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8.慰安婦の帰還

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8 慰安婦の帰還

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《フィリピン朝鮮人慰安婦捕虜尋問記録》

  慰安婦の帰還も時期と場所によって大きく異なっていると考えられる。南方で日本軍が玉砕した場合、慰安婦も多くが死亡した。玉砕に当たって、慰安婦を殺した場合も知られている。北ビルマの状況については、本論集に収められた浅野豊美氏の論文が詳しく明らかにしている。ここでは、在米韓国人学者方善柱氏の論文に発表された米軍の捕虜尋問記録*2からフィリピンでのケースに触れておく。

  ルソン島ディンガラン湾で保護された5人の朝鮮人慰安婦の場合である。この5人は2組の姉妹を含んでいる。浅野氏が調査したところによると、園田姉妹は姉が28歳、妹が19歳であり、金本姉妹は姉が28歳、妹が22歳であった。もう1人の松本某女は24歳であった*3。5人は貧ゆえに「芸者ハウス」に売られていったが、そこで台湾の台中市に連れて行かれ、陸軍の慰安所にいた。一度朝鮮に戻り、1944年4月29日に全体62名の集団でフィリピンに連れて行かれた。到着すると、いくつかのグループに分かれ、各地のキャンプに分散した。5人は他の5人と共に、クラーク飛行場付近のヒグチ部隊に送られ、タニグチなる人物が経営する慰安所で働いた。それから同飛行場の地区司令部に配属になり、44年10月にはサン・フェルナンドの中村部隊に配属になった。45年1月10日、ここを退却する過程で鈴木部隊に合流し、イボめざして行軍した。途中で慰安婦1人が死亡し、病気の2名はイボに放置された。1月下旬にイボを捨て、4月にイロイロに到着した。部隊は山中を逃げて、ウミライに向かうことになったが、まず2人が逃げた後、のこる5人も部隊を離れ、海岸線を北上した。5月18日米軍の上陸用舟艇が接近したのをみて、手を振り、救助されたのである。

  10人の集団の内、5人が救出されたことになり、他の5人は死亡ないし行方不明である。なおNHKの取材チームは5人中3人の帰国を確認し、園田妹が米国に居住していることを明らかにした*4

■ 「俘虜名票」に関する調査結果概要[厚生省社会・援護局](昭22・1・9)(未作成)

  慰安婦の帰還については米軍がつくった捕虜名簿が手がかりとなる。『資料集成』には厚生省が所蔵する捕虜名票の関連内容が公表されている<i>(4巻、363-366頁)</i>。これは同省社会・援護局が原名票を精査・点検して平成5年(1994年)10月8日に作成した報告である。これによると、原資料は
連合軍作成の英文資料で、個人ごとに出身地、職業等を記載した個人別カード
である。この名票の総数は16万4395人であり、うち女性は829人であり、出身地別に日本786人、台湾24人、朝鮮半島19人である。Comfort Girl(慰安婦)と書かれているのは、日本19人、朝鮮11人(Comfort Unit 1 をふくむ)である。<i>(4巻、363頁)</i>。日本出身者の中で看護婦と書かれている者がもっとも多く、435人ある。タイピスト、秘書、事務員、遠記者など合わせて142人で、他はウェイトレス20人、慰安婦19人、芸者9人、主婦9人、農婦6人などが挙がっている。台湾出身者は看護婦10、農婦5、ウェイトレス3、メード、主婦、Prostitute、店員、タイピスト、無職が各1である。朝鮮半島出身者は慰安婦の他、農婦2、主婦、看護婦、ウェイトレスが各1、無職3である。職業は本人が申告したものであり、ウェイトレス、主婦、農婦、メードはみな慰安婦である可能性が高い。日本人は看護婦と事務職を除いた191人は慰安婦であったとみることができる。台湾と朝鮮は全員慰安婦であったとみても、24人と19人だから、ほぼ10分の1である。

《方善柱氏の論文》

  しかし、この捕虜名粟が全体のいかなる部分を占めるものなのか、資料の性格が明らかにされなければならない。この資料について最初に注目したのは方善柱氏である。氏の論文によると、米国は1954年12月17日にジュネーヴ条約第77条により捕虜名簿と個人別調査書類を日本側に送り、捕虜名簿一部を国家記録保管センターに残した、それは List of Japanese Prisoner of War; Records Transferred to the Japanese Govermnent と題されるものである。名簿は6巻に製本され、17万9498人の姓名、認識番号のみが記載されている。身上調書、すなわち名票は340箱に収められて、日本側に引き渡されたと記録されているとのことである。方氏は日本側が保管する資料を見れば、朝鮮人、その中の慰安婦であった人について知りうるのではないかと述べておられたが*5、厚生省が調査した結果は上記の通りであった。

《沖縄から韓国へ送還された朝鮮半島出身者の名簿》

  方氏はすでにこの資料の性格を考えるために、他ののこる名簿と比較しておられる。まず沖縄から韓国へ送還された朝鮮半島出身者の名簿がある。Headquarters Okinawa Base Command, Okinawa Prisoner of War Camp No.1 で編纂されたもので、朝鮮人収容所第1から第8までに収容されている非戦闘員 1587人が収録されている。うち戦争犯罪嫌疑者46人については別に名簿がつくられている。この嫌疑者を含め、ある程度の人々は上記6巻の捕虜名簿に含まれているようだと方氏は書いている*6。方氏はこの沖縄の名簿には女性が含まれているのかどうか、明らかにしていないが、実はこの名簿は本岡昭次議員が1991年3月31日国会でその内容について質問した資料である。本岡氏は女性と確認できるのが51人、また女性とみられるのが47人含まれていると明らかにした*7。方氏はそれと別に沖縄から韓国に送還された朝鮮人慰安婦147人の名簿も発見され、こちらは全員6巻の名簿には含まれていないと指摘しておられる*8。こちらの名簿も国会図書館所蔵のGHQ文書の中から本岡議員が発見した*9

《フィリピンから送還された軍人と民間人の名簿》

  つぎに方氏はフィリピンから送還された軍人と民間人の名簿を検討して、この名簿の人々は6巻の名簿に入っている、女性はかなり多いとのみ書かれている。そして韓国行きの送還船Etrufd号の乗船者名簿245人中に女性2人の名があるが、その人々は6巻の名簿に載っているとされている*10

(低い保護率、帰還率)

  以上のことからすると、厚生省発表資料の捕虜名票には沖縄とフィリピンでの捕虜が含まれていることが明らかである。しかし、沖縄とフィリピンの捕虜が悉皆的に収録されているわけではない。沖縄の慰安婦147人は含まれていない。フィリビンで保護された慰安婦と思われる朝鮮人女性は浅野氏が米軍尋問記録から21人をすでに数えているので*11、フィリピンの捕虜も完全にカヴァーしていないことがわかる。したがって、この資料から断定的なことは何も言えないが、16万4395人の捕虜集団の中に191人の日本人慰安婦、朝鮮人慰安婦19人、台湾人慰安婦24人がいるとしたら、これは朝鮮人、台湾人慰安婦が少ないことを示すのではなく、彼女らの低い保護率、帰還率を示しているということであろう。

《帰還率の推定》

  沖縄には朝鮮人慰安所が40ヶ所、朝鮮人と沖縄人混合の慰安所が5ヶ所あったと言われる*12。1ヶ所の慰安婦数を10人、混合の場合5人とすれば、朝鮮人慰安婦の総数で425人と推定される。沖縄から帰還した朝鮮人慰安婦のリストには147人が挙げられている。沖縄米軍政府活動報告(1945年11月23日)によると、
沖縄本島以外の琉球諸島から来た慰安婦一一○名に、本島各地から集められた四○名が合流して、朝鮮への出航を待っている*13
とのことである。425人中147人なら、ここでは帰還率は34.6パーセントだということになる。

  この問題については、さらに研究が深められなければならない*14

  1. :朝鮮人慰安婦の帰還率の低さについて
  2. :原注(32)方善柱「米国資料に現れた韓人〈従軍慰安婦〉の考察」(ハングル)、『国史舘論叢』37号、1992年10月、224頁。
  3. :原注(33)浅野豊美「米国ナショナルアーカイヴ慰安婦関係資料調査報告書」平成10年1月23日、12頁。
  4. :原注(34)NHK・ETV特集「アジアの従軍慰安婦・51年目の声」1996年12月28日放映。
  5. :原注(35)方善柱、前掲論文、221-222頁。
  6. :原注(36)同上、222-223頁。
  7. :原注(37)『朝日新聞』1991年4月1日。
  8. :原注(38)方善柱、前掲論文、223頁。
  9. :原注(39)『朝日新聞』1991年8月10日。文書はSCAP文書のBox1967にある。国立国会図書館マイクロフィッシュ版では、LS40637~40638である。
  10. :原注(40)方善柱、前掲論文、223-224頁。
  11. :原注(41)浅野豊美「米国ナショナルアーカイヴ慰安婦関係資料調査報告書」12頁。
  12. :原注(42)吉見・林編、前掲書、129頁。
  13. :原注(43)この資料は毎日放送が入手した。『毎日新聞』1991年11月29日。引用は吉見編『従軍慰安婦資料集』582頁より。
  14. :原注(44)秦郁彦氏は全体としてみれば「九五%以上が生還した」と主張している(秦郁彦「『慰安婦伝説』を見直す」、『「慰安婦」問題とアジア女性基金』東信堂、1998年、198頁)。本稿でみた極限的な事例だけでなく、広く検討していくべきであろう。

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注釈

*1 朝鮮人慰安婦の帰還率の低さについて

*2 原注(32)方善柱「米国資料に現れた韓人〈<a class="keyword" href="g:ianhu:keyword:従軍慰安婦">従軍慰安婦</a>〉の考察」(ハングル)、『国史舘論叢』37号、1992年10月、224頁。

*3 原注(33)浅野豊美「米国ナショナルアーカイヴ慰安婦関係資料調査報告書」平成10年1月23日、12頁。

*4 原注(34)NHK・ETV特集「アジアの<a class="keyword" href="g:ianhu:keyword:従軍慰安婦">従軍慰安婦</a>・51年目の声」1996年12月28日放映。

*5 原注(35)方善柱、前掲論文、221-222頁。

*6 原注(36)同上、222-223頁。

*7 原注(37)『朝日新聞』1991年4月1日。

*8 原注(38)方善柱、前掲論文、223頁。

*9 原注(39)『朝日新聞』1991年8月10日。文書はSCAP文書のBox1967にある。国立国会図書館マイクロフィッシュ版では、LS40637~40638である。

*10 原注(40)方善柱、前掲論文、223-224頁。

*11 原注(41)浅野豊美「米国ナショナルアーカイヴ慰安婦関係資料調査報告書」12頁。

*12 原注(42)吉見・林編、前掲書、129頁。

*13 原注(43)この資料は毎日放送が入手した。『毎日新聞』1991年11月29日。引用は吉見編『<a class="keyword" href="g:ianhu:keyword:従軍慰安婦">従軍慰安婦</a>資料集』582頁より。

*14 原注(44)秦郁彦氏は全体としてみれば「九五%以上が生還した」と主張している(秦郁彦「『慰安婦伝説』を見直す」、『「慰安婦」問題とアジア女性基金』東信堂、1998年、198頁)。本稿でみた極限的な事例だけでなく、広く検討していくべきであろう。