は全く支給されず、故郷からの便りも届かなかった。中国軍が松山を攻撃した際に、女の子たちは地下壕に避難したが、元々いた24人のうち、14人は砲撃によって殺害された。日本軍兵士からは、もし中国軍に捉えられたら、ひどい暴行を受けることとなると教え込まれ、皆その話を信じきっていたという。彼女たちは国元の家族を守るため本当の名前は口にしたがらないが、この2年間に強いられた生活で、日本人の指導者達に対するかつての無邪気な信頼はすっかりひっくり返ってしまったと異口同音に語っていた。

 以上紹介した記事の中で、第1に印象深いのは、手紙が届けられず、報酬も貰えなかった点である。末端の兵士にとって何より元気付けられる故郷からの手紙は、慰安婦達にとっても同様であったはずである。身寄りの少ない貧しい女性を中心に慰安婦を選んだとしても、故郷に全く音信を伝える必要がないわけがなかろう。記事に出てきたような怪我をした父親と、何らの連絡も取れなかったというのはいかなるわけであろう。精神的な支えもなく、給料という現実の報酬もなく、「慰安」と兵士の身の回りの世話に追われる彼女たちの実態は、「奴隷」とさして変わらなかったのではなかろうか。慰安婦の生活を戦況の中で考察してこそ、こうした位置づけが意味を持ってくると考える。実際に彼女たちを拉孟に連れて行った女衒である「K」について、以下のような会話が記録されている9)。

 「悔しい思いをしとります…」それは、1943年のことだ。彼の慰安所にいた「慰安婦」達も各地を転々と移動したが、拉孟の部隊に行った頃から戦況は悪化の一途をたどり、とうとう中国軍に包囲され、身動きできなくなった。その頃K氏は軍御用商人の仕事に移り、彼の手から離れた「慰安婦」達は、実質的には部隊付きになっていた。「私の友人の下士官に女の行方を聞いたんですよ。そしたら、慰安婦を壕に入れろという命令が下り、その直後に手榴弾を投げ込んで殺したというんですわ」

 この回想の中の1943年は、実際は、1944年の誤りであろう。手榴弾を投げ込んだことに関しては、中国軍の9月6日の記録の中に、松山の「黄家水井」に日本軍の死体が106体、遺棄されており、その中に中佐の死体1体、「女屍」6体があったことを付け加える10)。もしかしたら、これが「壕に入れろという命令」により、手榴弾を投げ込んで殺した慰安婦だったのかもしれない。

 最後に象徴的なのは、船で南方へと出港する際に、吹き込まれた共栄圏の理想が、最前線での生活の中で恐ろしいまでに裏切られていったことであろう。それは、慰安婦を連れていった「女衒」達にとっては、最前線に送り込まれる女性達の不安を鎮めるためにした物語のようなものに成り果てていた。アメリカのランドル記者の取材が、そうした日本人や朝鮮人のモラルや動機に向けられていたことが、『ラウンドアップ』の記事から読みとることが出来る。この点は、後述するミチナのケースで、心理情報作戦を遂行するための材料収集を目的として、慰安婦の尋問記録が残されたことと考え合わせ、資料として残される記録自体の性格や歴史的価値を吟味する上で興味深い。

注《浅野論文》



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