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V おわりに

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「慰安婦」問題 調査報告・1999

「半鳥女子勤労挺身隊」について(未作成)




Ⅴ おわりに



1 動員の概要


 これまで述べてきたことの要点(推定を含む)を整理して表にすれば次の通りである。空欄の所は不明である。

出発年月日 到着月日 出身地  動員先  概人数 帰国年月日
 1944 4 慶尚南道 東麻沼津 100 1945  9 30
    5 5 9 慶尚北道 不二越 70-100
    6 6 8 慶尚南道 不二越  100     12
    6 6 15 慶尚北道 不二越 50
    6 6 15 全羅南道 三菱名航 150     10
    6 7 6 忠清南道 三菱名航 150     8
    7 2 7 6  京畿道 不二越 200    6-10
 1945 2 24 3 2 京畿道 不二越 150
    2 26  3 2 全羅北道 不二越   100     10
    2 25 全羅南道 不二越 100     8
    2 慶尚北道 不二越 50
    2 慶尚南道 不二越 150
    2 忠清北道 不二越 100 
  東麻沼津 200     9 30
全羅北道 八幡製鉄所 150
平安北道 長崎造船他 200-300
相模原 150
富山県 1550 
忠清北道 和歌山県 150
江原道 150


2 動員の規模


 動員の規模については、「はじめに」で紹介した約20万人という数字と、作成者不明の「朝鮮人労務者(集団移入者)ノ活用ニ就テ」という文書にある「昭和十九年度」(1944年4月~1945年3月)「女子挺身隊」「割当数」750、「移入実数」750(「昭和十九年度」以外は空欄)という数字がある(金b、9)が、ともに正確ではないと考えられる。

 これまで、見てきたように、「半島女子勤労挺身隊」の日本への出動は、ほぼ確実な資料が示すところでは、東麻沼津に約300名、不二越へ約1100名、三菱名航に約300名、小計約1700名である。それに、根拠があいまいな、不二越と三菱第11製作所の分散工場を除く富山県の各工場(1550名)、長崎(200~300名)や八幡・相模原・和歌山・未詳地(仮にそれぞれ約150名とする)、小計2350~2450名を加えても、総計は約4050~4150名である。1944年度の「割当数」750、「移入実数」750という数字(同上)に照らしても、多くて4000名止まりであろう。

 なお、挺身隊の中には、朝鮮国内と「満州国」に動員された事例もあるが、大多数は富山の不二越、名古屋の三菱に動員されている(李炫石、58。余舜珠、6)。本論文の「はじめに」で紹介した20万名説はとうてい成り立たない。


3.「半島女子勤労挺身隊」の特色


 日本(当時の「内地」)のそれと比べてみた「半島女子勤労挺身隊」の特色の第1は、国民学校の生徒が多かったということであろう。全羅南道の学籍簿に出動の記録が残っている73名はすべて国民学校の6年生で出動している(李炫石、56~58)。年齢は、11歳3名、12歳18名、13歳19名、14歳15名、15歳12名、16歳5名である。「内地」の場合、国民学校はおろか女子中等学校の生徒も挺身隊の対象とはならず、卒業して初めて挺身隊の対象となったのである。女子学習院の挺身隊の対象も18歳以上であった(斉藤、44)。国民学校の6年生が挺身隊隊員として出動した例は「内地」にはないのではないだろうか。

 換言すれば、1992年6月25日までに韓国政府に申告した勤労挺身隊「被害者」245人のうち、「小学校〔国民学校の誤り〕の勤労挺身隊が二百四十四人、高校〔当時の高等女学校あるいは実業学校〕の勤労挺身隊」は1人であった(金・飛田、167)ことに明らかなように、朝鮮では女子中等学校生の挺身隊員がきわめて少ないということである。梨花と淑明の2つの女子専門学校では女子勤労挺身隊が結成されたという事実も動員されたという事実もない。『梨花80年史』『梨花100年史』『淑大50年史』『京畿女高50年史』『進明75年史』『培花60年史』『誠信50年史』『徳成70年史』『啓星50年史』がいずれも挺身隊に言及していないのは、ほとんど関係がなかったからであろう。

 国民学校の生徒が多く、女子中等学校の生徒・卒業生が少数なのはなぜだろうか。当時、全羅北道裡里国民学校の教師であった川岡蔦子が、校長から「できるだけ体格がよく、家の貧しい者を八人選んでほしい」と言われたのがヒントになろう。娘を中等学校に出すほどの比較的豊かな家の生徒・卒業生を動員すれば抵抗が大きくなると警戒されたのではないか。

 第2は、隊員が多様な構成員からなっていたことである。厚生省が1943年11月24日の時点で、「学校単位で女子勤労挺身隊を結成させ供出をなさせる」ことを決定していた(毎11・26)にもかかわらず、朝鮮では、前述したように隊員は、同じ道内とはいえ、異なった地域の異なった身分の人々(国民学校生、国民学校卒業生、中等学校生、青年隊隊員)で隊を構成していたのである。

 第3に、挺身隊の出動者数が少なかったことである。前述したように、4000人止まりであり、「内地」の「終戦時における動員」数47万2573人(労働省、1091)とは、総人口や就学率の違いを考慮しても比べ物にならない。皇民化教育が徹底しえない植民地の民であるがゆえに、動員が難しかったのかもしれない。


4 挺身隊員が慰安婦にされた事例


 『毎日新報』1944月10月27日と11月1日に、「許氏」の名前で「『軍』慰安婦急募」の広告がなされている。同紙1945月1月24日に「京城府」の名前で出された「女子挺身隊ヲ募ル」という広告との違いは一目瞭然である。

 しかし当時から、挺身隊に参加すると「慰安婦」にされるといううわさがある程度広まっていたことも事実である。1944年6月に朝鮮総督府が作成して閣議に提出されたと思われる「官制改正説明資料」には、「未婚女子ノ徴用ハ必至ニシテ中ニハ此等ヲ慰安婦トナスガ如キ荒唐無稽ナル流言巷間ニ伝ハリ此等悪質ナル流言ト相俟ツテ労務事情ハ今後益々困難ニ赴クモノト予想セラル」とある((財)女性のためのアジア平和国民基金、113)。また、三菱名航青年学校教官であった池田英箭は、「韓国では、向こうの親たちが『朝鮮ピ-』(軍隊専用の慰安婦──原注)にさせられるのではないかと不安がっていたのを、絶対にそんなことはない、行儀作法を教え、勉強もさせるからと安心させたそうです」(44)と証言している。

 次に、挺身隊員として出動し、その後「慰安婦」にされた、あるいは、させられそうになった、という証言について検討する。

 姜徳景が姜貞淑のインタビュ-に応えた証言によると、姜は、1944年6月頃、慶尚南道晋州の吉野国民学校高等科1年生のとき、担任教師に言われて、「女子勤労挺身隊1期生」として、他からも集められた150人とともに富山県の不二越に行った。それから約2か月後脱走したところ失敗、晋州から第2陣が到着した後、再度脱走したときに、憲兵に捕まって「慰安婦」にさせられたという(韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会、原書の273~277、訳書の287~292)。「慰安婦」にされたのは脱走後のことで、「挺身隊」の名で「慰安婦」にさせられたわけではない。

 「挺身隊」に入ったと思っていたのに「慰安所」に入っていた、と証言している人に金福童がいる。彼女が慶尚南道梁山で家事を手伝っていた1941年に、区長と班長が日本人とともに家に来て、「挺身隊に娘を送れ」と言われた。下関と台湾を経由して広東で「慰安婦」にさせられたという(韓国挺身隊問題対策協議会・韓国挺身隊研究会、84~88)。

 朴スニ(仮名)は、担任に勧められて、慶尚南道陜川国民学校6年生であった1944年9月ごろ、富山へ行った。寄宿舎に入って、先輩の女性から「挺身隊というけれど、軍人たちの相手をする慰安婦だ」と聞かされた。その後、広島・九州に連れていかれたという(同上、225~231)。

 金ウンジン(仮名)は、京城の光煕国民学校6年の時に校長・よしむらこうぞうの命令で「挺身隊」として、1944年4~5月ころに富山の不二越へ行った。1945年2月末ころ、工場に爆弾が落ちて破壊されたために、生き残った30~40名とともに青森へ行った、そこで「慰安婦」にされたという(同上、238~243)。

 李在允は、1945年3月、全羅南道潭陽で、姉の代わりに「挺身隊」として連れていかれた。麗水から関麗連絡船に乗ったら、そこには「同じような人が一〇人くらい」いた、下関を経由して東京へ行くと、20人くらいの女の人がいて、「慰安婦」として満州や南洋に行けと言われていた。李は幼かったため朝鮮に戻されたという(伊藤b、66~67。朝日新聞社、122)。

 金福童・朴スニ・金ウンジン・李在允の話は、女子勤労挺身隊として動員された他の人々が語る話とくいちがいが多い。彼女らが女子勤労挺身隊として動員されたとすれば、それはそのようにだまされたということであって、「集団的に『軍慰安婦』に充当」されたり、「軍慰安所に直結」させられていたわけではなかったものと思われる。

 しかし、朴スニと金ウンジンの学籍簿には挺身隊に動員された、という記録がある(韓国挺身隊問題対策協議会・韓国挺身隊研究会、225、239)という。それがなぜなのか、そうした事例はほかにもあったのかどうか、今後の研究課題としたい。

 なお、この論文を書きおわって、挺身隊に入ると慰安婦にさせられるという「流言」が本当に流言にすぎなかったのかどうか、それがいまも韓国で広く事実と信じられているのには何らかの根拠があるのかどうか、史料が得られなくて、十分に検討できなかったことを残念に思う。これまた、今後の課題としたい。

参考文献



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