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I はじめに(高崎論文)

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「慰安婦」問題 調査報告・1999

「半鳥女子勤労挺身隊」について(未作成)



Ⅰ はじめに(高崎論文)




1 問題提起


 「従軍慰安婦」問題の波紋が広がり始めた1991年当時、日本では、「朝鮮人従軍慰安婦」は「女子挺身隊」という名によって強制連行された、と広く信じられていた。新聞記者や野党議員等が次のように書いたり、話したりしていたからである。

 「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、『韓国挺身隊問題対策協議会』(尹貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が聞き取り作業を始めた」(『朝日新聞』8月11日付け。金英達編『朝鮮人従軍慰安婦・女子挺身隊資料集』神戸学生青年センター出版部、1992年、40頁。以下、書名・論文名、発行年は論文末の参考文献に譲り、「金英達、40」のように略す。なお、同一人物に複数の著書・論文がある場合はa、bなどと区別する)

 「二十万人もの若い朝鮮人女性たちが『女子挺身隊』として動員された。軍需工場などへの勤労動員だけでなく、その中の八万人近くが『従軍慰安婦』にされたと推定されている」(伊藤a、220)

 「政府が関与し軍がかかわって、女子挺身隊という名前によって朝鮮の女性を従軍慰安婦として強制的に南方の方に連行したということは、私は間違いない事実だというふうに思います」(本岡昭次の発言。『第百二十回国会参議院予算委員会会議録第十三号』、29)

 これらが依拠したのは、おそらく1973年に発表された千田夏光『従軍慰安婦──"声なき女"八万人の告発』であろう。そこには、「『挺身隊』という名のもとに彼女らは集められたのである。(中略)総計二十万人(韓国側の推計)が集められたうち『慰安婦』にされたのは『五万人ないし七万人』とされている」(106)と書かれている。

 ところが、この論拠について調べた金英達によると、千田は、『ソウル新聞』1970年8月14日付けの記事「1943年から45年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は、全部でおおよそ20万。そのうち韓国の女性は、5~7万名と推算されている」を誤読したようだ(金英達b、13~18)。そして、韓国の記者が「5~7万名と推算」した根拠は不明である。

 こうした事態は韓国でも同様であった。1992年1月、宮沢首相の訪韓を前にして、永禧国民学校(旧・芳山国民学校)の学籍簿に5人の生徒と1人の卒業生が「富山不二越挺身隊員トシテ出発」したことや、「二ケ年挺身スルコトニナッテヰル」ことなどが記録されていたことが新聞で公表された。韓国の新聞が日本側に、国民学校の生徒が挺身隊に動員された、という新しい問題を突きつけたのである。

 そのとき、たとえば『東亜日報』は1月16日付けの記事で、「大部分が12、13歳前後であった彼女ら幼い生徒たちは勤労挺身隊に、15歳以上の未婚の少女たちは従軍慰安婦として連行されていった。また、勤労挺身隊として連行されていった幼い少女たちの一部はその後従軍慰安婦として再度差し出された」と書いたのである(朝鮮問題研究所、21)。

 そして、1月17日には、全羅北道女子勤労挺身隊の帰国時の写真を動員時の写真と間違えて掲載したうえで、「悲劇的運命も知らないまま(中略)微笑して記念写真をとっている」とのキャプションを付けている(同上、7)。

 また、国史編纂委員会史料調査委員会委員の李炫石も、同年6月に開かれた「国史編纂委員会史料調査委員会発表会」で、学籍簿の調査をとおしてわかった女子勤労挺身隊の実態について発表したが、調査結果から飛躍して、「動員された者の大部分を日本本土あるいは占領下の軍部隊慰安所の慰安婦にしたのである」(51)「名古屋に動員された者は慰安所に配属された可能性が濃い」(61)などと述べたのである。

 韓国の記者や李炫石が依拠したのは、あるいは1975年に発表された金大商『日帝下強制人力収奪史』「第4章 女子勤労挺身隊」の「数万名に達する朝鮮女性が欺瞞的あるいは強制的方法によって動員され、軍需工場や前方の作業場に投入された。そして、こうした女性のなかの相当数が日本軍の『慰安婦』として犠牲にされた」(115)という記述であったかもしれない。

 1994年になって、余舜珠が「日帝末期朝鮮人女子勤労挺身隊に関する実態研究」で、「軍慰安婦を女子勤労挺身隊という名で動員したかどうかはもっと確認する必要があると思う」と書いた(3)。しかし、同論文が修士論文であり、活字にならなかったこともあって、この問題提起は、韓国ではいまだに重視されていない。

 その結果、韓国の歴史家・姜万吉は、従軍慰安婦問題を研究し取り扱っている団体の名が韓国挺身隊研究会・韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)であることを指摘し、「その動員対象になり、後日、大学教授になった知識人までもが『従軍慰安婦』を女子挺身隊と認識していたという事実」を重くみて(13)、「日本帝国主義国家権力が強制的に動員した女子勤労挺身隊員を集団的に『軍慰安婦』に充当したことはなかったか」と問題提起しているのである(35)。

 また、韓国挺身隊研究会の会長であり社会学者でもある鄭鎮星は、審査委員として前述の余舜珠論文を読んでいたが、女子勤労挺身隊制度が「慰安婦連行の道具」になったとし、朴スニ(仮名)・金ウンジン(仮名)らの例をあげて、「勤労挺身隊への動員が軍慰安所に直結していたとの証言は(中略)非常に衝撃的なものである」と書いている(9~10)。

 こうした姜や鄭の主張、すなわち、「女子勤労挺身隊員を集団的に『軍慰安婦』に充当したことはなかったか」「勤労挺身隊への動員が軍慰安所に直結していた」かどうか、この問題を検討することが本論文の第1の目的である。

 ところで、富山県の不二越鋼材工業株式会社(現在の株式会社不二越。以下、ともに「不二越」と略す)の朝鮮人の元挺身隊隊員らが、1992年4月と9月に日本政府と不二越を相手取り、謝罪と補償を求めて提訴し、12月には三菱重工名古屋航空機製作所(以下、「三菱名航」と略す)道徳工場の元挺身隊隊員らが三菱重工を相手取って提訴するなどしているにもかかわらず、朝鮮人女子勤労挺身隊(当時は「半島女子勤労挺身隊」と呼ばれた。以下、「挺身隊」と略すこともある)については実態がほとんど知られていない。そしてたとえば、根拠を欠いたまま、「日本の軍需工場などに動員された朝鮮女子挺身隊は、ざっと二十万人」(朝日新聞社、120)というようなことが言われている。

 このように基礎的な事実さえよくわかっていない「半島女子勤労挺身隊」についての基本的な史実をできるかぎり明らかにすることが本論文の第2の目的である。


2 研究論文と資料


 「半島女子勤労挺身隊」について簡単ながらもはじめて書かれたのは、1975年に発表された金大商『日帝下強制人力収奪史』第4章「女子勤労挺身隊」であろう。それから15年後の1990年に発表された論文に、洪祥進「朝鮮の青年・少女を挺身隊に」と樋口雄一「朝鮮人少女の日本への強制連行について──実体〔実態の誤り〕調査のための覚え書き」がある。前者は三菱重工業第11製作所大門工場・福野工場(ともに富山県)に挺身隊が動員されたことをはじめて明らかにしたものであり、後者は朝鮮総督府の機関紙『毎日新報』などを使って、荒けずりながらもはじめて挺身隊の全体像を描こうとしたものである。翌年には高橋信「旧三菱重工業名古屋航空機製作所道徳工場」が発表されている。

 「慰安婦」が外交問題となり、宮沢首相が訪韓した1992年1月、挺身隊問題もまた脚光を浴びることになった。そして、同年4月、元挺身隊隊員による訴訟が提起されたことは前述のとおりである。それにあわせて、日韓の新聞などが挺身隊体験者の聞き書きを紹介したが、それらの一部は、1992年に発行された朝鮮問題研究所編『明らかになった女子挺身隊の実相』、金英達編『朝鮮人従軍慰安婦・女子挺身隊資料集』などに収録されている。また、同年には、残っていた学籍簿を調べてまとめた李炫石「光州直轄市・全南地域の挺身隊出挺実相」と、挺身隊の元隊員・元引率者などの証言をまとめた伊藤孝司編著『<証言>従軍慰安婦・女子勤労挺身隊』が発表された。いずれも貴重な調査・聞き書きである。

 こうした中で、1994年に梨花女子大学大学院に修士論文として提出された余舜珠「日帝末期朝鮮人女子勤労挺身隊に関する研究」ははじめての本格的な研究であった。『毎日新報』などの文献だけでなく、31名の元挺身隊隊員の聞き書きを資料として、挺身隊成立の背景、挺身隊の動員と実態を明らかにした、いまのところ、もっともまとまった研究の成果である。

 その後、1994年に、元挺身隊隊員の証言などをまとめた金文淑『天皇の免罪符』が、1995年に「戦後責任を問う『関釜裁判』を支援する会」編『強制動員された朝鮮の少女達』が発行された。また、研究論文として、1996年に埴野謙二・藤岡彰弘「不二越・『一〇〇年訴訟』にむきあう<私・たち>をつくりだすことへ──対不二越訴訟の判決を迎えるにあたって」や、小池善之「戦時下朝鮮人女性の労務動員──東京麻糸紡績沼津工場の朝鮮人女子挺身隊を手がかりとして」などが発表された。

 本論文では、これらの先行研究と資料を踏まえ、韓国の地方紙や「崔孝順インタビュ-」などの新しい資料を使って、朝鮮のどこから、どのくらいの少女たちが日本の工場に挺身隊として動員されたかを中心に述べることにする。そして、先の姜万吉や鄭鎮星らの問題提起を元「慰安婦」(「慰安婦」にされかかった人を含む)の証言に即して検討する。

 なお、挺身隊成立の背景としての労働力の戦時動員政策や、挺身隊の劣悪な生活条件・労働条件などについては、これまでの研究で相当程度明らかにされているので、それらに譲り、ここでは簡単に述べるにとどめる。

 文字資料が極端に少ないので、証言に寄りかかりすぎる点があることをあらかじめお断りする。

参考文献




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